「アルルは今日、何読んでたの?」
 勝手に絨毯に上がると、マリキヤはアルルが持つ紙の束を覗き込んだ。
 アルルに教えてもらってマリキヤも多少読み書きができるようになったが、紙一面に並んだ文字を見るとどうしても尻込みしてしまう。
「『門番』の話」
 ようやく紙を全て束にしたアルルは、それを手にしたままクッションを背に座る。空いた片側を示されたので、マリキヤも並んで腰かけた。
「『門番』? それ、僕も知ってる話?」
「《ダンダルド》と《ガランダル》の話。知ってると思う」
 フードの下で小首を傾げられ、マリキヤははて、と考え込む。確かにその名前は、彼にも聞き覚えがある気がした。
「えっと、喧嘩する話。喧嘩して暴走して」
「あ、世界が繋がる話」
「そう、それ」
 マリキヤが即座に思い出せなかったことでうろたえていたアルルが、目元は見えないがそれでもほっとしたのが分かった。

 それは御伽噺だ。
 昔々、ダンダルドとガランダルという兄弟がいた。
 とある日始まった二人の兄弟喧嘩は止まることを知らず、二人が本気でぶつかり合う魔法での争いにまで発展した。
 しかし、魔法とは自然の在り方を無理に捻じ曲げる力であることを忘れてはいけない。
 魔法に精通した二人が全力でぶつかり合うことにより自然に、世界に歪みが生じ、歪みは此の世界と彼の世界を繋ぐ「穴」となった。
 弟であるガランダルは穴に吸い込まれ、帰らぬ人となった。
 兄であるダンダルドはそこで二人が仕出かした事の愚かさと重大さに気付き、穴を通り抜けるモノを監視する「門番」になったのだという。
 この言い伝えから此の世界は《ダンダルド》、彼の世界は《ガランダル》と呼ばれるようになった。

「でも、そのお伽話を何で?」
 数年前にマリキヤがアルルから教わった話だ。
 南の方では子供向けの演劇や歌劇にもなっていると聞くが、話の内容を記憶しているアルルが読み直すほどのものとも思えない。
「行けるのかなって。《ガランダル》」
「……え?」
 マリキヤは自身の声が裏返り、全身からざざっと血の気が引いたのを感じた。
 街の人間はアルルの事を他所者の落ち零れ魔法使いと称して見下した。マリキヤがさりげなく本人に確認したところ、彼は魔法が苦手だと言う。
 しかし、元からの性格なのかはたまたこんな街中でも理解者がいるのか、アルルがその事を気にしている素振りを見せたことはない。劣等生と揶揄されるマリキヤを格下に扱うこともなかった。
 だからこそ彼と共にいるのは居心地が良くて、戸惑われながらも彼の家に足繁く通い、こうして入り浸るまでに至ったのだ。
 もしアルルがこの街からいなくなることがあれば、正直、マリキヤはやっていける自信がない。
「あ……行かない、行けるかなって、でも行かない」
 マリキヤが余程酷い顔をしていたのか、アルルがおろおろと言葉を紡ぎながら手を重ねる。彼の手の暖かさに初めて、自分の手が冷えきっていたことにマリキヤは気付いた。
「……じゃあ、何で?」
「行ける、行けない、行ける、行けない……」
 マリキヤを宥めようとして慌てて喋ろうとするがあまりに、更に意味の通らない発言をし、より慌てて最早恐慌状態に陥っているアルルに、マリキヤはぷっと吹き出した。
 破顔した彼に少し落ち着いたのか、アルルはこくこく数度頷いて口を開いた。
「ヒトは、死んだら皆カミになる」
「……え?」
 カミとは、所謂自然の意思だ。
 カミを従わせ、意のままに操る力が魔法であり、その制御に失敗し、逆にカミに意識を乗っ取られた状態が魔物化だ。この街でその昔、ブラントミュラーが提唱した説は今では立証され、魔法使いたちに幅広く受け入れられている。
「カミは彼の地《ガランダル》に惹かれる。カミは誰しもが彼の地を目指すし、簡単に行ける。でも、ヒトとして生まれたら、誰も覚えてない」
 フードに隠された彼の表情は見えないが、ぱらぱらと紙を弄びながらぽつぽつと告げる彼の口調は、どことなく寂しそうだった。
「だから行ける。だから興味ない。だから、行かない」
「でも、じゃあ、何で、行けるのかなって考えてたの?」
「ダンダルドとガランダルは実在した。ガランダルはヒトとして世界を渡った。でも、ヒトが自らの意思で世界を渡った例はない。まだ」
 まさかお伽話の人物が実在したなどとは思いもしなかったマリキヤは、ぽかんと口を開ける。
 冗談かとも思ったが、冗談を言えるほどにアルルの口は上手くない。
「だから探してる。ヒトがヒトとして世界を渡る術」
「そしたら、僕も向こうに行けるかな?」
 思わず身を乗り出したマリキヤの口から滑り出た言葉にアルルは彼に向き直る。何と切り出そうか迷ったのか数度口をぱくぱくさせると、ようやく言葉を発した。
「世界は、広い。彼の地に赴かなくったって、この街を出ればいい。出ようか?」
 アルルの提案にマリキヤの思考は真っ白になる。
 息苦しさを感じながらも、この息苦しい中で生きていくしかないのだと、そう決めつけていた。
 自分が街を出る。その実感が持てず言葉をゆっくりと噛み砕いている間に、アルルの腹がぐぅと鳴る。
 恥じるように既に隠れている顔を更に隠しながら立ち上がるアルルに続いてマリキヤも立ち上がる。食事の準備は二人で一緒にと、暗黙の了解ができていた。



 次の日、マリキヤは初めて街の外に出た。
 昔は魔物襲来の度に固く閉ざされたという防壁の門も、森が接近してきてからというもの、閉めたことはないらしい。というのも、街の中で魔物化が起こるので、外敵として排除する必要がなくなったからだ。
 だというのに、マリキヤは一度も外に出てみようと思ったことがなかった。
 誰も外に出ないから。ただそれだけの理由だ。
 街の門があるのは、まだ森に覆われていない側だ。天気が良ければ街中からでも、開けた草原の向こうにヴィルトフェルトの街が見えるのは知っていたが、実際に出てみると爽やかさが違った。
 防壁に遮られることのない青い空がどこまでも続き、澱みを知らない風が広大な野っ原を吹き抜ける。
 「自然の意思を捻じ曲げるのは大変なことなのだ」と魔法使いの端くれとして寝物語のようにして教えられてきたが、防壁の内に隔離されていた時は実感が持てなかった。だが、自分のちっぽけさを感じる今ならば、少しだけ理解できるような気がする。
 門から一歩出た距離で既に立ちすくんでいたマリキヤだったが、気を取り直し門の横に杖を隠すと防壁の外周を回り、裏の森に一歩足を踏み入れた。
 野っ原とは違い、清涼とでも形容しようか、ひんやりとした空気がマリキヤを包む。
 ひらひらと舞う蝶を目で追い、茂みの中から走り出した狼に腰を抜かした。木漏れ日は心地よく穏やかで、魔物が巣食うと恐れられた森の中にいることを忘れそうだった。

 



The Story Teller
月影草