森の出入り口が、街の防壁が見える辺りをゆっくりと散策し、見つけた小川の横にごろりと寝転がる。
 清流が太陽に照らされてきらきらと煌めき、頭上では小鳥達が囀っている。
 あまりの穏やかさに、後でアルルと一緒に来ようと決める。のんびりとした性格の彼は、きっと気に入るだろう。
 心地よい眠気に誘われて目を閉じた正にその時、街の方からくぐもった悲鳴が耳に届いた気がして、マリキヤは身を起こした。音が反射しているようにも聞こえるし、まさか森に人がいる訳もないから、防壁の中からだろうと思う。
 しかし、何故。
 首を傾げながら立ち上がると、街へ向かう。
 悲鳴。怒鳴り声。喧騒。怒号。
 鬼気迫る呪文の詠唱。
 街の中に魔物でもまた現れたのかとも思ったが、それにしても様子がおかしい。理由もなく背筋が冷える。
 門の陰に隠してあった杖を手に取って、こんなにも安心した事があっただろうか。
 そのままそっと街中を覗き込んでみるが、既に通りは静まり返っていた。だが、中から漂ってくる濃い血の匂いは尋常でない。
 杖を抱きかかえるように握り締め、できるだけ物陰に隠れながら忍び足で通りを歩く。
 あちらこちらに血だまりが出来、中に人が倒れている。どうみても彼らは息絶えていた。
 街の中心をまっすぐ通る道をやめ、防壁の内側を沿う小路を必死で駆け抜けた。手入れの行き届いていない植木や家の壁、防壁に伝う蔦に杖が引っかかり捨て置きたくもなるが、マリキヤの力を底上げしてくれるものを今この状態で捨てる訳にはいかなかった。たとえお守り程度の役にしか立たなかったとしても、だ。
 永遠にも感じられる時間をかけ、ぜぇぜぇと息を切らしながら辿り着いた小屋は主に似て、ゆったりと白い煙を煙突からぽくぽくと吐いている。
 窓に背を向けて立ってる緑色の人影も中に見え、マリキヤはほっと胸を撫で下ろして速度を落とした。
 が、マリキヤが安心したのも束の間、その人物は投げ飛ばされるように窓に倒れこむ。どうやら訪問者がいるらしい。
 思わず駆け寄ろうとしたマリキヤに気付いた彼が、あっちに行けと手を振る。
 彼の切羽詰まった様子に立ち止まったマリキヤの前で、彼のフードが剥ぎ取られ、下から青みがかった銀髪が零れ出る。
 マリキヤが初めて見た彼、アルルの顔は、マリキヤが想像していたのよりも大分若くて。
 焦った表情の彼が、窓の向こうから何かを訴えかけてる。
 何を、と真っ白な思考の中で考えを巡らせるマリキヤの前で、紅が舞い散った。アルルが、窓の下に沈んでいく。
 そこでマリキヤはようやく気がついた。
 アルルの背後、彼の体を押さえつけて短剣を引き抜き、吹き上がる血飛沫を満足げに浴びている女がいることに。
 そしてそれが自分の母親であることに。
「なんて……なんてことしてんのさ……っ!」
 怒鳴り散らしながら主を失った家にずかずかと入り込み、上から下まで真っ赤な服を着こなした女と対峙する。
 あんな赤い服を彼女が持っていたなど、マリキヤは知らない。それもそうだろう、服は今日、赤く染色されたのだから。
「丁度良いところに来たわね、マリキヤちゃん」
 手にべったりとついた赤い液体をねぶるように舐め、「甘くないわぁ」と残念そうに独り言ちた。
「この子、やっぱり甘くなかったわぁ。皆、噂してたものね。素質ないって」
 うふふと笑いながら彼女がマリキヤに近付く。
 マリキヤも覚えのある甘ったるい匂いが脳天を叩き、吐き気と眩暈がする。手にしていた杖を床に突き刺し、なんとか体の平衡を保った。
「アルルに、アルルに、何を……!」
「だってマリキヤちゃん、バカにされてたでしょ?」
「だからって……アルルは関係ない! こんな、これは……復讐のつもりなのかっ!」
「復讐? そんな物騒な事はしないわよぉ。お母さん、マリキヤちゃんの為に、力、集めてきちゃったぁ」
 自分の母親だというのに、彼女が何を言っているのか理解できない。
 ぐらぐらする頭が、それはあの白い花の、マリキヤが持たされていた一本目の杖の、あの匂いなのだと結論を弾き出す。
 それがどうしてこんな、血の匂いが充満している中で香り立つのかが分からない。
「力ある魔法使いの血液は甘いんですって。マリキヤちゃん知ってた?」
「知らない……」
 母親が一歩ずつ近付く毎に、甘い匂いが立ち昇る。
 マリキヤが彼女をきっと睨みつければ、目の前に立つ彼女は彼の頬を優しく撫でる。ぬめりとした感触に、肌が粟立った。
「それでね、なんと! 甘い血液を浴びることで、その魔法使いの力を吸収できるんですって! すごいと思わない?」
 腹の内から酸いものがこみ上げてくる。よろめいて膝をつきそうになるのを、何とか耐える。
 今、鏡でも覗けば珍しく蒼白な自分の顔が拝めただろうに、もったいないことをした。
「だから、この街に住む名家の皆さんの血を浴びてきたわぁ。皆すごぉく甘かったの……さすが世代を重ねた名家の血筋は違うわぁ。こんな、どこの馬の骨とも知れない子と違って」
 それはまるで、初めてアクセサリーを身につけた少女のようなはしゃぎようで。
 アルルが知っていたのは、この方法だったのか。「苦しくなる」とは、このことだったのだろうか。
 今考える必要のない事柄が、脳内をぐるぐると駆け巡る。
「だからね、今、お母さんが世界最強の魔法使いなのよ。だから」
「あぁ……」
 母親が短剣を構える。
 マリキヤが目の端で捉えたそれには、赤いものがべったりとついていて。
「あぁああ……」
「この力の全てをあなたにあげるわ! 受け取って世界最強の魔法使いになりなさい!」
 止める間もなく、彼女は自分の首筋にそれを突き立てた。
 勢いよく抜かれたそこから吹き出す赤い液体が、マリキヤの全身に降り注ぐ。
 杖が滑り、支えていられなくなった体が床に崩れ落ちる。もたれかかる用に倒れてきた女の体を、振り払うように突き飛ばした。
「あぁぁぁあああぁぁああああーーーー!!」
 マリキヤの絶叫は、最早誰にも届かない。



 その後の事はマリキヤもよく覚えていないが、血塗れで彷徨っていたところをヴィルトフェルトの住民に保護されたのだと聞かされた。
 もう、 二百年も前の事だ。




The Story Teller
月影草