もし地上でまだ四季というものが仕事をしているのならば、おそらく季節は変わっているのだろう。端末や飲み物を片手にのんびりと過ごしている人々を横目に、イライザは東エリアのカフェテリアを足早に素通りする。今日は植物を愛でて季節を感じるよりも、人のいない場所で静けさを味わいたい。
 結論から言えば、イライザは正しかった。西エリアの空気には東エリアにはない化学物質の汚染がある。それが一号機の化学反応を乱し、停止に追いやった。だからイライザ率いる化学チームは、なんとしてもその汚染物質を含んでの循環化学反応式を編み出さねばならない。早急に、と焦れば焦るほどに化学式のバランスは崩れていく。どうしようもなく煮詰まったため、全員で気分転換の一休憩としたのだ。再計算が一筋縄でいかないことはイライザも重々承知している。前回はヒョーガも含め、数ヶ月間頭をつき合わせてようやく調整が終了したのは記憶にまだ新しい。バランスを取りながらも全ての物質を余すことなく循環させるのは、ある種の芸術なのだ。
 東エリアの公園は、ヒョーガと共にその3Dモデルを見ている。しかし目眩を起こしていたこともあり、青い雰囲気しか覚えていない。実際に一歩足を踏み入れてみれば、降り注ぐ日光が水の中できらきらと揺らめき煌めいていた。小魚の群れの動きに合わせて海藻が揺れ、大きな影が視線の端をかすめる。エイが大きなヒレを広げてゆうゆうを泳ぎ去っていった。まるで水族館だ。
 イライザは本物の海を知らないが、水族館ならば知っている。水生動物を保護するため地上に作られた施設だ。
「保護と破壊の差はどこにあるのかしらね」
 背後に立った気配と甘い匂いに、イライザは言葉を投げかける。話しかけられるとは思っていなかったのか立ち止まった気配を、彼女は振り返った。
「保護と言っても、ヒトが環境に手を加えることに変わりはないでしょう?」
「まぁ、元々彼らが生息していた場所から連れ去るのはある意味ヒトのエゴだろうね」
「多くの動物は巣を作るし、毎日寝床を作る動物だっているわ。けれど彼らの営みが環境破壊として語られることはない。それはなぜ? 彼らがヒトではないから?」
 突如吹っかけられた議題に、エリカは苦い笑みを隠さない。こういう議論は苦手なのだろうとイライザは見てとった。
「そういう話はヒョーガとやってほしいものだね。あいつの好きそうな議題じゃないか。あたしはそういうまどろっこしいのは嫌いなんだよ」
「えぇ、ヒョーガがこの場にいれば彼に振ったわ。でも残念。彼は今、子猫ちゃんのお世話で忙しいの」
 ぐしゃぐしやと髪を掻き乱すエリカの口から「あんのバカ……」と悪態がこぼれる。イライザは強く彼女に同意した。子猫ちゃんを言い訳に、一人で逃げ出した罪は重い。
「土壌汚染を防ぐために農薬を減らせば、伴って収穫量も減るでしょう。環境に配慮した最新機器を導入し続ければ古い機器は廃棄され、ゴミが増えるでしょう。そもそも雑食であるヒトが菜食主義を続ければ、どこかで身体を壊して医療の世話になる。もしくは足りない栄養素をサプリメントで補うのかしら。どちらにせよ科学技術の介入が必要だわ。不足が分かること、が既に科学の恩恵ね——ねえ、八方塞りだとは思わない? ヒトとして生きること。それが既に環境を汚染だというのなら、環境保護のためにヒトは死ぬしかない。でも、そんな議論が行われることはない」
 エリカは何も言わない。手持ち無沙汰な手を白衣のポケットに突っこむのは、口なぐさめの菓子でも探っているのか。イライザの論旨が到着する先を見守ることにしたらしい。
「生物には生き残ろうとする、自らの子孫を残そうとする、生存本能がある。そんな生物としての本能を差し置いて他の種を守ろうとするヒトの存り方は矛盾しているわ。それとも、ヒトが絶滅危惧種になった時助けてくれる存在があるのかしら」
「ヒトはいわば上位種だから、己を律し、他者を管理して当たり前なんだよ」
「ヒトは上位種だから、生物としての営みは許されない、と?」
ポケットの中から小さな箱を取り出したエリカは、無言で中からころころと四つの球体を手に転した。四つまとめて口の中に放り込むと、手中の空箱をくしゃりと握り潰す。
「おかしな話だと私は思うわ。ヒトだけが隔離された箱庭に暮らしているのならばともかく、同じ生物として地球上の資源を使うのに、ヒトは別枠として議論は進む」
「海底都市でなら彼らの主張を認めるっていうことかい?」
「そうね。ここはヒトが作ったヒトの管理する世界。ならば連れ込んだ生物はヒトの管理下にあってしかるべきだわ。でもね、エリカ。私はそんな責任、ごめんだわ」
 先程エリカが口に放り込んだのは、どうやらガムだったらしい。くちゃくちゃと噛んでいた彼女が突然ぷぅとガムを膨らませると、合成香料の匂いが広がった。フレーバーはグレープか。
 ぱちんと弾けたガム風船を舌で器用に回収すると、エリカは聞く。
「なぜ?」
「なんらかの理由でヒトが死に絶えたのならば、連れてこられた生物は自力で生き残れるかしら? 私は、いかなる生物もヒトに頼り切るべきではないと思うの。過去に疫病予防のため、環境保護のため、家畜は一方的に屠殺された。ヒトが作り出した環境に適応しすぎたがために、ヒトの環境保全活動によって生態系が崩れた例も多々あるわ。『環境保護』の名の下に、ヒトが守ろうとしているのは、なにかしらね?」
「そこまで語るあんたはじゃあ、なにを守るんだい?」
「私? そうね、言うなればヒトの未来かしら」
 ヒトが、己の能力を最大限に活用して生き残っていく未来。環境変化に適応できるものだけが生き残っていくこの自然界で、科学力を駆使し他の生命体を死に追いやってでも生存していくのはある意味、自然な姿なのではないだろうか。もしその過程でヒトが絶滅するのならば、ヒトの環境適応力はそこまでだった、ただそれだけの話だ。
 未来ね、と小さく呟いたエリカが天井を見上げる。釣られてイライザも見上げれば、ジンベイザメがゆるりと旋回した。

 



科学技術に咲いた花
月影草