「未来と言えばそういや、あんたらは聞いているかい? 誰かが妊娠してるって噂」
 エリカがガムを噛むくちゃくちゃとした音に不快感を覚え、イライザは眉をひそめた。妊娠と言われて思い浮かぶ顔はひとつしかない。噂になっているということは、お腹が目立ってきて気づく人が増えてきたということか。一号機を再起動していない現状、人口増加はなんとしてでも避けたい。
「それはただの噂? それとも医療室の診断?」
「医療室に来る人たちの噂話だね。まだ本人は診てないよ」
「誰かが妊娠していることは確定かしら……」
「おや、科学都市で初めての子供だよ? おめでたいじゃあないか」
 からからと笑うその様子が、子猫を追いかけて地上に残った東洋の男を思い出す。こちらの心労を知りながらからかうノリだ。思わず半眼になった。
「おーおー、管制室はさすがに余裕がないね! もしかしてもう科学都市存続の危機かい?」
「そうね……」
 エリカも一応は科学都市の運営側とはいえ、循環炉が一つ停止していることは知らせていない、部外者だ。正直に話してしまっていいのかどうか逡巡し、状況を完全に楽しんでいる色をエリカの瞳に見つける。カマをかけられたようだ。
「今更じゃないか。名簿に載ってない輩が多いんだ。元々の予定より多く来てるんだろう? まぁ、管制室がそこまで逼迫してるってのは知らなかったけどさ。子供一人増えるのも無理かい?」
「赤子の代謝量ならばまだ持ちこたえるかしら。でもそうね、科学都市の住民全員を危険に晒すか、子供一人を見捨てるか、その瀬戸際よ」
「なるほどね。道理でピョートルが沈んだ顔をしているわけだ」
 エリカだって科学都市にいる以上、他人事ではない。だというのに彼女の態度は映画やゲームを楽しむそれだった。悲壮感にくれるのはイライザの性に合わないとはいえ、エンターテイメントとして楽しむほどではない。人の生死がかかっているのだ。
「間引こうか?」
 にやにやと笑うエリカの言葉に虫唾が走る。彼女の背後では小魚の大群が押し寄せ、そして散っていった。
 科学都市の人口調整は管制室の仕事だ。だが、あくまでもそれは出生コントロールであって、積極的に介入して人口を減らしていくのは話が違う。
「今はさ、まだ生まれてないから生むなって言ってるんだろうけどさ。生まれてしまったら」
 エリカに見据えられ、イライザは即答できずに唇を結んだ。
 先程エリカにも告げた通り、イライザは未来を守りたいと思っている。環境保護に乗り気でないのも、環境変化に適応できずに絶滅しかけている種よりも、種が絶滅した後に生まれるであろう新しい生命体を大事にしてもいいと思うからだ。だから、今から生まれてくる命は、赤子は、イライザにとってなによりも優先して守るべきものだ。
 だというのに今のイライザはただ、「現時点で生きている人」を優先している。そこに矛盾を抱えていることは、エリカに指摘されずとも分かっていた。それでもイライザには、生きている人を殺してでも赤子を守る決断ができなかった。そんな決断を迫られなくてすむように願い、先延ばしにしているのが現状だが、決断の時は刻一刻と近づいてきている。
 反応式を完成させれば首は繋がる。子供は産ませてやれる。けれど、子供が生まれてから循環炉が再び停止したら? 出産を許可したことをイライザは悔やむのだろうか?
「良い顔をするねぇ、あんた。まったく、ヒョーガにはもったいないよ」
 イライザの表情をじっと眺めていたエリカが舌なめずりをする。彼女が楽しんでいるのはこの状況だけでなく、イライザの反応もなのか。
 彼女は危険だ。彼女は、破滅だ。


「五年も経てば、人口の一人や二人は減るさ。管制室はその程度も乗りきれないのかい?」
 歪に笑いながら告げるエリカの顔が、イライザの脳裏から消えない。
 イライザから報告を受けたピョートルは、呑む酒も底ついたのか、ただ頭を抱える。イライザはイライザで吐くため息すらも品切れだ。
 五年内に人口は確実に減るだろう。事実、地上からの移住者の中には、平均寿命より長生きしている人々がいる。彼らが五年内に亡くなる可能性があるのは、イライザやピョートルも理解する。
 しかし問題なのは、発言者がエリカということだ。妙な噂の絶えない彼女だ。管制室が「人口を減らせ」と言えば、いかなる手段を講じても彼女は減らしにかかるだろう。彼女の言う「減る」が自然減なのか、人為的に介入するつもりがあるのか、イライザにはまったく読めなかった。
「そういう、信用できん奴をプロジェクトに入れてんじゃねー……」
「なまじ腕が良いだけに困ったものだわ」
 平静を装って呟けば、他人事のような響きになった。お陰でイライザはピョートルに睨まれる。だが致し方ない。イントネーションとは時に非情だ。一つ誤っただけでまったく違う印象を与えてしまう。
「まぁいい。こう言っちゃあれだが、俺たちに関係するのは数値だけだ。増減の過程は問わんから、医務室に任せておけ」
「そうね。循環炉が無事に再起動できれば、今回の出産は許可しても大丈夫かしら。でも少なくとも申請はしてもらわないと、他に示しがつかないわ。彼女、あなたにお熱じゃない。最近は会いに来ないの?」
 気を取り直し、イライザはデスクに放り投げていたペンを握る。慌てすぎて化学式内のCとOを間違えたらしいのだ。もう少しで完成するというところまできていたのに、やり直しになってしまった。彼女が視線を感じて顔を上げれば、ピョートルが渋い顔をしていた。他に何か問題でもあっただろうかと彼女が首を傾げれば、「言い方」不機嫌な声で指摘される。
「男女関係ありそうな言い回しすんな。誤解するだろうが」
「あら、違ったの? 彼女、私のことは露骨に避けるんだもの。あなたを狙ってきているんだわ」
「それ、俺が舐められてるってだけの話だろ」
 イライザは素材の提供者として、西エリア担当建築士の彼女とは一応共に仕事をしていた。だが、彼女がイライザの存在もメッセージもなにも完全に無視するが為に事が進まなかった。最終的に、彼女の担当がイライザからヒョーガになった前科がある。代わりにイライザは彼女の名前を一片も覚えていないのだから、ある意味お互いさまなのかもしれない。
「とにかく、この間素材の話をしてからは会ってない。申請もせずに妊娠してるってのなら、今は隠れて産むんじゃないのか? まぁ、わざわざ隠れてんのか、たまたま会えてないのか、その辺までは分からんけど」
 言ってピョートルは伸びを一つ。ついでにあくびも一つ。彼が寝不足なのはいつものこと。ピョートルの目の下が、濃い隈の指定席だ。
「そういえば、管制室から個人にメッセージを送れたな。申請リンクでも送っとくか」
 キーボードを手元に引き寄せぱちぱちとうち始めるピョートルを、イライザはただ見つめていた。




科学技術に咲いた花
月影草