第4話 命の優先順位



『姐さぁん、タスケテ』
 インカムからか細く聞こえた情けない声に、シャワーを浴びていたイライザは髪を乾かすのもそこそこに、管制室に飛び込んだ。彼女を呼び出したリコは泣きそうな顔で半分が真っ赤に、残り半分が黄色に染まった画面の前に座っている。真っ赤な半分はエラーを起こしてどうやら停止した一号機、黄色の半分が一号機の肩代わりをして最大出力の二号機だ。
 神にでも祈っているのか、リコは両手をしっかりと胸元で組んでいる。イライザは彼が泣きそうだと思ったが、本当に泣いていたのかもしれない。丸い瓶底眼鏡の奥に見える目は、真っ赤に充血していた。
 デスクにぽつんと置かれたビール瓶は良く冷えているらしい。水滴がすっと机に垂れた。そんなビール瓶の持ち主は、イライザの見える範囲にはいない。
「姐さんどうしよう、もう駄目かもしれない」
「まず何があったのかを聞かせてちょうだい。画面の故障だったら嬉しいんだけれど」
「残念だったな、イライザ。そんな簡単な話じゃあなさそうだ」
 管制室の奥、循環炉第一号機の裏からにょきっと現れたピョートルに、リコは蒼白だった顔を土気色にする。先日の西エリア窓サイズの件でリコを巻き込んだことを、イライザは申し訳なく思っていた。その彼がこうしてまた、遭遇しなくていいトラブルに居合わせてしまうのは不幸でしかない。
「一号機が止まった。今のところ再起動できてない。これで説明は十分か?」
「分かりやすすぎて涙が止まらないわ」
 洒落た冗句でも言うつもりだったのかピョートルは口を開くが、そのまま閉ざした。さすがのイライザも口元に浮かぶのは苦笑で、軽快な切り返しはできそうにない。絶望に倒れそうなリコの手前せめて軽口でもと思ったのが逆に重圧になった。
「イライザ、あんたも一号機の状況を確認してくれるか」
「えぇ、そうするわ。あなたの見立ても訊いていい?」
「先入観はない方がいいだろ?」
「あなたの見立てを信用しているわ。今日は何も聞かなかったことにして、部屋に帰って映画でも見てみようかしら」
「どうせあんたが見るのは密室ホラーだろ? ならここで見ていけよ。3Dだし、なにより空気感は本物だ」
「残念。私、映画には明らさまな作り話を求めるタイプなの」
 肩を竦め、イライザはピョートルとその立ち位置を入れ替わった。どこが悪いのか、完全に沈黙しているそれを、彼女はそっと撫でる。
「物理的に壊れている箇所はなかったのね?」
「少なくとも俺は見つけなかった。だが一応あんたも見てくれ」
「了解。リコ、あなたも来る?」
 イライザ・ピョートルの両名が揃ったことで多少は安心したのか、リコの顔色は先ほどよりましになった。だからと思ってイライザが話を振れば、彼はぶんぶんと首を振った。
「嫌ですよぉ。姐さん、僕がなんで理論物理学にいると思ってるんですかぁ……僕、ぶきっちょなんで器具を壊さずに実験とかできた試しがないんです……だからそういう、人命に関わるような大切な物には近寄るのも怖いんで勘弁してください……」
「そうだったの? いつだったかあなたが出したデータ、すごく綺麗で感動したんだけれど」
 イライザは褒めたつもりだったのだが、リコは「ひぃ」と小さく悲鳴を上げて縮こまってしまった。いつものことなのか、ピョートルが慣れたようにリコの肩をぽんぽんと叩いて慰めている。
「とりあえずこっちは留守番してるから、調査はよろしく頼んだ」
「頼まれたわ。行ってきます」
 目の前に迫った循環炉をイライザは見上げる。
 科学都市に移住して九ヶ月。廃墟になるには、まだ早い。

 懐中電灯を手に、循環炉のパイプに沿って一巡したイライザだったが、結論から言えば異常はなかった。となると、循環炉内部での異常か。更に気が重くなったイライザは、こっそりため息をついた。
 インカムで呼び寄せた化学チームメンバーに、パーツ毎の再起動を依頼し、イライザは制御コンピューターが吐き出したログを目で追った。エラーらしいエラーが見つからないまま焦りと苛立ちだけが募る。
 ログの最終行に辿り着いてしまうと、さすがにイライザも大きく息を吐いて背もたれに寄りかかった。まだ新しいそれは軋むことなく彼女を受け止める。
 循環炉の一号機と二号機はまったく同じ性能を持つし、エリアの分担もない。だが物理的な近さゆえに一号機は西エリアを、二号機は東エリアを主に担当しているのが現状だろう。明確な担当管理はない。
「西エリアはどうしてこうも……」
 小さく呟いて、イライザは跳ねるように立ち上がる。
 エリアでの違いがあるとすればそれは、西エリアに使われたという環境に配慮した素材とやらではないのか。その昔、シックハウス症候群というものが存在した。建築材からの揮発成分などによる体調不良だ。都市内で体調不良は今のところ報告されてはいないが、もし西エリアの建築材から予定にない化学物質が揮発しているのならば管制室が困る。多種多様な化学反応の繊細なバランスの上に成り立っている循環が立ち行かなくなるからだ。もしそれで化学反応のバランスが崩れた一号機が停止したのならば、一号機の肩代わりをさせている二号機もやがて止まる。
「あ、姐さん、どうしたんですか……?」
「東エリアのダクト! 成分表を出して!」
「は、ハイッ!」
 裏返った声で勢いよく返事したリコがデータを漁る。隣でイライザが探すのは、西エリアのデータだ。焦ってディレクトリを右往左往していれば、ことりと小さな音を立ててマグカップが差し入れられる。紅茶の、いやそれだけではない芳香な香りがふわりと漂った。
「ティー・ロワイヤル……?」
「紅茶だ。ちょっとは落ち着け」
 リコに同じ物を差し出すピョートルは既に何かを悟ったのか、僅かに顔が強張っている。
「あの子たち、呼び戻してくれる? それから、申し訳ないけれどシフト調整お願い。暫く化学チームは再計算で忙しくなるから」
「あぁ」
 デスクから離れたピョートルがインカムに向かって喋り出す。彼が淹れてくれた紅茶にありがたく口をつければ、やはりブランデーの香りが立ち昇った。




科学技術に咲いた花
月影草