麓からの道は、結構な急勾配でカサローサ旧市街へと続いている。その坂を上る途中、一枚の外壁を通り抜けた。
 否、外壁とは名ばかりで、そこにあったのは瓦礫の山だ。壁の原型が残っていればまだ良い方だが、辛うじて残こっている門にはこじ開けられた痕が、壁には抉るように刻まれた攻撃の痕が残っている。
 何よりスカイアを驚かせたのは、たった20年前のことだとは思えない風化の酷さだ。
 カサローサに到着した日、うっとりとした表情で湖から見える都の姿を楽しんでいたクロバは、痛々しげな表情でなんとかまだ建っている門を、そして崩れかけた外壁を、眺めていた。
 もしこれが傷跡のない、完璧な状態で残されていたのならば、クロバが思い描き、語ったような美しい姿だったのかもしれない。その場合、スカイアがこの都に見たのは何であったのだろう。恐らく、誰からも理解されない、誰の理解も求めない、孤高の美しさだったのではないだろうか。カサローサはそう、優美というよりも気高く、孤独な都であったような印象をスカイアは受けた。

 坂を上りきった上にそびえるもう一つの門を潜れば、そこは旧市街の内部だ。門を抜けたすぐから、壁のように連なる家々が立ち並んでる。
 外壁同様それらの状態はどれも酷く、壁や窓に穴が開いているだけの家もあったが、半壊してしまっている家の方が遥かに多い。扉にはやはり無理に破られたような痕がはっきりと残され、中を覗けば埃だらけの床には足跡がくっきりとついているのが見て取れた。無惨に打ち捨てられた家具が散らばる家すら、ある。
「酷い……酷いです、これは」
 愕然とした表情で、クロバが呟いた。
 小説に描写された、美しく強固な都のイメージを持ってきた彼女だ。現実とのギャップにショックを受けても仕方があるまい。
「こんな状態じゃあ、残るものも残ってねぇってーんですよ」
 眉をひそめたソフィアが言う。それには、スカイアも同感だった。
 もし、ローゼンハイムの遺産とやらが本当にあったとしても、それは既に持ち去られた後であろう。持ち去ることの出来る形状であると仮定した場合の話だが。
「運命共同体で、カサローサが滅びる時はローゼンハイムが弊える時で、その逆もまたしかり? 家も都も、人がいてこそ成り立つものだと、おれは思うけどな」
 惨状を検分しながら、リューが誰にともなく呟いた。
 家の存続に重きを置く旧家ならば、リューがそんなことを言うのは、彼の家であるウィングフィールドが新しい、成り上がり者だからだと言うのだろう。
 守るべきものも家も失ったクラウスならば、なんと答えるのか。やはり、いつも通りの穏やかな表情で「そうだね」とリューを肯定するような気が、スカイアにはした。
「リューさん、それは違うっすよ! 確かにここはこんな状態っすけど、クラウスさんはまだ生きてるっす!」
「ローゼンハイムの技も、ちゃんと伝わってるじゃねーですか」
 先頭を歩いていたユーヒとソフィアの二人がくるりと振り返り、にやりと不敵に笑って口々に言う。そしてクロバが、くすりと微笑んだ。
「クラウスさんこそが、カサローサの遺産なのかもしれませんね」
「なら、俺たちもその取り合いに参加しないといけないな」
 道を一行と一緒になって歩いていたチャーリーが、えいえいおーと拳を振り上げた。

 カサローサの街中は、とにかく歩きにくい。
 四角い区画整理とは全くの無縁で、どの道も妙な角度で交差し、右に続けて四・五回折れても元の場所に戻らない。更に厄介なことに、どの家も外観が同じなのだ。これでは同じ場所を数度回った所で気付きそうにない。方向感覚は人並みにあるつもりだったが、カサローサの中ではその自信も失われそうだ。
 隣を平然と歩くアンジェラは、どうやら現在地を把握しているようで、スカイアは心の中で舌を巻く。ローゼンハイムの紋章は残っていないと彼女は言っていたが、実はどこかで未だに発動したままの紋章がそのままにされていて、他所者が迷うように仕組まれていたとしても全く驚かないし、この都自体が魔法紋章の上に築かれていて、刻々とその構造を変えていると言われても納得しそうだった。
 幅の細い道は見通しも悪く、目印になりそうな高い建物を望むことも出来ない。何気なく通過した道に設けられた扉を潜り、何気なく振り返ればただの家にしか見えなかった時など、最早感心を通り越して呆れるしかなかった。
 二重になった外壁。人を迷わせるように設計された市街地の造り。住民を守ろうとする仕掛けは、探せば他にも沢山あるのだろう。
 クラウスは確か、カサローサを要塞都市と呼んだ。大げさなように思われるこの造りも、要塞ならではなのかもしれない。ここまでしなければ、カサローサはもっと早くに陥落していたのかもしれない。それでも、そこまでしなくてもと思ってしまうのは、スカイアが他所者だからだろうか。

 アンジェラに「そこを右ね」と言われ、先頭を歩いていたユーヒとソフィアの二人は素直に曲がる。曲がったついでにくるりと振り返り、そのまま後ろ向きに歩きながらユーヒが訊く。
「この先って何があるんですか?」
「ローゼンハイムの家よ。奴はローゼンハイムの家に執着していたもの。クラウスを連れて行くとしたら、あそこしかないと思うわ」
「これだけ街中ぼろぼろだっていうのに、まだ遺産があると思えるその思考には感心しちゃうな、おれ」
「それはね、家を見れば分かると思うの」
 あそこなんだけど、とアンジェラは苦笑しながら一軒の家を指し示す。
「え……これ?」
 戸惑ったようにヒースが呟くのが聞こえた。
 他の家と、同じように連なった、三階建て程度の小さな家だ。カサローサの守護者、と言われたローゼンハイムの家にしては普通過ぎるとスカイアは思う。大きな一戸建てを都の真ん中に予想していた訳ではないが、まさか連綿と連なる家の一つだとは思わなかった。
 だが、重要なのはそんなことではない。それは全くの無傷だったのだ。
 ドアはきちっと閉められ、窓ガラスにも罅はない。今も人が住んでいそうなその状態は、周囲の壁も崩れているような家々と比較すると、かなり異様だった。
「クラウスさんの光っす!」
 ユーヒが指差したのは、二階の窓。確かにそこからは、クラウスが紋章を描く時に見せるあの色とりどりの光が、たまに揺らいで見える。クラウス本人がいるかどうかはともかくとして、クラウスが手がけた紋章がここにあることは間違いないだろう。
「あの、その、ローゼンハイム家の遺産を狙っているのは、お一人なのでしょうか?」
 皆と同様、驚いた様子でローゼンハイム家を見ていたクロバだったが、アンジェラに視線を向けるとそんな質問を投げかけた。
「え? 確か護衛が何人か一緒に居たと思うけど……」
「大丈夫っす。この家にいるのは一人だけっす。多分っすけど、クラウスさんだけっす」
「その心は?」
「勘っす!」
 このやり取りを、一行に加わってからスカイアは一体何度見たことか。ふと口元を緩めると、彼は手中の槍を軽く転がして握り直す。
 ユーヒの勘が発動した時点で、リューの次の言葉も、彼らの行動も決まっているのだ。
「ならとりあえず、入ろっか」

 家の中は質素ながら綺麗に整えられていた。
 他の家の惨状を見慣れてしまうと、住んでいた人だけが消えてしまったような雰囲気の、このローゼンハイム家の状態はかなり不可思議である。
「何か魔法の仕掛けでもしてあるのでしょうか……」
「ローゼンハイムの家だ。一つ二つあったとしてもおかしくはないな」
 言ってアンジェラを見れば、知らないのか彼女は頭を振った。
 紋章師の家と聞いて、スカイアはそこかしこに紋章が散らばっている様を想像したが、意外にも内装はありきたりだった。いや、荒らされていない時点で全く普通ではないのだが。
 玄関を入ってすぐ、廊下の左手には真っ直ぐな階段がある。吹き抜け構造になっており、二階部分には柵が設けてあった。その階段を上り、右手に折れる。外から見える位置にある部屋は、二階廊下の突き当たりにある筈だ。
 二階に上がれば、目的の部屋はすぐに分かった。突き当たりの部屋の扉は開け放たれており、見覚えのある光が、紋章が、柔らかい輝きを放っている。
 部屋のほぼ中央辺りには、床にうずくまるようにして作業している人影があった。脇目も振らずに黙々と作業する彼の姿が、スカイアには幼い少年と重なって見えた。
 全てを拒絶するようなその背中にかける言葉が見つからず、スカイアは廊下の途中で立ち止まる。そんな彼を邪魔だと言わんばかりに、後ろから来たソフィアが押しのけた。
「クラウスっ! なんつー怪我してやがりますかっ!」
 すかさず銀の環を取り出した彼女は、小走りで部屋に入ろうとする。しかし。
「入るな」
「……え?」
 何者かの制止の声に、彼女は戸の前でぴたりと足を止めた。
 スカイアにも一瞬理解できなかった。その冷たい声音が、クラウスによって発せられたものだと言うことを。ソフィアやスカイアだけではない。その場に居た全員が息を飲んだ。
 彼らが辿り着くまでに酷い拷問を受けたのか、クラウスの服はあちこちが裂け、血が滲んでいた。恐らく吐いた血を無造作に拭ったのであろう、左手の甲から手首にかけてはべったりと赤黒く染まっている。
 そんな彼の表情は、髪に隠れて見ることができなかった。
「おい、クラウス?」
 ソフィアの声を、もしかすると誰か別の人間と、遺産を狙っているという奴らの仲間と勘違いしたのかも知れない。そんな望みをかけて、スカイアはクラウスに声をかけた。
 ちらりと上げられた冷徹な視線が、スカイアのそれとぶつかる。彼は背筋に、ぞくりとしたものを感じた。
 はっきりと言って、別人だと思った。
 普段の穏やかな笑顔からは想像することも出来ない冷酷さが、その視線にはある。クラウスがそんな表情をすることがあるだなんて、スカイアには信じられなかったし、信じたくもなかった。
 戸惑いに、スカイアは視線を彷徨わせる。そして気がついた。部屋に施された紋章はどこか、攻撃的な光を放っていることに。クラウスの魔法の色はスカイアも好きだと思っていたが、この色は好きになれそうにない。
 かつん、かつん、と音を立てて上ってくる足音に、皆が一斉に振り返る。一番後ろにいたクロバとユーヒの二人が、ここは通さないと、槍と棒をクロスさせて立ちふさがった。
「おやおや何事かと思えば、どうやらねずみが入り込んだようですねぇ、クラウス?」
 声と共に現れたのは、どこかの貴族のようだった。
 光沢のある青いビロードのマント。洋服に光る金や銀の刺繍には、本物の金・銀が使われているに違いない。他の装飾も派手でけばけばしく、明らかに成金趣味だと一目で分かる出で立ちに、関わりたくない輩だとスカイアが反射的に思ってしまったのも、仕方がないであろう。
 そんな成金貴族が連れている護衛は四人。誰も彼も貴族上がりのお坊ちゃまのようで、実戦慣れはしていないだろうと判断した。
「お通しして」
 感情を表すことのない平板な声がかかる。
「クラウスさん!?」
「何言ってるの、クラウス!?」
 クロバが、アンジェラが、信じられないと声を上げる。成金貴族はぴくりと眉を上げたが、特に何も言わなかった。
「彼は僕の顧客だ。お通しして」
 ようやく上げられたクラウスの顔は、それほど明るくない部屋の中でも分かる程にしっかりと青く腫上がっていた。口元はやはりと言うべきか、血がこびりついている。
 有無をも言わせないクラウスの口調に怯えの色を見せながら、クロバがスカイアに判断を仰ぐような視線を向けてくる。
 クラウスの考えはいまいち読めなかったし、今の彼を信じて良いかどうか、スカイアも判断に困る。しかし、今は事を荒立てるべきではないだろう。彼はクロバに頷いてみせ、彼女は渋々ながら槍を退けた。
 きっと男を睨みつけていたユーヒも、スカイアがその名を呼べば、唇を強く噛みながらも下がった。
「躾がなっていないようですねぇ、クラウス。私が直々に躾けて上げましょうか?」
 にやにやと笑いながら成金貴族が言い、不躾な視線をクロバやユーヒ、ソフィアやアンジェラに向けながら通り過ぎて行く。
 無表情さは変わらないリューだったが、彼は猛烈に怒っていた。それは成金貴族の嫌みな言動と、それを容認している、そして彼らにも容認する事を強要するクラウスの態度、両方にだろう。
 ソフィアが入る事は拒絶したというのに、クラウスはあっさりと成金貴族を部屋に招き入れた。男は我が物顔で部屋の中心に立つと、ぐるりと壁に描かれた紋章を見回す。
「さすがですね、クラウス。一日でここまで紋章を復元させるとは。これはもう、機能するのですか?」
「えぇ、しますよ。試しますか?」
「えぇ、見せて頂きましょうか。カサローサの、ローゼンハイムの遺産とやらを」
 はっとアンジェラが息を飲むのが聞こえた。他のメンバーも目を丸くし、身動きできずに事の成り行きを見守っていた。
 クラウスのことを、一行の中で一番良く分かっているのは、恐らくリューであろう。そう思って、スカイアはリューの表情をちらりと盗み見る。先程の怒りは収まったのか、今は冷静なようである。そんなリューの反応を見て、スカイアはようやく確信した。これが、クラウスによる茶番だということを。
 クラウスは成金貴族を一瞥すると座り位置を少し動かし、さらさらと何かを付け加えた。
 途端、紋章が脈動を始める。
 クラウスが、彼らの方を見た。スカイアと、リューと、クラウスの視線が交差する。
「おお……」
 男が感動を声を上げ、そして——
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ーーーーーーっ!!」
 突然、頭を、胸を押さえ、彼は床に転がったのだった。



 










登録者:夢裏徨
HP:月影草
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