ふぅ、と一息ついた少年に、アンジェラは隠れていた場所から飛び出した。
 クラウスと間近で向き直った彼女は、彼を頭からつま先まで眺める。大人しげな眼差しと、細い体躯からは、彼がどうして大人二人を圧倒できたのかが分からない。
 目を丸くしているアンジェラに、彼は戸惑ったような表情を浮かべた。
「帰ろうか、アンジェラ。家まで送って行くよ」
 彼の言葉に、彼女はえっと目を瞬かせ、未だに二人の頭上で物騒な音を立てている魔法障壁を見上げた。
「これ、このままにしておいて大丈夫なの?」
「この症状だと、修正しないといけないのはここにある紋章じゃないよ。ここのは位置を指定しているだけだから。これだと、直す必要があるのは衝撃を吸収する部分だから……ごめん」
 彼女が目を白黒させていたのが分かったのか、クラウスは小さく謝った。
「ううん。じゃあこれは別の場所で直すのね? それはあなたが?」
「うーん、そうなるかも?」
「あんな酷いこと言われたのに?」
 クラウスは一度、ゆっくりと瞬いた。
「それでも、僕らはローゼンハイムなんだよ。誰に何と言われようと、僕らはこの都に守られてきた。だから、僕らはこの都を守るんだ」
 アンジェラに返すようにして呟かれたその言葉は、カサローサを守ることに嫌気がさしてきた自分自身に言い聞かせる為のようにも思われる。しかし、そんな含みのある響きを理解するのには、アンジェラは幼すぎた。
「じゃあ、じゃあ、カサローサは、ローゼンハイムがずっと守ってくれるのね?」
 クラウスの「守る」という言葉に安心したアンジェラが無邪気な笑みを見せれば、隣を歩いていた彼はぴたりと凍り付く。
「……え?」
「ずっとは、多分無理じゃないかな」
 アンジェラに聞かせる意図が、そこにはなかったと思う。口の中でそう呟いてクラウスは見上げた。恐らく彼が見ているのは空ではない。その手前にある、不可視の壁だ。
「今、僕たちがやっていることは、ただの時間稼ぎなんだ。終わりは、本当は見えているんだ。だけどまだ諦めたくなくて、認めたくなくて、カサローサに、ローゼンハイムに、終止符を打ちたくなくて、それでまだ戦ってるだけなんだ。往生際が悪いよね、本当」
 くすりと、彼が見せた笑顔にはどこか疲れがあって。
 ぽかんとしているアンジェラを見ると、クラウスは続けた。
「心の準備だけはしておいて欲しい。それは、明日かも知れない」
 アンジェラはただ、今の生活が、日常が、そう長くは続かないことだけを理解した。

 それからというもの、アンジェラはクラウスの姿を頻繁に目にするようになった。否、アンジェラはクラウスがよく外壁辺りを歩いていることに気がついて、遊びに行くようになったのだ。
 アンジェラがクラウスを見かける時、彼はいつも見上げていた。紋章の描かれた物理的な外壁と、そこから頭上に伸びる魔法による障壁を、見ていたのだろう。
 そんな彼の横に並んで、同じように見上げてみたこともあった。外壁はともかく、魔法障壁は何を見れば良いのか、そもそもどうやって見れば良いのか分からなかった。彼はただ眺めているだけなのだろうかとすら、思った。
 しかし、ある日彼はぺたりと壁に触れたのだ。壁一面に描かれた繊細な紋章をざっと眺め、ここ、と指差した。元々描かれていた紋章を、描いている魔力の線を、まるでほどくかのように左手で引きつつ、右手で躊躇うことなく出来た隙間を埋めて行く。彼が紡ぐ魔力は虹色にきらめき、思わず目を奪われた。
 紋章を描き上げるとクラウスは数歩下がり、外壁と魔法障壁を再び見上げ、そして満足げに頷いたのだった。
 アンジェラを振り返った彼は、口をぽかんと開けて彼の作業を見ていたらしい彼女に首を傾げ、あぁ、と再び、今度は宙に、自身の魔力を紡ぎ始める。青に緑に紫に。彼の魔力は、同じ色で留まることを知らない。
「僕の魔力を見た人は、誰もが言うんだ。無限の可能性を秘めた、希望の色だって。
 でも、どうなのかな。ローゼンハイムは今やカサローサの災厄でしかないのに、本当に希望なのかな」
 小さく漏らされたのは、自嘲の言葉。そんな彼に返すべき「正しい」言葉が見つからず、アンジェラは思わず唇を噛んだ。
 「希望」の名の下に背負わせてしまった重責。
 それに相反する、ローゼンハイムへの仕打ち。
 それでも尚カサローサを守ると言い切ったのが、彼の本心であれた筈がない。あれはそう、ローゼンハイムとして社会に強要されれた言葉なのだ。
「いいえ、それはただの魔力よ」
 思わず、アンジェラはそんな言葉を口にした。
「それは普通の魔力でしかないわ。それを扱うあなたがそこに希望を見て初めて、それは希望として輝けるのよ」
 彼女の顔をまじまじと見ていたクラウスは、何を思ったのだろう。彼は、ふと口元に笑みを載せるとただ一言、「ありがとう」と返したのだった。





「あれから三年間、カサローサは、ローゼンハイムは持ちこたえたわ」
 陥落当日、頭上に張られた魔法障壁をやはり眺めていたクラウスの姿がアンジェラには未だ忘れられない。あの時の彼の表情には、恐怖も、不安も、寂しさも、何もなかったのだ。
「あの日、子供たちだけが転送の陣でカサローサの外に逃がされたの。私たちを最初に受け入れてくれた先も、事情は既に知っていたらしくって——あの三年間、ローゼンハイムは子供たちを逃がす手回しをしていたんじゃないかって、だから時間を稼ぐ必要があったんじゃないかって、今でも結構本気で思っているわ」
 子供たちが転送された先は確か、リオ・ドルミールのローゼンクランツ家だったか。一時的に子供たちを匿った彼らは、里親を探してくれたり、就職先を紹介してくれたりと親身になってくれたものだ。アンジェラも彼らの伝手で、近くの町に住む老夫婦に引き取られたのだ。
 老夫婦が亡くなってからローゼンクランツを訪ねてみたが、カサローサに関わりはないと、そんなことは知らないと、門前払いされてしまった。
 カサローサを滅ぼしたこの国でカサローサを手助けしただなど、確かに公言できるものではないだろうと納得はするものの、やはり寂しかった。
「そうか。クラウス……というか、ローゼンハイムは知ってたのか。カサローサの限界を」
 空色の瞳が、真っ直ぐとアンジェラを見ている。髪の色も顔立ちも違うというのに、彼女はそこにクラウスの面影を見たような、そんな気がした。
「知っていて、知ってながら——いや、知っていたからこそ更に必死になって都を守ろうとしたのかもしれんな」
「カサローサから脱出した時、クラウスも一緒だったの?」
「えぇ、一緒だったわ。だけど都の外に出た後で彼、ふと姿を消したの。そしてそれっきり。彼はまだ、カサローサのことを気にしているのかしら?」
 あの時、一番苦しい思いをしたのは他でもない、ローゼンハイム家ではないのか。カサローサの守護者とまで呼ばれながら、カサローサ滅亡の引き金となってしまった彼ら。終焉を知りながらも足掻いてみせた彼らは、都を守りきれなかったことを悔やんだことだろう。
 同時に、もし彼らにその気があったのならば、ローゼンハイムはカサローサを切り捨て、家を守る決断を下すことだって出来たのだ。都は弊えたとしても、彼らは自分たちの家を守ることが出来たのだ。
「家を、ローゼンハイム家を、否定しないでください」
 そう、静かに口を開いたのは、神妙な顔をして話を聞いていたピンク色の髪の少女だった。
「他国がローゼンハイム家を望み、戦争を仕掛けてきたというのなら、カサローサ陥落の責任はローゼンハイム家にある。家を滅ぼしてでもカサローサを守ろうと、そう彼らが考えることはおかしくありません。
 むしろそんなローゼンハイム家がクラウスさんを逃がしたこと、それこそが彼らの甘えです。ですから、ローゼンハイム家がアンジェラさんの言われる通り本当にカサローサの皆さんと対立していたのなら、彼らにはクラウスさんを逃がすだなんて、そんな決断は出来なかったはずです。
 これは私の推測に過ぎませんが、クラウスさんを守ろうとしたのは、カサローサの皆さんの方ではないですか? カサローサの皆さんがクラウスさんも一人の子供として、守られるべき対象として認識していたからこそ、ローゼンハイム家は、ローゼンハイムは、一人の親としてクラウスさんを逃がす決断が出来たのだと、私は思います」
 表面上は問題があったのかもしれない。けれどそれが出来たのは、カサローサの民とローゼンハイム家との間にしっかりと築き上げられた信頼関係があったのだろうと、彼女は言った。
 しかし、たとえ彼女の言葉が本当だったとしても、クラウスがそう受け取っていなかったのならば意味がないのだ。

 紅茶の準備をしていた黒髪の青年が、なみなみと注いだカップをクマのぬいぐるみに持たせた。何をしているのだろうかとアンジェラが見ていれば、そのぬいぐるみはとことことアンジェラの下まで来て、すっとそのカップを差し出したのだった。
「私に? ありがとう」
 ぬいぐるみに、淹れてくれた青年に、彼女がお礼を言えば、彼はおどおどと視線を逸らした。どうやら人慣れしていないらしい。
「今の話じゃ相続争いする相手がいねーと思うんですが」
「相続争い?」
 金髪の女の子の言葉に、逆に首を傾げたのはアンジェラの方だった。えっと訝しげな視線を向けられ、彼女は眉をひそめた。
「あぁ……あぁ! ローゼンハイム家自体の遺産相続が問題じゃないの。第一、ローゼンハイムで生き残ったのを私は彼しか知らないし、その彼だって今まで行方知れずで、もう、諦めていたというのに」
 彼にしてみれば、思い出したくもない故郷なのかも知れない。だから今まで近付かずにいたのかもしれない。今になってようやく、訪れようと思えるまでなった彼を、奴らは目敏く見つけ出して連れて行ってしまったのだ。そう思うと、怒りが沸々と湧いてくる。
「カサローサが滅んだ時、ローゼンハイムの紋章は痕跡を残すことなく消え去った、んだと思う。少なくとも私には、見つけられなかったわ。そしてローゼンハイム家もこの国の手には落ちなかったんでしょうね。だから、魔法紋章があったという証拠は何もなかった筈よ。
 でもね、この国は未だ信じているの。莫大な費用をかけてやっと陥した都は、彼らが知らない何かをまだ隠し持っているって。カサローサに関与していた紋章師がいるって。だからまだ探しているの。カサローサを難攻不落と謳わせた『それ』を。まだ都にあるだろう『ローゼンハイムの秘密兵器』を。そして——それを遺した紋章師を」
「秘密兵器なんて、あるんっすか?」
 アンジェラの話は、まだ幼いとも言える少年が聞くには長かっただろう。うとうととしていた赤い服の少年が、秘密兵器という言葉に興味を惹かれたのか、その目を瞬かせた。
「私はないと思うわ。少なくとも奴らが思っているような、強大な力で街や国を吹き飛ばすような、そんな『兵器』はない。そんなものをあのローゼンハイムが作る訳がないもの」
 彼女は今でも信じている。守りに特化した彼ら、ローゼンハイムのことを。だからこそ、彼女には言い切れるのだ。



 










登録者:夢裏徨
HP:月影草
Good Day Good Departure企画