「カサローサが滅びたのは、たった20年前のことなの」
 そう、彼女、アンジェラ・ホーヘンスタットは前置きする。
 クラウスが語らなかった、彼に関わる過去を話してしまっていいものか、躊躇いはあった。
 カサローサの、旧カサローサの出身とは、その歴史的観点から言い出しにくい事実だと彼女は思う。行動を共にしているとはいえ、クラウスは自身の出身地を伏せていたのだ。そこには何か、言いたくない理由があったのかもしれない。
 それでも、素性も知れない彼女を快く部屋に招き入れてくれた彼らを、そして今、彼女の話を聞こうとしてくれている彼らを、信じてみても良いのではないか。
 アンジェラが語り始めるのを一様に待っている面々を見回し、彼女は意を決して口を開いた。





 カサローサは、規模の小さな都だ。東西を二つの大国に挟まれながらも独立を保っていたのは、都の興りに理由がある。端的に言ってしまうと、そこに住んでいたのは訳ありな人々だったのだ。
 今でこそあちこちの国々において自由な風潮が強くなってきているが、思想統制が厳しかった時代もある。その当時、思想的に、宗教的に、迫害を受けた人々が自由を求めて亡命し、最終的に辿り着いたのがカサローサだと言われている。よって、元々他国からの風当たりは強かった。
 幸いなことに、カサローサはその民を、そしてその独立を守っていられるだけの力を保持していた。それがローゼンハイムである。
 三方向を水に囲まれているカサローサの立地自体が既にカサローサを攻め入りにくい都としているが、ローゼンハイムの持つ魔法紋章の力は、そんなカサローサの防御力を底上げし、難攻不落の都として名前を馳せることを可能としたのだ。

 ローゼンハイムがカサローサを守護していたのならば、カサローサはローゼンバイムを庇護していたとも言えるだろう。
 魔法紋章学そのものは、一般に開かれた学問だ。教本は誰にでも手に入れることができるし、教えている学校だってある。
 しかし、ローゼンハイムの魔法紋章は特殊なのだ。術者の魔力そのもので陣を描く為、発動時に更に魔力を加える必要がなく、魔法使いでなくても道具の使用を可能にしたのが一点。そして、魔力で描くが為に、その気になれば痕跡を残すことなく綺麗に消し去ることも可能なのだ。これはローゼンハイム家に代々伝わる技であり、教本にも載らなければ教える人も居ない。
 魔法使いにしか使えないとされる魔法紋章そのものが画期的だと言われている世の中で、ローゼンハイムの持つ技術はその常識を覆す。そんな都合の良い力の存在を知ったら、一体誰が放っておくだろう。
 だからこそ、そんなローゼンハイムの特殊な力を、カサローサは隠蔽した。
 そこにはローゼンハイムをその内に留め置こうとする思惑もあっただろう。だが、カサローサによって存在自体を握りつぶされることで、ローゼンハイムは権力争いに巻き込まれることもなく、その力を、その技術を、脈々と後世に伝え、大きく開花させることに成功したのだ。
 そんなカサローサとローゼンハイムの共存関係は、やがて両者を縛り付けた。
 滅ぼされる以前のカサローサの都では、大国二つの公用語が二つ共に使われていた。それぞれの言語にて、カサローサとローゼンハイムが同じ「薔薇の家」を意味することは、彼らの関係性を一番良く表現しているのではないだろうか。

 周囲から見て、カサローサとローゼンハイムは上手くやっていたと思う。だというのに、それがおかしくなってしまったのはいつだっただろう。
 幼かった頃のアンジェラが覚えているのは、決して荒れることのない、穏やかな天気ばかりだ。そんなカサローサの天気がいつからか不安定になり、照りつける太陽の日差しが厳しく、そして雨風が強くなったのは——そう、あれは、アンジェラたちが7つ程度の頃ではなかっただろうか。
 小さな商店に囲まれた広場で、真ん中に設けられた噴水の周囲を回るように駆け回っていたアンジェラは、ふと、快晴の空を見上げた。
 頬がとにかく熱く、額を汗が流れ落ちる。服はびっしょりと汗で濡れ、身体に貼り付いた。幼いながらにこの天気は、この暑さは異常だと思った。
 そんなアンジェラの様子に気付いたのか、噴水の縁に腰掛け、コーヒーを片手に休憩していた大人二人が、釣られるように空を見上げた。
「最近、天気安定しねぇな」
「ローゼンハイムがさぼってるんじゃないのか? そういや、この間も魔法障壁がどっかおかしいって、友達が言ってたぜ」
 どこか刺を含んだ言い回しに、アンジェラはきょとんと二人を見つめた。
 ローゼンハイムの名前は、カサローサの住民ならば誰もが知っている。他国からカサローサを守っている、カサローサにとっていなくてはならない大事な家なのだと彼女は教わった。そして、カサローサを守ってくれているローゼンハイム家を、アンジェラたちカサローサの住民は守らなければならないのだと。
 だというのに、何故彼らはローゼンハイムのことを悪く言うのだろうかと、彼女は首を傾げる。そんな彼女の様子に気付いた様子もなく、彼らは続けた。
「あー……またか? 最近多いな。ローゼンハイムの質が落ちてんのか?」
「そろそろローゼンハイムも終わりだな。そういや、どっかの物好きが欲しがってんだって?」
「そんな話も聞いたな。だから最近攻撃が酷いんだって? いっそローゼンハイムを引き渡した方が静かになるんじゃないのか?」
「そうかもな。売り渡して同盟でも結んで? 悪くない案っつか、そうすべきだろ、早急に」
「何で? 何でそんなこと言うの!?」
 彼らの嘲笑に黙っていられなくなったアンジェラが、悲鳴にも似た声を上げた。その時ようやく、男たちもはっと顔を上げる。
 カサローサの穏やかな天気は、ローゼンハイムの魔法障壁があってこそなのだと、彼女は今の会話から朧げながらに理解した。それがなければ実際にはどんな天気になるのか、アンジェラには知る由もないが、そんなことまでして住民に快適な生活を与えてくれているローゼンハイムの家を、攻撃を仕掛けてきている他国に売り飛ばすだなんて思う、そもそもそんなことを考えつく、そのこと自体がアンジェラには信じられなかった。
 確かに、都の守りは完璧であるに越したことはないだろう。けれど、ローゼンハイムにも事情があるのではないか。彼らだって人なのだから、常に完璧では居られない筈だ。
 それを、守られている自分たちこそ、理解しなければならない。そして彼らを尊重しなければならない。幼心に彼女はそう思っていたというのに。都中の人々が同じ考えだと、そう思い込んでいたというのに。
 その大前提が崩れて行くような気がして、彼女は日光の暑さの中に寒気を感じた。この「守られた」日常は、いつかは終わってしまう現実を、初めて叩き付けられたような気がした。
「何でって、それがあいつらの仕事だろ?」
「俺たちを守れないようなローゼンハイムは役立たずだ」
 至極当然と言い返され、目の前が真っ暗になった。カサローサの平安を脅かしているのは彼らの方だと、心のどこかが告げていた。
 気を取り直したアンジェラが彼らを怒鳴りつけてやろうと口を開いたその時、男たちの興味が逸れた。彼らの視線を辿れば、アンジェラと同い年くらいの一人の男の子が日陰を歩いている。金色の髪と、青い瞳。白い肌とひょろりとした体躯は、屋外で遊んだことがないようにも見える。
 アンジェラは、彼に見覚えがなかった。
「ローゼンハイムの坊ちゃんじゃねぇか」
「おい、クラウス!」
 口々に呼びかけられ、彼は初めて気付いたかのようにこちらを見、軽く頭を下げた。座っていた男たち二人は立ち上がると、クラウスと呼ばれた少年に近付きつつ続ける。
「あっちの方、魔法障壁壊れそうだったぞ」
「それは、具体的にはどこですか?」
「んっとな……待ってよ、おい、お前、あれどこだったか覚えてるか?」
「行けば分かると思うぞ。案内しようか?」
「ではお願いします」
 アンジェラを一人その場に残し、恐らくは外壁の方へ向かうのであろう三人の背中に、アンジェラは嫌な予感しか感じなかった。
 男たち二人は、クラウスのことを「ローゼンハイムの坊ちゃん」と呼んだ。もし彼が本当にローゼンハイムの人間なのであれば、あの二人がそう素直に彼に協力し、案内までするとは思えない。
 よし、とアンジェラは一人頷いて気合いを入れると、気付かれないように足音を殺しながら三人の後をつけ始めた。

 数分歩いて、やはり彼らは外壁の近くにやってきていた。
 外壁に細かく描かれた紋章を、そしてその上に存在しているのだろう魔法障壁を、鋭い目つきで見上げる少年は恐らく、ありもしない傷を探しているのだろう。
「すみませんが、本当にここですか? 僕には……」
 言いかけた彼を、男の一人が後ろから羽交い締めにする。軽く持ち上げられてしまった彼は抵抗するように、地面に届かない足をばたつかせた。
「下ろしてください」
 下手をすると女の子の方がしっかりとした体つきをしているのではないだろうか——そう思わせる華奢な体格で多少藻掻かれた所で、成人男性からすればなんともないだろう。実際、クラウスを抱え上げた男がバランスを崩すようには見えなかった。
「お前らローゼンハイムの存在がさぁ、俺たちを危険に晒してるって、分かってんのかお前?」
「暇そうにほっつき歩いてるくらいなら、さっさと出てけよ。そしたらカサローサには平和が戻ってくるんだぜ?」
 ねぶるように耳元で囁かれた言葉に、彼は一体何を思っただろう。その様子を壁の陰に隠れながら見ていたアンジェラは、当事者でもないのに泣きたかった。
 カサローサの住民は、大体全員が顔見知りだ。アンジェラ自身、カサローサに住んでいる子供は全員知っていると思っていた。それなのに、クラウスのことは今日まで知らなかったのだ。年齢からしても遊びたい盛りであろうに、都の子供たちと遊びもせずにしていたことなど、一つしか考えつかない。
 この事実は、それだけローゼンハイムが必死になってこの都を守ろうとしていることに他ならないのではないだろうか? だから、こんな子供の手まで借りなければならないのではないだろうか?
「彼らの目的が、僕たちローゼンハイムであることは、僕らもよく分かっています」
 少年の声は、落ち着いていた。
「ですが、カサローサがローゼンハイムを引き渡した所で、この攻撃は止まらないと思いますよ。そもそも彼らの当初の目的は『異教徒の都を滅ぼすこと』であり、ローゼンハイムについては、いわばついでに過ぎません」
「何でんなことが分かるんだ」
 情報源は明かせないと、クラウスは人差し指をそっと口にあてた。
「えぇ、僕らローゼンハイム家を売り渡すのは簡単ですね。そうすれば彼らは少なくとも、ローゼンハイムを手に入れたいとする目的の一つを失うことになります。しかし、もう一方はどうでしょう? カサローサは彼らの目の敵。完膚なきまでに崩壊させるまで、この攻撃の手は恐らく止まりませんよ」
 抵抗をやめて大人しく抱えらながら淡々と告げる少年の言葉に、大の大人が気圧されている。彼の言葉が嘘か本当かなど、アンジェラには分からない。それでも、男二人の怯えははっきりと見て取れた。
 少年を抱えていた腕の力が抜けたのか、彼はすたりと下り立つとくるりと二人に向き直り、彼らを見上げる。
 頭上でギンッと甲高い音が鳴り響く。その尋常でない音に何だろうとアンジェラが見上げれば、空が「揺れて」いた。少なくとも彼女には、それ以上の良い表現が見つからない。
 キィィィンと甲高い音を響かせながら、その揺れは彼らの頭上に、魔法障壁全体に、波及して行く。
 その音に、その揺れに。男たちが動揺を見せても、クラウスは堂々としていた。
「至らないところは多いと思います。最近、皆さんが僕らの働きぶりに満足していないことは知っています。それでも——それでも、僕らはローゼンハイムなんです。この都の守りに命を賭け、都と命運を共にするのが、僕たちなんです」
 ガキンと、何かが宙に「めり込んだ」。
 男の一人がひっと裏返った悲鳴を上げる。一つ、二つと打ち込まれる「楔」に、ゆっくりと数歩後退すると、なりふりなど構っていられなくなったのか、くるりと踵を返して走り出した。
「お、おい、待てよ!」
 もう一人もすぐに後を追う。陰から一部始終を見ていたアンジェラの姿をその視界に捉えたようだったが、彼らは特に何も言わなかった。



 










登録者:夢裏徨
HP:月影草
Good Day Good Departure企画