カサローサの新市街には、午後、少し日が傾き始めた頃に到着した。新市街の街並み自体は、どこにでもある普通の街と変わらないようにリューは思う。
 隣を歩くクラウスの表情をちらちらと確認してみるが、拍子抜けするくらい至って普通だった。数日前にカサローサへ行くと提案した時の、あの反応の鈍さは一体なんだったのか。
 はしゃいで走って行くユーヒやソフィアの後を追って行けば、一行は開かれた湖畔に出た。カサローサの旧市街が、湖のほぼ中央に位置する、切り立った崖の上にそびえ立っていた。
 傾き始めた太陽が、その外壁を赤く照らしている。外壁の奥には、物見の塔だったのだろう、尖塔が見えた。
 崖から見下ろす塔が、外壁が、湖面に映り込み、風に揺れる。
「……綺麗、です」
 ぽつりと、クロバが満足げに呟く。リューも同感だった。しかし、年長二人はそうは思わなかったらしい。
「ぼろぼろだな。むしろまだ崩れてない方が驚きじゃないか、あれ」
「君、良く見えるね? 崩れそうなのは認めるけれど」
 彼らの会話に、リューははっとして外壁を見上げた。目を凝らしてみれば、確かに壁はでこぼことしていて部分的に穴も空いているかもしれない。塔に真っ先に目を奪われたが、その下に見える屋根は落ちてはいないだろうか。
「ひっどいもんだ。これが栄華を極めた都の成れの果てか?」
「確かに栄華は極めたかもしれないけれど、カサローサは基本的に要塞都市だから、ある意味これは仕方がないんじゃないかな」
「ん?」
「要塞都市?」
 リューが反復した言葉に、湖を、都を、眺めていたクロバが振り返る。
「ちょっと待て。この間のクロバの話にはそんな単語出て来なかったぞ。あんた、実は詳しいのか?」
 スカイアの指摘に、ようやく自分が何を言ったのか気付いたらしいクラウスは、苦く笑いながらサングラスの位置を直した。
「そういう話も聞いたかな? クロバ君も知っているんじゃないのかい?」
「はい! カサローサは華やかな都として描かれることも多いですが、三方を水に囲まれた立地から、戦の舞台として描かれることも多いです。完璧なまでの防御を誇るカサローサを陥落させる手腕がまた見事で、その戦略も大層勉強になるんですよ」
 へぇ、と相づちを打ってはみるものの、何かを隠そうとしているようにしか思えないクラウスの態度が気に食わない。それはスカイアも同じようで、どこか信じていなさそうな視線をクラウスに向けていた。
 クラウスは逃げるように視線を彷徨わせ、新市街を振り返る。彼の視線は、湖畔を散策していた男女の姿を捉え、目が合ったらしい女性も一瞬立ち止まる。彼女はクラウスに対して何か言いかけたが、一緒にいた男性に促され、結局何を言うこともなく去って行った。クラウスも、ただ見送った。
「男女の仲を詮索するのは野暮だと思うよ、おれ」
「まさか。しないよ」
 苦く笑うクラウスの表情は、どこか柔らかかった。





 次の日の朝。
 カーテンの隙間から漏れる明るい光に、ソフィアは半ば無意識に掛け布団をはねのける。静かな部屋に響くのは、衣擦れの音。部屋を仕切るように欠けられている布を彼女が捲れば、その向こう側にいた人物が気がついたのか、振り向いた。
「おはよう、ソフィア君」
「おはようってぇんです」
 まだ完全に覚めていない目をこすりながら、ソフィアは挨拶を返す。
 夏至をとうに過ぎ、昼の時間が短くなってきたのを感じる昨今ではあるが、それでもまだ日の出の時刻は早い。他のメンバーがいないのはともかくとして、クラウスが既に起きているのは意外に思われた。
「君が起きてくれて丁度よかった。書き置きでもしていこうかと思っていた所なんだ。他の皆に言伝を頼めるかい?」
 はい、と渡されたグラスにソフィアは無言で口をつけた。
 夜は乾燥する。冷たく冷やされた水が、乾いた喉を心地よく潤して行った。同時に、その冷たさがソフィアをもう少しだけ覚醒させた。
「顧客にでも会いにいくんですかい?」
 クラウスが早起きする理由だなんて、そのくらいしか思いつかない。だというのに、返された言葉は否定だった。——まぁ、来たことがないという街に顧客がいるのもおかしいだろうと、ソフィアは後から思った。
「僕に会いにきた人間がいるらしくてね。会ってくるよ。用件は聞いていないからどれだけ時間がかかるかは分からない。だから、何をするにしても僕のことは待たなくていいと、伝えておいて欲しいんだ」
 差し出された手に空になったグラスを返し、ソフィアはこくりと頷く。
「一応、メモも残しておくべきのようだね」
 苦笑の混じった言葉に見上げれば、目が合った。さらさらとメモを書きながら、にこりと微笑みかけてくる。

 どんな我が侭を言っても許容してくれる優しさ。どんなに無茶をしても背後で構えていてもらえる心強さ。彼のことを仲間だと思うよりも保護者だと思ったことは、ほんの数度などではない。
 たまに、彼のうっかりとした性格は玉に瑕だとも思う。けれど、そのうっかりとした性格が、彼に人間味を持たせているのだ。だから身近な存在に感じられるのだ。彼がそんな性格でなければ、遠い雲の上の人だったかもしれない。

 クラウスは切り離したメモをソフィアに握らせ、見上げたままの彼女に再び笑顔を見せると、彼女のベッドから離れた。壁にかけてあったコートに手を通し、帽子を手に取る。
 胸騒ぎがした。
「それじゃあ行ってくるよ。彼らが無茶をしそうになったら、ちゃんと止めてくれるね?」
 ただ、人に会ってくるだけではないのか。それなのに何故彼は、数日程留守にするような、そんな口振りで言い残して行くのか。
 片手を挙げて見せたクラウスが扉の向こう側に姿を消した時、ようやくソフィアは完全に覚醒した。
「待ちやがれって……っ!」
 裸足でベッドから下り、今しがたクラウスが潜ったばかりの扉を勢い良く開け放つ。廊下の左右を見回すが、彼の姿は既にない。
 どうしよう、と不安になった。自分自身でも理解できない程に、心細くなった。
 今さっきまで聞いていたあの優しい声を、無性に聞きたくなった。
 でも、追いかけてしまったら迷惑にならないだろうか? ソフィアは考えすぎなだけで、ほんの数分もしたら何事もなく帰ってくるのではないだろうか?
 握ってくしゃくしゃになった紙を、ソフィアは破かないようにそっと広げる。少し斜めに傾いた細めの筆記体が、クラウスの字が、紙面に踊っている。
 その時、下の方からパジャマの裾をくいくいと引っ張られた。
「どうしたの、ソフィア?」
 見下ろせばチャーリーが、声の方をみれば朝市から帰ってきたらしいリューとヒースが、どこか心配そうな表情で佇んでいた。
「ちょっと寝ぼけただけだってぇんです」
 ふいっとそっぽを向いて部屋に入る。声が掠れも震えもしなかったのは幸いだろう。
 ソフィアに続いて部屋に入った二人は、いる筈の人物がいないことに、壁にかけられていたコートと帽子がないことに、首を傾げたようだった。
「ソフィア、クラウスは?」
 リューが出してきた名前にぎくりとしつつ、ソフィアは勢い良くカーテンを引く。大分高く昇りつつある太陽が、燦々と地上を照りつける。一緒に窓も開ければ、流れ込んで来た風はまだ冷たかった。けれど日中は暑くなるだろうと予想される。
「出かけやがりました」
 くるりと振り返って、あっさりと言い切った。胸がどこかずきりと痛んだのは、きっとソフィアの気のせいだ。
 持っていた紙袋をテーブルに置き、床を歩いていたチャーリーを抱き上げたヒースが、ソフィアの言葉に目を瞬かせた。リューも、表情こそ変わらないものの、一応は驚いているらしい。
「あの引きこもりのクラウスが? こんな良い天気なのに?」
 同じく紙袋を下ろしたリューが、そう言いながら差し込む日光に目を細めた。
「実はどこかから引っ越してきた顧客がいたとか」
 ふむ、と意味深に呟いてリューは袋に手を突っ込むと、両手にそれぞれ紙の包みを持ってソフィアに向き直った。
「今日の朝食は揚げパンなんだけど、砂糖がかかったのとクリームが入ったの、ソフィアはどっちが良い?」
 突然の話題転換について行けず、ソフィアは口をあんぐりと開けて目を丸くした。そんなソフィアを見ると、リューは右手に持っていた包みを置いて、違う包みを袋から取り出した。
「プレーンなのもあるよ。甘いのがそんなに好きじゃないスカイアにと思って買ってきたけど、かわいいソフィアが食べちゃったならスカイアも文句は言えないと思うんだ」
「クリーム入りを寄越しやがれってぇんです」
「ん。こっちかな」
 渡されたパンはクリームがたっぷりと入っているのか、思ったよりもずっしりとしている。一緒にリンゴも渡されたソフィアは窓脇のベッドの上に陣取り、まずはリンゴに齧りついた。
 ほどなくして、朝の訓練から帰ってきたらしいユーヒとクロバが、それに付き合ったのかそれともどこかで合流したのか、スカイアが続いて部屋に戻ってくる。
「ただいま戻りました」
「待たせ……てはいないみたいだな」
「うぅ……自分、もうお腹ぺこぺこっす」
 自分たちでそれぞれ取るようにとリューに袋を示され、彼らもパンとリンゴを一つずつ手にする。最後、袋の奥底に残った一人分の朝食に、スカイアは「そういやクラウスは?」と疑問を口にした。
「何か知らないうちに顧客が増えたらしいよ」
「ほぉ。それは良いニュースじゃないか」
「そういえばクラウスさんが広報活動をしているのを見たことがないのですが、どうやって顧客を集めているんでしょうか」
「言われてみればそうだな。それで生計を立てて行けるんだから大したもんだ」
 仲間たちの会話を右から左に聞き流しつつ、ソフィアは空を見上げる。見事な秋晴れで、雲一つない。
「ソフィア?」
 リューに静かに名を呼ばれ、はっと目を瞬かせた。手に持っていた齧りかけのリンゴの芯は、茶色く変色してしまっている。
「別に、何でもねぇです」
「そんなにクラウスさんのことが心配っすか?」
 ユーヒのそれは、勘だったのだろうか。
 ソフィアが彼の言葉を否定するよりも先に、扉が控えめにノックされた。立ち上がろうとしたリューを制し、一番近くに座っていたスカイアが出る。
「どちら様?」
「あ、昨日の」
 リューの呟きに、彼女は小さく会釈した。
 そこにいたのは昨日、湖畔で男性と歩いていた女性だった。手には何故か男物の、見間違えでなければクラウスの帽子を持って。
「やっぱりあなたたちね? 昨日、クラウスと一緒にいたの」
「クラウスのこと、知ってるの?」
 リューの質問に、女性はこくりと頷いた。言いにくいことなのか、少し声を潜めて彼女は告げた。
「私も、カサローサの出身だもの」
「『も』?」
 リューが、ユーヒが、クロバが、スカイアが、ソフィアが、ヒースが。全員がその顔を見合わせた。
「この中でカサローサ出身の人、誰かいる? ちなみにおれはウィンドベルなんだけど」
「自分は違うっす」
「あたしも違うってぇんです」
「俺はアジュールだ」
「私もカサローサではありません。残念ながら」
「お、おれも違う」
「じゃあカサローサ出身って、まさかクラウス?」
「クラウスさん、カサローサは知らないって言ってたっすよね?」
「いや、『行ったことがない』とは行っていたが、『居たことがない』とは確かに言ってないな」
「なんつー紛らわしいことを。出身地を隠して何かいいことがあるってぇんですか。説明しやがれってぇんです」
「確かに詳しそうだったし、それなら顧客じゃなくて知り合いがいてもおかしくないよね」
「それで、ご用件は何でしたでしょう?」
 クロバに話を振られ、戸口で唖然としていた女性は、あぁ、と口を開く。
「クラウスを、助けて欲しいの」
 言って彼女がすっと差し出した茶色い中折れ帽は、やはりクラウスのものだった。彼女は続ける。
「奴らはカサローサの、ローゼンハイムの遺産を追っているのよ」



 










登録者:夢裏徨
HP:月影草
Good Day Good Departure企画