あなたはまだ、覚えてくれているだろうか。
 それともこれは、過去の一幕に成り下がってしまっただろうか。
 喩えそうだとしても、色褪せて行く記憶のどこか片隅に留め置いていて欲しいと、ただ、願う。


 ぎらぎらと太陽が照りつける。
 この都は少し標高が高い。都の中は緑も少ないので空気は乾ききり、日光の熱は弱まることなく直に地表を焼き付ける。昔は、紋章の力で風を吹かせ、気温を下げ、日差しを和らげていたらしいのだが、今はそんな余力もない。ここ数年の人手不足は特に顕著だ。
 元々、屋外に出るのは苦手だった。色素が薄いので日焼けなどする前に赤く腫上がってしまうのだ。しかし、違う意味でも太陽が嫌いになりそうだと、心の中でそっと呟く。他に思い浮かぶ言葉もない程に、とにかく太陽の日差しが暑い。いつもであれば、すぐさま日陰か屋内に退避するところだ。
 けれど、今日は違う。日光は相変わらず不快だが、それよりも気になる物があった。
 南中した太陽に背を向けて見上げるのは、「壁」。物理的に都を取り囲む外壁は、今いる都の中心付近から目視することはできない。この場所から見えるのは、魔法紋章によって築き上げられた魔法の壁だ。
 本来ならば不可視であるように設計されているそれは、今、揺らぎを見せていた。紋章について知らない人が見れば、空が歪んでいるようにしか見えないだろうが、それに携わる人なら誰でも知っている。それが指し示す事実は、ただ一つしかないことを。
「いやあああぁぁぁっ!」
「崩れる、崩れるぞっ!!」
「あれが崩れたら終わりだっ! 攻撃が中まで入ってくるぞっ! 皆、早く隠れろっ!」
「とにかく、子供たちだっ! 子供たちを早く逃がせっ!」
「転送機は!? あれは動いているのか!?」
 空がまた、ぐにゃりと歪む。本来なら均一なはずの青い色に斑ができ、波打つように広がって行く。
 そんな様子を、頭上で飛び交う怒声を聞き流しながら、眺めていた。

 それは、一朝一夕で完成するような、簡単で柔な代物ではない。何十年、何百年という歳月をかけ、時に十数人という人材を投入し、何回も世代交代を繰り返しながら一歩ずつ着実に組み上げられてきた物だ。
 まだ改良できる余地があったとはいえ、破ることは不可能だと一度は周囲の国々に言わしめたもの。
 外壁と共に何度となくこの都を守ってきた、そして外敵によって破られることなど誰も想定しなかったもの。
 そんな魔法による防護壁が、ローゼンハイムの守護が、今まさに崩れ去ろうとしている。
 いや、想定していた人はいるのだ。しかしそれは、魔法障壁の補修に携わり、その損傷の酷さを間近に見てきたローゼンハイムくらいなものであろうが。

 外部からの衝撃が一つ二つと加わる度に、「空」の振れ幅が増して行く。過剰とも思われる攻撃の前では、いかなる強度を誇ろうともいつかは耐えきれなくなるのだと、半ば感心したように見つめた。
 着実に増え続けているであろう綻びを、今この場で修復していくことも可能だ。けれどそれは、ほんの僅かな時間稼ぎにしかならないことも明白だった。
 ならば、この明らかな最期を前に、見ていること以外の何ができるだろうか?
「子供はこれで全員か!?」
「何してるの、早くこっちにっ!」
「聞いているのかっ!」
 今まで聞いたこともないような怒鳴り声に驚く間もなく、ひょいと背後から抱え上げられ、発動していた魔法陣の中に軽く投げ込まれる。覗き込んできた自分と同じ青い瞳を、じっと見返した。
「今まで良く頑張ってくれたな。ありがとう」
「もっと」
 離れて行こうとする彼に伝えたいことは沢山ある筈だった。今はたった一つしか思い出せないけれど。
「もっと、あなたから学びたかったです。父さん」
 振り返った彼は、いつもの笑顔で、いつもの口調で、言うのだ。
「どこかでまた会おう、クラウス」

 陣が眩い程の光を放ち——





Good Day, Good Departure 企画 異聞録

カサローサの遺産



「次はカサローサに寄ろうと思うんだ。特に理由はないけど、近くを通るからね」
 腰を落ち着けた宿の一室で、皆にそんな提案をしたリューは、仲間六人の顔をぐるりと見回した。
 この国の中では東寄りにあったウィンドベル。そこから一人二人と仲間を増やしてきたリューたち一行は、今や西の端へと近付きつつある。
 東西に長いこの国でウィンドベルの反対側である西の端、ましてや国境沿いであるカサローサに来る機会があるだなんて、リューは全く思ってもみなかった。随分遠くまで旅をしてきたものだと、リューは無表情ながら感慨に耽る。
「いいんじゃないか?」
「サンセーっす」
「皆が行くって言うんなら、お、俺も……」
 口々に賛同し、頷いてみせるメンバーの反応に、「決まりだね」と言いかけたリューだったが、ふと気付けばリューから一番離れた場所、面々の背後に座っていたクラウスが同意を示していないことに気付いた。
 道具の制作に没頭し、メンバーの話に反応し忘れることがしばしばあるクラウスだが、今日、彼の手元には何もない。ならば彼がその意志を表明しない理由は何であろうかと、リューは首を傾げた。

 クラウスはいつも、他人の提案に諸手を挙げて賛成するようなことはないが、あからさまに否定することもしない。否、大概どんな提案もあの変わらない穏やかな笑顔で受け入れ、支持する姿勢を崩さないでいてくれた。
 だからクラウスの反対を受けることなどリューにとっては想定外であり、同意を示さない彼のこの態度が何を意味するのか、皆目見当もつかなかった。

 カサローサは、歴史の長い街だと聞いている。古くは独立し、繁栄を見せた一大都市。
 長い歴史の間に一体何があったのか、今はこの国の統治を受け入れている。長きに渡り栄えた名残を見せる旧市街に住む人は今やおらず、過去の栄光など見る影もないと噂されていた。
 都の名「カサローサ」の意味は「赤い家」。実際、この地方は赤土が多いらしく、今リューたち一行が泊っている宿の壁も赤い。カサローサにはそんな赤い家が立ち並んでいるのだろうと彼は思う。
 また、歴史の中で幾度となく赤く血塗られたことからその名がついたとされる説もある。どちらが本当か、最早知る人もいないのだろう。

「勝手にしやがれってぇんです」
「カサローサと言えば、あの、水の上に浮かぶようにそびえる姿が美しいとされ、多くの小説で舞台となった都ではありませんか! 私も一度で良いので、その優美な姿をこの目で見てみたいと思っておりました」
 感激したようにクロバが語り、ユーヒが、ヒースが、スカイアが、ふぅんと分かっていなさそうな相づちを打つ。「優美」という言葉に反応し、興味を惹かれたのはソフィアだけのようだった。

 クロバの言う通り、カサローサは水に囲まれている。東西の二方は谷川、南の一方は湖だ。そんな珍しい立地の都は、精霊の住まう土地だったとも、古代皇帝の別荘地だったとも言われている。
 リューが知る限りそのような史実はないが、それだけ幻想的な佇まいであるという証明くらいにはなる。

 リューがクラウスに視線を戻せば、やはり彼は話を聞いていないのか、ただ天井の一点を微動だにせず見つめている。
 ここまでくると、クラウスはリューたちの話など最初から欠片も聞いておらず、頭の中は新しく制作に取りかかる道具に付加する紋章のことで一杯なのではなかろうかとの疑惑すら出てくる。
「クラウス、どうしたの?」
 いくら待ってみても自分からは意志表示をしてくれなさそうな彼に痺れを切らし、リューは呼びかける。すると、天井を見ていた青い瞳がリューを捉えた。反応しなかっただけで、一応話は聞いてはいたらしい。
 彼はリューに対して何も言うことはせず、そのままクロバに視線を向けた。
「そんなに良い場所なのかい、クロバ君」
 判断を下す為に更なる情報を求めることは多々あることだ。しかし、このクラウスの質問には、何か別の意図があるような、そんな気がリューにはした。
 詳細を求められたクロバは、小説の描写を思い出してか、うっとりと目を閉じて応じる。
「カサローサは異教徒の都。私たちが見慣れた物とは全く違った建築様式の家々が、全く異なる街の構造を織りなすように配置され、ひとたび都の中に足を踏み入れれば、まるで異世界に入りこんでしまったような、そんな錯覚に陥ると言われています。
 天気の良い日に水面に映り込む都の姿、霧がかかった日にはまるで雲の上に浮いているかのようにもみえる幻想的な佇まい——残された建物からだけではその過去の栄華を推測することが難しい現実も相まって、今も多くの人々を魅了し続けている神秘的な所だと聞いております」
 クロバの語りを聞きながらクラウスの反応を見ていたリューは、直感的に違うと思った。彼が求めているのは、このような情報ではないのだと。
 実際、クラウスは訊いた本人であるというのにクロバの話には興味がないようで、彼の態度からは心ここにあらずといった印象すらも受ける。
 いや、彼は聞いてはいるのだ。聞いてはいるのだが、その話の内容を何か別のものと照らし合わせているような、まるで答え合わせをしているような、そんな様子に見受けられた。

 クラウスは、あまり自分自身のことを語らない。
 良く色々な街や村のことを知っているし、各地にいる知り合いや顧客の人数も多いことから、旅を始めて長いのだろうとは思う。
 けれど実際にどのような経緯で旅をするようになったのかも、今までどんな場所を渡ってきたのかも、そもそもクラウスがどこの出身なのかも、リューは知らないのだ。
 以前リオ・ドルミールで会ったラルフ・ローゼンクランツの話から察するに、ローゼンハイムは紋章師として有名らしい。だが少なくともリューはクラウスに出会うまでローゼンハイムの名前を聞いたことはなかったし、気をつけて話を聞いてみるようになった今だって、他のローゼンハイム家の人間のことは聞こえてこない。

「あそこは魔法紋章学の発展していた都だって噂もある。まぁ、実際にはそんなもの欠片もなかったって噂もあるから、どっちが本当かは分からないけど」
 クラウスが行かないと言い出すのではないか。そんな得体の知れない焦りに、これならば彼の気も引けるだろうと思って付け加えてみるが、今日のクラウスはリューも真っ青になるくらい表情が動かない。
 いや、表情自体は微笑んだり驚いたりと多少は動いているのだ。しかしリューにはどうしてもそれが表面的な変化に思われてならない。その奥にある考えが、全くと言っていい程に読めないのだ。
「というかクラウスさん、行ったことないんっすか?」
 素朴なユーヒの疑問に、クロバが、ソフィアが、ヒースが、頷いてみせる。
「うーん、ない、かな」
 その一言に、スカイアを除いた全員が驚きの表情を見せた。
「クラウスさんにもまだ行ったことのない場所とかあるんっすね!」
「意外です……大陸中歩き尽くしたのだとばかり思っていました」
「そう、なんだ」
「カサローサってぇのは、そんな辺鄙な所にあるっつーんですか?」
「スカイアは驚かないんだ?」
「まぁ、な。世界は広いから、行ったことのない場所の一つや二つ、あったとしてもおかしくないだろう。むしろ俺は安心したな。
 そういうリュー、お前だって驚いてないように見えるが?」
「何を隠そう、おれはびっくり仰天、ひっくり返る寸前です」
「その表情でかい」
 大仰にも思われるメンバーの反応に、クラウスは苦笑した。
「僕にだってまだ行っていない場所くらいあるよ。灼熱地獄も極寒も山奥も、全て慎んでお断りしているからね」
「そういう目的地の選び方もどうなんだ」
 じと目で突っ込むスカイアに、クラウスはただ笑みを返す。そして普段通りの口調で言うのだ。
「決まりだね。じゃあ、行ってみようか」
 ——彼の決断が、腑に落ちない。













登録者:夢裏徨
HP:月影草
Good Day Good Departure企画