黒雲に輝く一筋の



「ただいま……?」
 玄関先にあったのは、二足の見慣れない靴。どうやら珍しく客が来ているようだった。
「お帰りなさい、磊砢。手を洗っていらっしゃい、今皆でお茶をしているから」
 母が自分も同席させるとは、本当に誰が来ているのだろうかと磊砢は首を傾げた。少し考えてみても、誰も思い至らない。
 母親に言われた通り手洗いし、荷物を自室に置いた彼女が居間に入れば、そこにいたのは見覚えのあるスーツ姿の二人と、談笑する母親だった。
 静かに入ってきた磊砢に気がついたらしい二人は、顔を上げてにこりと笑う。
「お帰りなさい」
「な、なんでここに……?」
 先ほど学校で会った二人。自分の家に来るはずがないと、再び会う可能性すらも疑った二人の存在に、思わず声が上ずった。
 軽いパニックに陥っている磊砢を意にも介せず、あたかも当然と言わんばかりの態度で瑠璃が口を開いた。
「磊砢ちゃん、学校で訊いたわよね。私たちが何でここに来たのかって。あの時は答えられなくてごめんなさい。簡単に結論だけ先に言うと、理由はあなたよ」
「私?」
 突然言われてもよく状況が飲み込めず、磊砢は母や紗綾の顔を見るが、二人は沈黙しており答えはない。
「まあ長い話になるから座って。組織『闇・羽』のことは聞いたことがあるかしら」
「待って、待ってください。その前になんでお二人がここに……?」
 結論を急ぐ磊砢にふっと微笑んで、瑠璃はやはり淡々と告げる。
「紹介されたのよ。学校から、あなたを引き抜かないかって」
「!?」
 磊砢は驚いて息を飲んだ。だが、同時に彼女の頭の片隅はどこか冷静で、これはチャンスだと考えていた。是非、と彼女が答える前に紗綾が静かに首を横に振る。
「私は、反対です」
「わたしも賛同しかねるわねぇ」
「紗綾さん!? お母さんまで、何で!? お願いします、やらせてくださいっ」
 ここでチャンスを逃せば次はない――そう感じた磊砢は、一人意思表示をしていない瑠璃に泣きつく。が、彼女の笑顔は仮面のごとく、変化しなかった。
「私じゃ力不足だって言うの……?」
 がっくりと肩を落としつつも粘ろうとした時、電話が鳴る。紗綾の顔が一瞬、恐怖に歪んだ。磊砢の母が電話に出たことで呼び出し音が止まると、ようやく彼女は安心したようにほっと息を吐いた。
「紗綾ちゃん、まだ電話の音が苦手なのね」
「……仕方、ないじゃないですか。あの時のこと、私はまだ鮮明に覚えています。六年……長いですけど、長かったです、けど……――」
 紗綾は何か小さく呟きながら俯く。どうやら電話の音は彼女にとってトラウマらしく、彼女は自分自身を強く抱きしめていた。
 六年前。何があったのかは磊砢には知る由もないが、それは彼女が理扉に来た時と一致する。やはりこれは偶然ではないらしいと、彼女はなんとなく理解していた。
「磊砢ちゃん。あなたの成績表は学校で見せて貰ったわ。能力的に申し分はない」
 じゃあ、と瑠璃を見て言葉を紡ごうとする磊砢を制し、瑠璃は続ける。
「あなたのお母様と紗綾ちゃんの二人が反対している理由はね、あなたの能力に問題があるからじゃない。むしろ問題があるのは組織の方なのよ」
 ちらりと紗綾の様子を伺うが、彼女の顔は伏せられたままだった。黙り込んでしまった磊砢に言い聞かせるように、静かに瑠璃は口を開く。
「組織が作られた当初は、すごかったのかもしれないわ。けれど今いる研究者は誰もが、他人をどう蹴落とすかしか考えていない。一度所属してしまえば、足抜けすることも叶わない。私たちなんて前科があるから、こうして外出することも一苦労。
 ――そんな所に、あなたは本当に来たいの?」
「だって、私……わたし……」
「ねぇ、磊砢ちゃんは覚えてる? この国に来る時の、こと。五歳の時だったよね、理扉に渡ってきたの」
 ようやく口を開いた紗綾は、まだ下を向いたままだった。
 けれど彼女の言葉に、磊砢は確信する、やはり、さっき授業中に思い出したイメージは正しいのだと。あの車は恐らく能利から理扉へ移動している途中で、その時に磊砢は紗綾と一緒にいたのだと。
「磊砢ちゃんは覚えてるのかな。何で、能利を離れなくちゃいけなかったのか。覚えてるかな。それとも、そんなことはどうでもいいのかな」
「……覚えてないです。覚えていたくもない。能利の出身だから何だって言うんですか。もうこっちで過ごした時間の方が長いっていうのに……そろそろ忘れたいのに……。それって、何か関係するんですか? 何で今そのことを持ち出してくるんですか?」
「関係あるの。だって、あなたも……」
 痛々しそうに、言いづらそうに、紗綾は口ごもり、その視線が宙を泳いだ。
「あなたも被害者なのよ。あなたが一体いつから『闇・羽』に憧れるようになったかは知らないけれど――まあ、今の話で大体の理由は想像がつくけれど――少なくとも『闇・羽』はあなたのことを良くは思っていないでしょうね」
 瑠璃のあっさりとした物言いに、磊砢は寒気がした。小刻みに震えているのは、この肌寒い気温のせいだけではないだろう。
「ごめんね、突然こんなこと言って。でもね、そろそろ知っておいても……」
「今更、今更そんなこと言うんですかっ。信じろって言うんですかっ。『闇・羽』に入れて貰うのだけが唯一の道だと今までずっと思ってたのに、何で今更……っ。それに、突然被害者とか言われても信じられませんっ」
 紗綾の悲痛そうな顔。彼女が言い返してくる気配は、ない。
 だというのに――一瞬の沈黙を破り、場違いにも楽しげに笑い出したのは、瑠璃だった。
「やっぱり姉妹ね。あの頃の紗綾ちゃんにそっくりだわ。二人とも、今から二時間くらい空いているかしら」
 問い返す間も与えられす、畳みかけるように問いかけられ、反撃する勢いを失ってしまった磊砢は仕方なく、許可を求めようと電話中の母を見遣る。彼女はこくりと頷いた。
「はい、大丈夫です」
「私も早急に戻る必要のある用事はありません」
「じゃあついていらっしゃい。場所を変えてゆっくりと話しましょう」
 彼女の笑顔は、二人に有無をも言わせなかった。

 瑠璃が車を止めたのは、郊外にある墓地だった。
 一体どういうつもりなのか訊ねようにも、連れてきた張本人である瑠璃は相変わらず楽しげな笑顔を崩さないので声をかけにくい。もう一人の紗綾は未だに瑠璃の意図が読めないのか、僅かに顔を顰めていた。
「お墓だけはね、作らせてもらったの。磊砢ちゃん――いえ、麻仁ちゃんは覚えているかしら? 蟒優沙さん、あなたたちのお母様のこと」
「え? 何言って……」
 否定しようとすれば紗綾と目があった。彼女の表情は酷く寂しげで――確かに姉妹であったのなら、あの時に一緒にいたことも説明がつく気がすると、言葉を飲み込んだ。
「今すぐに思い出さなくても、いいから」
 紗綾の言葉に、磊砢はただ、頷く。だが、思い出せと言われて思い出せるものなのか、彼女には分からなかった。
「ところで猪代さん。これが母の、ということは、父のもどこかにあるんですか?」
「ないわ」
「ない? ということは父はまだ、生きているんですか?」
「そのはずよ」
「はず?」
 瑠璃の不明確な答えに、磊砢は首を傾げる。不思議に思ったのは、紗綾も同じであったようだった。
「蟒輝安――あなた方のお父様は、組織の手から逃れるために東の大陸に渡った。本当ならあなたたち二人も連れて行く予定だったのだけれど――お母様が、それを許さなかった」
「そっか、母は……私たちも組織に入ることを望んでいた。そうですね?」
 ぽつりと呟いた紗綾を、瑠璃は肯定する。そしてその結果、輝安だけが海を越えて亡命することになり――紗綾は組織に、麻仁は理扉にと離れ離れになることとなったのだと、彼女は続けた。
「それが正しい選択だったと、猪代さんは思いますか?」
「さぁね。それを決めるのは、当事者であるあなたたち二人でしょう?」
 そうですね、と寂しげに微笑む紗綾の反応が良く分からず、磊砢はまた小首を傾げた。
 三人が少しだけ黙祷してから車に戻れば、一人の男が車のボンネットに座り、何をするわけでもなくただ空を眺めていた。
 彼の持つ雰囲気は、どことなく紗綾のもつそれと似ていると、磊砢は思った。
「そこで何をしている」
 学校でも聞いた瑠璃の低く冷たい声に、慣れない磊砢が驚けば、紗綾は止めるわけでもなく苦笑いしている。どうやら、男は二人の知り合いらしい。
「相変わらずだな、『羽蝶』。遠路はるばる応援しに来てやったってのに」
「頼んでない。大体お前は自分の立場が分かっているのか」
「おー怖。立場って奴に関してなら、お前より分かってると思うぞ? 全く、無茶ばっかしやがって」
 瑠璃に対しておどけた口調で軽口を叩いた彼は、今度は優しい笑顔になると紗綾と麻仁に向き直った。
「元気に……してるみたいだな、二人とも。……ごめんな、必要な時に側にいてやれなくて」
「ごめん、じゃないよっ。突然猪代さんに頼れって言ったっきりどっかに行っちゃうなんてっ。あの後本当にどうしようって、麻仁連れて、行く当てもなくて、本当に猪代さんを頼っていいのかも分かんなくって……! 大変だったんだから、今でも電話鳴るのがすごく、怖くって……」
 紗綾の声は尻すぼみに消える。彼女は唇を噛みして、涙を堪えていた。
「よく頑張ったな、紗綾。ありがとう」
 ボンネットから立ち上がり、紗綾に近寄った彼が労いの言葉と共に優しく彼女の頭を撫でれば、それが引き金になったのか、堪えきれずに紗綾はわっと泣き出した。
「麻仁もおいで」
 促されて戸惑いながらも近づけば、力強く抱きしめられる。その温もりに、麻仁の瞳からも涙が勝手に零れた。

 



暗黒の雲
月影草