黒雲に輝く一筋の



 数日後。未だに、能利にいた頃のことは思い出せていない。思い出そうにも、思い出すきっかけになりそうな写真一枚すらもない。今彼女が理解しているのは、紗綾が六つ離れた姉で、輝安が父、母は六年前の混乱で亡くなったことだけだ。
 過去のことに関して磊砢は完全に手詰まりだった。
 そんな中で、彼女は組織から受け取った招待状を手に、『闇・羽』の門をくぐっていた。
 瑠璃や紗綾は組織になど関わるなと言っていたが、ずっと胸に抱き続けてきた夢をそう簡単に捨てれるわけもない。だからせめて自らの目で『闇・羽』がどんな組織であるのかを確かめようと、単身乗り込むことにしたのだ。
 着いた建物は三階建て。ありとあらゆる分野を網羅しているという研究所としては規模が小さいのではないのかと、磊砢は思った。もしかしたら意外にも中は広いのかもしれない。そう思いながら入った研究所内は、案外普通だった。
「鼎さんって、あなた?」
 受付で待つように言われ、ロビーで待っていたら、奥から慌てて出てきた女性研究員に声をかけられた。案内してくれるのは瑠璃か紗綾かと思っていたが、どうやら彼女らしい。二人よりも年上のようだが、二人よりも頼りなさげだと、磊砢は思った。
「あ、はい。鼎磊砢です、よろしくお願いします」
「私は『勇魚』。よろしくね」
 笑って招き入れられてくれた彼女、『勇魚』は一階を回ることなく階段を降り始める。
「え、地下なんですか?」
 思わず磊砢が問いかければ、あー、と彼女は苦笑した。
「元々、公にできるような研究をしていたわけじゃないから、研究室は全部地下にあるのよ。研究員の部屋くらいは、上に作っても良かったでしょうにね」
「じゃあ上には何が……?」
「国立研究所になる前はね、表向きには図書館だったの」
 だから地上階は今でも図書館として使われているらしかった。
 案内して貰った地下の『闇・羽』の研究所は大きく、広く、最新鋭の設備だろうと思われる機械がずらりと並んでいる。研究をする場としては申し分のないことくらい、全く経験のない磊砢にも分かった。
 けれども同時にこれでもかという程に人気がなく、やたら寒々しい。時折出会う人の表情や態度までもが冷たく彼女には感じられた。
 研究室の前を通る度に磊砢はプレートを確認するのだが、残念ながらあの二人が所属するという「総合部門」は見当たらない。結構歩き回っているように思うのに見当たらないのは、そもそもその部屋がないからなのか、それともこの建物が磊砢の想像以上に大きいのか。
「あの……」
「ごめんね、総合部門は見せられないの」
 先に言われてしまっては、磊砢はそうですかと引き下がるしかない。見せられないとは一体どういうことなのだろうかとは聞き返せずに、彼女は一人首をかしげた。
 最後に来た部屋のプレートを見て、磊砢は思わず身構えた。総司令室。ここで総司令に会ってしまえば、後戻りはできない。
 『勇魚』がノックし、磊砢はつばを飲む。
 返事は、ない。
 本当ならばここで、どうしても会わせて欲しいと懇願する所なのだろうと思いつつも、先に瑠璃と紗綾に会ってしまった今の磊砢には、できない。むしろ逆に総司令がいなかったことに、彼女はほっとしていた。
「『覇王樹』がいない……?」
 『勇魚』は僅かに顔を顰める。どうやら彼がいなかったことは想定外だったようだ。
 彼女が振り返り、どうすると磊砢に聞こうとしたところで、ぱたぱたと一人の研究員――紗綾が、駆けてくる。彼女は廊下にいた『勇魚』と磊砢に気付き、立ち止まる。
「『勇魚』、『羽蝶』は? 『羽蝶』を見ませんでした?」
 理由もなしに、用件のみを簡潔に告げる――乱れた呼吸を整える僅かな間さえも、紗綾は惜しんでいた。
「見てないけど……え、『羽蝶』もいないの?」
「『羽蝶』もって……!?」
 『勇魚』の言葉に、紗綾の表情が青ざめる。その反応に遅まきながら何かに気付いたらしい『勇魚』も、息を飲んだ。
「どこに行ったのかとか、思い当たる場所はないんですかっ!?」
「ほとんど外に出たことのない私が知ってるわけないでしょっ」
 叫ぶように言い返されて、多少冷静になった紗綾は口を閉ざす。そんな彼女に声のトーンを少し落として、『勇魚』は続けた。
「むしろ、『羽蝶』の下についてたあなたの方が分かるんじゃない?」
「そうは言われても、仕事関係で連れていって貰った所ばかりですし……」
 呟きながらも、彼女は思い当たる場所を探しているようであった。
 時間ばかりが過ぎていく焦りに紗綾が唇を噛めば、身長の高い無表情な男性研究員が通りかかる。
 心なしか『勇魚』と紗綾の二人が身構えるのが分かり、彼は決して味方ではないのだと、磊砢は理解した。
 だが、彼は二人になど興味はないようで。
「そこで何をしている」
「何って、見れば分かるでしょ? 総司令に用があるの。『覇王樹』がどこに行ったか知らない?」
 総司令、と口の中で繰り返し、彼は答えた。
「『覇王樹』なら二度と現れない。この組織も、解散だ」
 吐くように言い捨てて、けれど楽しそうに彼はにやりと嗤う。
 彼の言葉の真意を読み取れなかったのは磊砢だけではない。紗綾も『勇魚』も同じだった。
「二度と、現れない?」
「それって、どういうことですか」
「奴は死んだ」
 冷やかな紗綾の質問に彼は淡々と言い切って通りすぎる。あまりにもあっさりとした彼の物言いに一瞬何を言われたのか理解できず、三人は揃って呆然とした。
 そんな彼女らの前で、彼は何を思ったのかふと立ち止まる。
「『羽蝶』なら――」
 彼が告げたのは、ここから車で二十分ほど南東に行った場所だった。

 どうしても行くと言って聞かなかった二人を乗せた車を、『勇魚』は小高い丘のふもとで止める。丘の上には一本の樹が。その根本には、人影が。
「猪代さんっ」
 躊躇わずに飛び出した紗綾を追いかけようとして、一瞬磊砢は立ち止まる。当然一緒にいくと思っていた『勇魚』が、動かなかったからだ。
「私はここで待ってるから、いってらっしゃい」
 どこか引きつった表情で言われては言い返せない。磊砢はただこくりと頷き返し、すぐに紗綾の背を追いかけた。
 頂上に着く数歩手前で立ち止まってしまった紗綾に磊砢が並べば、満開に咲き誇るその樹の根本に虚ろな視線で座っている瑠璃の姿が目に入る。端から見れば、花に見とれているようにも見えただろう。だが、彼女の白衣についた赤い模様がやけに毒々しく――それが、白衣についた血痕であると磊砢が気付くのに、数秒を要した。
「な……」
「猪代、さん」
 紗綾の呼びかけに、瑠璃はようやく二人の方に視線を向けた。そんな彼女の瞳に、感情の色はない。
 感情どころか、二人のことを認識しているのかどうかすら、怪しい。
「『公孫樹』に聞きました。『覇王樹』が亡くなったって」
「彼は……」
 瑠璃が何かを呟くが、その声は紗綾にも磊砢にも届かない。
「今、何て……?」
 磊砢が問い返せば、瑠璃は空を見上げて目を閉じる。そしてすぐに立ち上がり――後は、普段通りの彼女だった。白衣についた血痕はまだ乾ききっていない――けれど、それを瑠璃が気にした様子も、ない。
「来てくれてありがとうね、二人とも。でも、もう研究所に戻らないと」
 瑠璃の変わり身の早さが、無理をしていつも通りに振舞っているだけなのではと、逆に紗綾と磊砢の二人を不安にする。
「でも……猪代さんは大丈夫なんですか?」
「そうですよ、瑠璃さん……無理したらダメですよ?」
 口々に問われ、瑠璃自身は自分のことを心配されるとは思っておらず、少し驚いたようだった。
「私? 私は平気よ」
 何を言っているの、と言って彼女はふふっと笑う。
「『闇・羽』は解散し、東春は潰れた。この意味、あなたたちには分かるわね?」
「……はい。国がなくなったことによる混乱を防ぐためにも、早急に新しい国を立てないといけません、よね」
 正解、と歌うように瑠璃は告げる。
「まだ気は抜けないわ。むしろこれからが勝負とも言えるんじゃないかしら。手伝ってくれるわね、二人とも」
 問われて二人は同時に、はいと頷く。
 暖かく柔らかな風が、三人の頭上で咲き誇る花を、優しく揺らした。



 ――深夜。最下層から自室に戻ってきた少女は椅子を引くことすらももどかしく、ベッドの上に倒れるようにして寝転がる。そして、手に持っていた透明なケースを、頭上にかざした。
 中に大事そうにしまわれているのは、小さなチップ。
 それだけを見れば、誰もが機械から取り出されたものだと思うだろう。だが、現実は違う。それはたった今、彼女がヒトの脳から取り出したモノだった。最初からそんなモノが埋まっているはずなどないのだから、当然後から埋め込まれたこととなる。
「こんなモノが……」
 彼女はただ呟いた。そこには嫌悪も、憎悪も、歓喜も、何もない。
 誰に問いかけることもなく、ただ、自身でその事実を確認しているだけ。
「こんなモノが、この世界を狂わせた、か……」
 ヒトの手には余るもの。
 作り出した彼ら自身の手では到底責任を負うことなどできない「大惨事」を、引き起こした原因。
「この場合の責任は、誰が取るべきなのかしら。ね……?」
 少女はただにっこりと、微笑んだ。その笑顔はいつになく楽しげで。
「もう少し、楽しませてもらうわよ」
 世界が滅びるのが先か、この身が朽ち果てるのが先か――




暗黒の雲
月影草