黒雲に輝く一筋の



 磊砢はぼうっと空を見上げた。青くて良い天気なのにも関わらず、まだ肌寒くてコートが手放せない。やることもなくただ冷たい風に晒されていると、早く待っている人が来ないだろうかと思ってしまう。だが、冷たい視線を浴びながら教室にいるよりもこうして待っている方が良い気もして、来て欲しいのに、来て欲しくないような、磊砢は複雑な気持ちだった。
「今日の視察、なんで私も指名されたんですか? 私が着いてくる意味って、あるんですか?」
「さぁ。あなたを指名したのは総司令だから、彼に聞いてちょうだい」
 風に乗って聞こえてきたのは、どこか不機嫌そうな声と、どこか楽しげな声。来たのが女性だったことに驚きつつも、聞こえてきた二人の声に、校門で待機していた磊砢は背筋を正した。
「少しは喜んだら? 堂々と外出できることなんてそうそうないんだし。それとも、来たくない理由でもあった?」
「いえ、そんなものはないですけど……」
 校門の前で立ち止まったのは、スーツにその身を包んだ、けれど見た目は高校生くらいの二人。「視察」と言っていたのだし、二人ともスーツ姿なのだから、磊砢が待っていたのはこの二人で間違いないだろうに、彼女は一瞬信じられずに目を瞬かせた。
 遅れること数秒、はっとなった磊砢は慌てて二人に頭を下げる。
「は、初めまして。六年の鼎 磊砢です。今日は学校の視察でしたよね、私が案内しますのでよろしくお願いしますっ」
 彼女が一気にまくしたてれば、スーツに身を固めた二人はしばし沈黙した。何か変なことでも言ってしまっただろうかと上目遣いに二人を見上げても、何の反応もない。
 もしかして人違いだっただろうか。
 どうしようと彼女が慌て始めた所で、ようやく一人が微笑んで口を開く。彼女は紫色の瞳が、印象的だった。
「案内してくれるの? ありがとう。今日はよろしくね、磊砢ちゃん。だけど――一つ気になったのは、私は今日だとも、この時間だとも伝えた覚えがないのよね」
 彼女に指摘されてようやく合点が行く。確かに、いつ来るかも分からない彼らを下手したら一週間待ち続けることは、自分でも酔狂だと思った。彼らがおかしく思うのも、当然だ。
「じゃあ、まさかあなた、もし私たちが来なかったら、一日中ここで待っているつもりだったの?」
 今まで黙っていたもう一人に顔を顰められ、磊砢は戸惑い、苦笑しながらも頷いた。――どこかで彼女には会ったことがあるような気がするのは、気のせいだろうか。
「嫌だとは思わなかったの? 来るか来ないかも分からないような人を一日中、もしかしたら一週間も待ち続けるなんて」
「思わなかった、です。教室にずっといるよりはいいかな、なんて」
 そうそっと零せば、彼女は痛々しげな表情をした。もしかしたら彼女にも似たような経験があるのかもしれないと、磊砢は思う。もしかしたら、組織にはそんな経験を持つ人が集まっているのかもしれない、分かり合える人がいるかも知れない、と。
 何かを言おうとして口を開いた彼女を、紫の瞳の彼女が制した。
「紗綾ちゃん。その話はまた後でにしましょう。今は仕事中だから、ね」
「そうでしたね、すみません。鼎さんも、ごめんね」
「改めまして、私は猪代瑠璃。彼女はアシスタントの蟒紗綾。今日はよろしくね、磊砢ちゃん」
 二人から差し出された手を、磊砢は反射的に握り返す。
 紗綾、と口の中で呟いた磊砢に、瑠璃はにっこりと微笑んだ。

 校舎内を一周ぐるりと回って、磊砢はふぅと安堵の息をつく。彼女はたまに相槌を打ちながらついてきていた二人を、くるりと振り返った。
「……以上です。何か質問はありますか?」
「そうは言われても、学校見学に来たわけじゃないし……」
 小首を傾げる紗綾に、磊砢は閉口した。確かに研究員が学校見学というのもおかしな話ではある。大学ならばともかく、小学校というのは更におかしい。けれどももし「視察」の目的が学校見学ではないというのならば、彼らは何をしに来たというのか。
「私たちがここまで来た理由。それを聞くなら私たちにではなくて――」
 磊砢は無言で二人を見上げていただけだというのに、彼女の考えを見透かすように瑠璃は言葉を紡ぎ、そしてそれは途中で途切れた。
「やぁ、ようこそいらっしゃいました。こら、鼎君。案内が終わったら私の部屋まで連れてくるようにと言ったではないか」
 急ぎ足で廊下を歩いてきたのは校長だ。磊砢を咎めるような彼の言葉に、俯いた彼女がすみませんでしたと口走るよりも、瑠璃が口を開く方が早かった。
「我々が頼んだので。そちらの予定を壊してしまったのなら、申し訳ない」
 聞き慣れない冷たい声音と口調に、はっと磊砢は顔を上げる。先ほどまでの柔らかい笑顔は、瑠璃の顔には最早なかった。それは別人かと思わせるほどの変貌ぶりで、思わず磊砢は紗綾の様子を伺った。
 磊砢の様子に気付いたのか、紗綾は変わらない笑顔でにっこりと磊砢に笑いかける。その笑顔に少しだけ安心した彼女は、はにかんでまた顔を伏せる。
「私は東春国立中央研究所、総合部門に務める『羽蝶』です。こちらは私の助手の『龍玉』。この度はお招きいただき、ありがとうございます」
 流れるような口調での、瑠璃の自己紹介に、思わず磊砢は顔を顰めた。何故ならそれは二人が彼女に名乗った名前とは全く違うし、なにより二人が学校側から招かれたとは、先に聞かされた話と違う。
「いえいえ、こちらこそ東春の中央研から来ていただけるとは光栄です。立ち話も何ですし、どうぞ私の部屋に」
 えぇと頷いて、先導する校長の後に二人は続く。数歩歩いた所で、二人は立ちつくしたままの磊砢を振り返った。
「磊砢ちゃん、今日はありがとうね」
「……! いえ、こちらこそ……?」
――笑顔が、思い出せない。

 彼らと別れた後、磊砢は教室に戻ったものの、全く集中できなかった。
 ウワバミ サアヤと名乗った彼女。多分理扉の出身だとは思うのだけれども、磊砢には自信がなかった。理扉以外の血が混ざっているのかもしれない。
 同時に彼女の名前はどこかで聞いたような気がすると、磊砢は思っていた。更に、磊砢が知っている気がするのは、サアヤの名前だけではない。彼女の笑顔もだ。
 もしかしたら有名な人で、新聞か何かで写真と一緒に見たのかもしれないと結論づけようにも、それは違うと直感が訴えてくる。
 それに――もし新聞で見たのなら、漢字の予想くらいついてもいいはずなのに、彼女の名前にどんな感じが当てはまるのか、全く思いつかなかった。彼女は助手だと言っていたし、新聞や雑誌では助手の方だけを扱うことなどあるのだろうか。
 もう一人のイシロ ルリ。彼女の名前に聞き覚えはないものの、紫の瞳は見たことがある気がすると、磊砢は記憶を辿る。
 紫の瞳なんて珍しい。少なくとも磊砢の知り合いに紫の目を持つ人はいなかったと思うと、彼女にも会ったことがあるのかもしれない。
 聞けば二人は答えてくれるのだろうか。
 あの二人ならば答えてくれるのだろうが、そもそもの問題として聞ける機会があるのだろうか。
 機会はあるかもしれない、と磊砢は思った。もしあの二人が、磊砢を組織に引き抜こうと思ったのなら。
 だがそれは非常に他人任せで不確実だ。そんな不確かなモノに頼るのは自分で許せずに、もし実際に会ったことがあるのなら、何か自分でも思い出せるかもしれないと、授業をそっちのけで彼女は再び記憶を探る。
 最近のことでないのは確かだから、恐らく小学校以前だろうと見当をつけるものの、そこまで遡ってしまうと急に記憶があやふやになる。それは磊砢が幼すぎただけが原因ではない。能利で過ごしていた日々のことなど覚えていたくもないと、磊砢自身が忘れ去ろうとしてきたからだ。今は、忘れようとしてきたことが憎い。
 それでも何かは思い出そうと必死になれば、ふと思い浮かんできたのは低学年の頃の情景だった。
 あの頃は国籍も、成績も、気にしなくて良かったと思うと、悔しくてたまらない。
 だからと言ってあの頃に戻りたいかと聞かれれば、それもご免だった。――何故? 磊砢は自問する。
 幼い頃は泣いてばかりいたような記憶も、確かにあった。誰かが恋しくて泣き喚いて。いつも母に宥められていたのだから、探していたのは母ではない、誰か。
 それが誰だったのか思い出せず、これ以上時間を使うのは無駄であると磊砢は判断した。今日はここで終わりにしようと彼女は授業に耳を傾ける。
 授業を聞いていればそちらに集中できるかと思ったが、繰り返しの多い内容にすぐに飽きてしまった磊砢は、やはり気付けば過去を思い返していた。
 何気なく彼女の脳裏に浮かんだのは、一つのイメージ。
 車の中で誰かに抱きしめられている自分自身。
 その人の温もりとは正反対で、緊迫した空気が車の中には流れていた気がする。
 うとうととしていてほとんど覚えていないが、カタンとした揺れに一瞬目が覚めた「磊砢」は、助手席に座っている人の顔を見た。
 ――紫の、瞳。
 にこやかで、冷やかなその瞳に恐怖を覚え、「彼女」は自分を抱きしめている人物を見上げたのだ。
 そしてそれは、ウワバミ サアヤだった。

 



暗黒の雲
月影草