黒雲に輝く一筋の



 狭い小部屋に連れられた磊砢は、勧められた椅子に浅く腰掛ける。
 進路指導や面接などで使われる部屋で、彼女はあまり好きではない。何故なら、必ず向かい合って座る教師との距離が、近いから。
 彼女に続いて入ってきたのは担任ではなく、校長。彼はやはり彼女に向かい合うように座り、先ほど教師が浮かべたのと同じような笑みを浮かべる。なんだか気まずくて、磊砢はあいまいな笑みを浮かべると、視線を伏せた。
「君は確か、地元の中学に進学する予定だったかな?」
「……はい。他の所も考えましたけど、通うのが大変なのはちょっと……」
 六年生の春先。大半の生徒は既に進学先が決まり、数ヵ月後の卒業を待ち望んでいる時期だ。進学先を変えることはまだ出来るものの、別の学校に受験して、今予定している所をキャンセルしてと、残り数ヶ月の間にやらなければならないことは格段に増える。
 もっと学力の高い所に進学すればいいと何度も言われてきたが、今から変更はしたくないというのが、磊砢の本音だった。
「今更なんだけど、別の選択肢には興味がないかな?」
「別の、選択肢ですか?」
 全く興味がないとは言えずに、ただ磊砢は言われた言葉を繰り返す。また別の学校を進められるのだろうかと思うと、すぐさまこの部屋から出て行きたかった。
 そんな彼女の内心を知ってか知らずにか、校長はやはりにこりと笑う。
「君には全く別の選択肢があってね。進学しない、とかはどうだろう?」
「進学しない?」
 予想していなかった言葉に、思わず磊砢は目を瞬かせた。進学しなかったとしたら、どうしろと言うのか、さっぱり予測ができない。
「君にならできると思うんだ……。鼎君。君は隣、東春国にある国立中央研究所を知っているかな。元は『闇・羽』という一つの組織だったらしいんだが」
 『闇・羽』の名に、とくり、と磊砢の鼓動がはねる。
 どこかで聞いたことのある名前であることは間違いない。けれど、それがどこであるのかは思い出せない。それに今は少しでも多くの情報が、欲しい――
 少し躊躇って、彼女は首を横に振った。磊砢が無知であると思えば、より多くのことを語ってくれるだろうと思ったからだ。
「だろうな。隣の国の研究所だし、組織であった時のことは伏せられているしね。でも君は知っておくべきだ。『闇・羽』と呼ばれた組織とこの国は、東春国が成り立つ以前から深い関係があること。そしてそれ以上に、彼の研究所は今も世界中から天才を集めていること。そしてきっと、君もいずれは」
 笑顔で自信満々に告げられて、磊砢は否定することも肯定することもできず、また曖昧な笑みだけを浮かべた。
 その組織に引き抜かれることは確かに磊砢にとって理想である。だけれども、それは希望であって確実な話ではない。第一、磊砢の存在などどうやってそこの組織が知るのだろうか。小学校程度がそんな組織と繋がりでもあるとでも言うのか。
「それでね、そこの研究員が今度視察に来るんだ。日付は知らされてないが、恐らく来週のどこかだと思う。もしよければ君に、彼らの案内を頼みたいんだが」
「いいですよ」
 驚きながらも磊砢は即答した。
 良いチャンスだと彼女は思う。これでその研究員の目にでも留まれば、数年後まで覚えておいてもらえるかもしれない。それなりの年齢になれば、引き抜いてもらえるかもしれない。
 退屈で灰色一色な毎日にようやく光が射したような気がして、磊砢はそっと微笑んだ。



 九年前のことを蒸し返されて精神的に不安定になっていた雀榕を宥めるのに、それ程時間はかからなかった。それでも雀榕が探し回っていた時間と、彼女を宥めるのに使った時間をあわせれば結構な時間になる。きっと、『覇王樹』はそれに対して何か言ってくるだろう――そんなことを考えながら総司令室に来た『羽蝶』は、ノックもそこそこに部屋に入る。
 書類やら本やらでごった返し、全く実用的ではない部屋の中心には当然のごとく『覇王樹』の姿が、そして隅の方でどことなく居心地悪そうにしている『勇魚』の姿があった。
 何故『勇魚』がいるのだろうかと疑問に思うが、恐らく暇にしている『覇王樹』に捕まり、そのまま退席するタイミングを失ってしまったのだろうと『羽蝶』は勝手に結論づけた。
「来たね、『羽蝶』。待ってはいたし遅いとも思ったけど、返事も聞かずに部屋に入るのはマナー違反でしょ」
 部屋の中に入るべきだろうかと『羽蝶』は一瞬考え込むが、物が溢れかえっているこの部屋には足の踏み場すらない。結局彼女は、後ろ手で閉めた扉に寄りかかった。
「生憎待っている時間すら惜しい。用件は」
「せっかちだなぁ、『羽蝶』は。もう少し精神的にゆとりを持とうよ。ほらリラックス。たまには笑えばいいのに」
 『羽蝶』は一人でへらへらと笑う『覇王樹』に付き合う気もないようで、返答せずに『勇魚』を一瞥する。『勇魚』は『勇魚』で『羽蝶』にちょっと肩を竦めて見せただけで、特に何も言わなかった。
 そんな二人の様子に、『覇王樹』はすねたように口先を尖らせる。
「あーあ、付き合い悪いんだから。いいよ、僕のことなんて嫌いなんでしょ。
 『羽蝶』を呼んだのは、本当に大した用件じゃないんだよね。本当なこんなこと『羽蝶』に頼みたくないんだけどさぁ、でも他に適任もいないし。
 それでね、『羽蝶』にはちょっと学校の視察に行ってきて欲しいんだ」
「学校の視察?」
 オウム返しに『羽蝶』が聞き返せば、『勇魚』が困ったような笑みを浮かべながら控えめに頷いた。
 そこで『羽蝶』は理解する。恐らく視察には『覇王樹』本人が行こうとし、それを『勇魚』が止めたのだと。確かに『覇王樹』を外に出したら話がややこしくなる。他の誰でもなく自分に回ってきたのは、視察される側からすれば良い話かもしれないと、無理やりながらに自身を納得させた。
 それに「外」の用事で立て込んでいる今、外出できる用事が回ってくるのは、『羽蝶』としてもありがたいことだった。けれど――それを『覇王樹』に悟られてはならない。既に『覇王樹』が気付いていたとしても、だ。
「それはいつから研究者の仕事になった。最近本職以外の仕事が多くないか」
「仕方ないよ、国になっちゃったんだから、今まで通り研究一筋っていうわけにはいかないよ。それに、子供の成長過程なんか研究してる人は行きたがるかもね」
 子供の成長過程。それは確かに興味深い研究テーマである。実際に人工知能を開発していた時は、『羽蝶』も子供の成長過程を観察していた。違う研究を進めている今現在でも興味深いとは思うのだが、今はある意味趣味とも言える研究よりも、もっと別のことで彼女は忙しいのだ。
「学校と一口に言っても沢山ある。まさか全部を見てこいなどとは言わないだろうな」
「言わないよ、そんなこと。ま、『羽蝶』がやりたいってのなら止めないけどさ。
 今回行って欲しいのは理扉の副都市にある第二小学校。……あ、疑ってるかもしれないから先に言っておくけど、これは僕の思いつきじゃないからね? 今回の視察はあちらさんの希望。よっぽど見せたい生徒でもいるんじゃない?」
 言って『覇王樹』は楽しげに笑う。どうやら彼は、そこの小学校に誰がいるのかを知っているらしい。そしてこれは、それを知っているからこその人選なのだ。――ならば、恐らく「彼女」であろうと、『羽蝶』は見当をつけた。
「ついでに『龍玉』も連れていけばいいよ。きっと喜ぶんじゃないのかな」
 『覇王樹』のその一言が、『羽蝶』の予想を裏付ける。『羽蝶』が知る「彼女」は幼稚園生だった。六年の歳月が流れた今、きっと「彼女」は姉に劣らず優秀に育ち上がったことであろう。
「用件はそれだけか」
「うん。あ、もう一つ。最近また外出が多くなったね、『羽蝶』」
「閉じこもっているよりも健康的だし、外で得る発想も多い」
「君が発想、ね」
 当たり障りのない返事をした『羽蝶』と、それを疑うように嗤う『覇王樹』。『羽蝶』はあえてそれ以上何も言わずにさっさと部屋を出た。
「わ、私もそろそろ実験に戻らないと……」
「えー、『勇魚』も行っちゃうの? 仕方ないなぁ」
 部屋から聞こえてきた二人の声に、『羽蝶』は立ち止まる。『覇王樹』は仕方ないなどさっぱり思っておらず、『勇魚』が彼女に話があることを分かって行かせるのだ。これでは、誰が味方で誰が敵なのだか、さっぱり分からない。
「『羽蝶』、『羽蝶』っ。あの……さ」
「どうした」
 見た目は『羽蝶』の方が大分幼いというのに、冷やかな紫色の瞳に『勇魚』は気圧され、ひるんだ。普段の『羽蝶』ならば忙しいからと言ってさっさとどこかに行ってしまうだろうに、今日は律儀に『勇魚』の言葉を待っていた。
「ちょっと個人的な話なの。だから、部屋に」
 視線を逸らし、そうまくしたてた彼女は有無をも言わせずに『羽蝶』を引きずっていく。少しは抵抗されると思っていたらしく、素直についていく『羽蝶』に『勇魚』は驚いたようであった。
 自室まで来た彼女は、とりあえず『羽蝶』を自分のベッドに座らせると、自身は背後で閉めた扉に寄りかかる。そして、はぁと深く息を吐く彼女に、『羽蝶』は小首を傾げた。
「個人的な話とはどんな話だ」
「止めてよ。どうせ分かってるんでしょ、私が何考えてるのかくらい。だから待ってたんでしょ? もう『羽蝶』は分かってるだろうから、こんなこと、あえて言う必要はないのかもしれなけど……『覇王樹』が動く。『羽蝶』、今度こそ潰されるわよ」
 『勇魚』が声を潜めれば、だからどうしたとでも言うように『羽蝶』は軽く肩を竦めた。
「それは『勇魚』としての言葉か? それとも」
「瑕瑾茘枝として、猪代瑠璃に言っているのよっ」
 あまりにも真剣な茘枝の態度に、おかしくなって瑠璃は思わず笑みを零す。
 瑠璃自身はこんなにも冷静で、焦っているのは茘枝の方だ。実際に行動しているのは瑠璃の方だというのに。
 彼女からすれば茘枝は無駄な心配をしているようにしか思えない。とはいえ、心配されていることが少し嬉しくもあった。
「忠告、ありがとう。ありがたく受け取っておくわ」
 ほっとした表情になる茘枝を見てくすりと笑い、でもね、といたずらっぽく瑠璃は続ける。
「でもね、茘枝。彼があなたに気付かせたというのなら――もう、手遅れだわ」
「それって、どういう……」
 再び表情を険しくする茘枝に、にこやかな笑みを崩さないまま、瑠璃は言い切った。
「もう『覇王樹』は準備を終えて手を打ってきている。そういうことよ」

 



暗黒の雲
月影草