黒雲に輝く一筋の



 時計を見上げれば、それが指し示すのは十時。この実験が終わったら次の実験は、とぼんやりと紗綾は考え始めるが、今日が金曜日だと気付くとはっとなって慌しく実験台の上を片付け始めた。
 その様子に、近くにいた瑠璃がくすりと笑って声をかける。
「苦労かけるわね。紗綾ちゃん」
「そ、そんなことないですよ、結構負担軽くしてもらってますし……」
「そう? あぁ、その実験の続き、よければ引き継ぐわよ」
 言われて紗綾は手元を見る。先週やり始めて、未だに結果の出ない実験。そろそろなんらかの結果は出て欲しいと、焦り始めていたのも確かだ。
「……じゃあ、お言葉に甘えてお願いしてもいいですか?」
 えぇ、と笑う瑠璃に紗綾は実験の計画手順の紙を渡し、急いで研究室から出た。
 戦争が終わった後、心配しているだろうからとの鼎の配慮で、紗綾は麻仁の通っている学校を教えて貰った。当然、紗綾から彼女に干渉するのは禁止だし、瑠璃にすらも秘密という約束だ。さらに、理扉の副都市に位置する学校は研究所から大分離れている。
 けれど、姿を見ることさえできないのに比べれば数段ましだと、紗綾は通いつめていた。妹の元気な姿を見ては安心し、一週間も会いに行けなければ心配になる。
 だから紗綾は奔走していたのだ。週に一度は会いに行けるようにと、時間を空けるためにも。
 だがそれも僅か最初の二、三ヶ月程度のこと。
 何も言っていなかったというのに瑠璃は全て気付いたようで――彼女だって忙しいだろうに、気付けば今のように紗綾の負担を軽くし、週に一度は会いに行けるようにとスケジュールを調整してもらっていた。
 出来るだけ早く着きたいと、特急電車を乗り継ぎ、タクシーも使って小学校前にたどり着く。今日も姿を見れるだろうかと内心楽しみにしながらも、同時に不安で仕方がない。
 いつでも元気な妹。友達とも仲良くやっているようで、何の心配もいらないと紗綾は思っていた。
 成績が良くなくたっていい、ただ皆と楽しく過ごしてくれればいい、と思っていた。
 だというのに。
 学年が上がる毎に孤立していっているのは、遠くから眺めているしかない紗綾の目にも明らかで――それでも彼女には見ていることしかできなくて。
「……っ」
 ――優等生という盾を手にした妹に、紗綾は為す術もなく唇を噛んだ。

 紗綾と麻仁を引き離したあの忌まわしい戦争が終結してから、五年後のことだった。



 何も、感じないし、何も、思わない。喋ることすらも、まれ。
 そんな、ただ学校に来ては授業で与えられる情報を詰め込むだけの単調な日々を、磊砢は過ごしていた。
 磊砢だってもう少しクラスに馴染めばいいとは思うのだけれども、そして数年前まではそこそこに馴染んでいたとは思うのだけれども、今ではこの有様だ。憂鬱なのが常であり、もう溜息すらもでない。
 そんな磊砢にちらちらと視線を向けては、くすくすと意地の悪い笑みを零す学友たち。彼らに一々反応していた時期もあったが、それは逆に彼らを喜ばすだけだと彼女が気付いたのはいつだったか。今となっては最早日常茶飯事で、気にすることすら無駄に思えてならなかった。
 それに幸いというべきか不幸というべきか――五年、六年と問答無用で学年トップを成績を叩きだし続けている磊砢に、真っ向から嫌がらせをして来るような生徒もいない。地味な嫌がらせをされることはあったが、その程度で磊砢は笑うことすらできなかった。
 良い成績を保つことは磊砢を守ることであり、それは同時に彼女を孤立させた。だが彼女には一人でも大丈夫だという自負があり、それが揺るぐことはないであろうと彼女は思う。
 孤独に慣れていなかった頃は、一人でいいから友人が欲しいとも思ったが、今は逆に一人の方が気楽でいいとさえ思えていた。
「あいつってさぁ、理扉の人間じゃないよねぇ」
 そんな声がざわめいた教室に響き、一瞬で静まり返る。やれやれまた始まった、と顔には出さずとも磊砢はうんざりする。
 あいつ――指すのはもちろん、磊砢だ。
「それは間違いねぇと思うんだけどさぁ、あいつ、幼稚園の時から一緒だぜ? 親は能利で生まれが理扉とかじゃね?」
 男子の声に、また教室内がざわつく。
 それもそのはずだ。彼らが幼稚園生であった六年前、理扉と能利は戦争も真っ只中だったのだ。明らかに能利の人間の顔をしている磊砢が、そんな時期に何故理扉にいられたのか。それを知るものはこの場におらず、ただ推測だけが先走る。そしてそれを止めるものも――いない。
「きっと親が能利の高官で、能利がやられることが分かった時に理扉に逃げてきたのよ。負けると分かっている国にいるより、勝つと分かっている国の方がいいもの」
「戦争孤児で彷徨っていた所を、理扉の人間に拾われたのかもしれないじゃない。理扉の人間は、能利の人間と違ってヤサシイから」
 笑い声が一段と高くなり、磊砢は表情を変えることなく内心で溜息をつく。
 確かに、彼女は能利の出身だと、育ての親から聞かされた。両親は能利と理扉の出身で、磊砢は自身は能利の生まれ。能利で育ち、理扉に渡ってきたのだと。
 どうして能利の血を色濃く受け継いでしまったのか。理扉の血が濃ければ、こんなことを言われることなどなかっただろうに、と磊砢は思う。いくら恨んだ所で、こればかりは変えようがない。
 それに、能利の出身だから何だというのだ。磊砢が理扉で過ごした時間は能利で過ごした時間よりも長くなってしまっているし、当然幼い時期を過ごしていた能利のことよりも、ある程度の年齢になってから過ごした理扉の方が思い出も多い。もし磊砢が国籍を問われたのなら、彼女は迷わず理扉と答えただろう。
 だというのに――何だというのだ。悔しさに、磊砢はその手を握り締める。
 精神的なものよりも表面的な見た目が重要だというのなら、それで差別され続けるというのなら――自分の能力を誇示するしかないと、彼女はそう考えていた。
 その為にも、彼女は。
 教師が入ってきてクラス内が静まり返ると、磊砢もぱたりと読んでいた本を閉じた。握り締めた際の爪の痕が、手のひらに赤く残ってしまっている。誰も気にしないとは思いながらも、彼からも見えないようにそっと隠す。
 密かに、静かに、けれどほぼ確実にあると噂される組織。その組織に引き抜かれることがあれば――彼女の優秀さは証明されたも同然だ。そうなった暁には、誰にも文句は言わせない。
 だから今は、その時が来ることだけを夢見、走り続ける。
「鼎君」
 はい、と顔を上げれば、教師がにこやかに笑う。彼の裏のありそうな笑みに、背筋が凍えた。
「授業の後、ちょっといいか」
「……はい」
 本当は拒否したかったのだが、それは優等生である磊砢には許されない。
 嫌だと思う感情を心の奥底深くに閉じ込めて――ふと、一つの疑問が湧いてきた。本当に自分は、こんな生活を、このままの未来を望んでいるのだろうかと。



 総合部門、と書かれたプレートを見上げ、雀榕はほっと息をつく。
 この組織に彼女が来てから、早くも六年。飾りっけのない建物の中は広く、目印になりそうなものもない。似たような廊下ばかりが延々と続き、すぐに迷ってしまうのは相変わらずだ。未だに、ここで生活している研究員たちがどうやって目的の場所に辿り着いているのか、雀榕には理解し難い。
 控えめに研究室のドアをノックし、躊躇いがちに開く。がらんとした部屋にいるのは一人だけで、雀榕が探している人物はいないようであった。
 微かに溜息をつけば、部屋にいた彼女――蟒紗綾が振り返る。
 六年前の一件で知り合った彼女は、組織に研究者として引き抜かれた。雀榕よりも三つ年下であるにも関わらず、その頭の良さはお墨付きだ。
「雀榕さん? 探してあるのは猪代さんですか?」
「あ……うん」
 猪代瑠璃。またの名を規那浅淺。彼女は雀榕にとって小学校からの友人である。
 『闇・羽』という天才集団組織に在籍し、雀榕と知り合う前から研究を始め、今も研究を続けている。そんな彼女の実年齢など、雀榕が知る由もない。
 彼女の研究は多岐に渡り、雀榕が知っているだけでも新薬の開発から人工知能の開発まで――詰まるところ、興味さえ持てば何でも研究対象にするような人だ。
 本来ならば彼女ほどの人材であれば研究だけで忙しいであろうに、訳も分からず連れてこられてしまった雀榕を、故意に捕らえられた紗綾を、庇護しつつなお余りある才能を持っていると、雀榕は思っている。
「猪代さんなら、今日は今朝会ったきりで……。確か出かけるって言ってありましたけど、いつ戻るかは聞いてないです、すみません」
 そう、申し訳なさそうに紗綾は微笑んだ。
「そっか……ありがと。もう一回部屋見に行ってみる」
 頑張ってくださいと笑顔で言ってくれた紗綾にもう一度ありがとうと告げて、雀榕は再び廊下に出る。
 雀榕が必要とすればいつでも側にいてくれた浅淺だが、最近は何か立て込んでいるらしく、自室にも研究室にもいないことが多かった。お陰で何度か浅淺の自室と研究室とを行き来するはめになり――雀榕が浅淺の研究室、総合研究室になんとか辿り着けるようになったのは、そのせいでもある。
 いつもならば自室を覗き、研究室を覗いた所で諦めるのだが、今日はそういう訳にもいかない。
 再び軽く溜息をつくと、雀榕は来た道を引き返し始めた。これで見つからなければ諦めようと思いつつ向かうのは、浅淺の自室である。
「……雀榕?」
 ノックして中から返事が聞こえないだろうかと様子を伺っていた雀榕は、突然背後から声をかけられ、ぎくりと姿勢を正した。
「浅淺か、いたんだ」
「ううん、今戻った所」
 柔らかくにこりと笑って、浅淺は雀榕を部屋へと招き入れる。
 雀榕も何度か立ち入ったことのある浅淺のがらんとした部屋。自室と言えど、浅淺がほとんど使っていないことは明白だった。
 初めて彼女の部屋に入った時はその物のなさに驚きもしたが、今やそれが普通の風景になっていた。
「それで、何かあったの?」
「んっと……『覇王樹』が呼んでたよ」
「何か言われた?」
 彼女に目を覗きこむようにして問われ、雀榕は瞳を伏せた。
 どうして浅淺はこうも鋭いのだろうかと雀榕はいつも思う。聞いて欲しいのは事実だけれども、迷惑をかけたくないのもまた事実。こうして時間を使わせていることすらも、悪いと思ってしまうのだ。
 暫く躊躇った後に言ってしまおうと決めた雀榕は顔を上げ、自分に大丈夫だと言い聞かせながらにっこりと微笑むと、一気にまくし立てる。
「大丈夫だよ、浅淺。ちょっとね、お母さんのこと、言われただけ、だから……っ」
 そこまで言うと、やはり堪えきれずに涙が溢れ出す。泣きじゃくる彼女の頬を、まるで壊れ物を扱うかのように浅淺が触れた。
 優しげな彼女の表情だが、同時に戸惑っているようにも見えるのは、雀榕の気のせいか。
 浅淺はぽつりと呟くように、雀榕に語りかける。
「あと少しだよ、雀榕。あと少しで、全部終わりにしよう」
 『闇・羽』も、東春も、全部――




暗黒の雲
月影草