戦渦に揺れる願い



 居間のソファに並んで紗綾と雀榕はテレビを見ていたが、チャンネルを回していた雀榕は、ぱちりと電源を落とす。
 何も言わずに切ってしまったのはまずかったかと思って紗綾を見るが、彼女は別段気にしたようでもなかった。
「戦争の話ばっかりだね、どこの放送局も」
「……そう、ですね。何で見たいのか、私には良く分かりません」
「そうだね……。海上戦だから直接の被害がないとはいえ……。でもさ、紗綾ちゃんは思わないの? この戦争に勝ったら世界一の国になれるかも知れないんだよ?」
 にこやかに言われて、紗綾は硬直した。同時に鳥肌が立つ。
 今、彼女は何と言った?
 言葉は理解できると言うのに、言いたいことはさっぱり理解できない。否、理解できるけれども、紗綾の理性が納得することを拒んでいた。
「一番が必ずしもいいとは、限らないじゃないですか……?」
「何で? 国が強く、大きくあることは良いことだと思うよ? それに、あの国はやりたい放題やってくれてるからね。いつまでもこっちが大人しくしてると思うなよって感じ」
 不思議そうに問い返され、更には楽しげに戦争擁護されて紗綾は閉口する。
 『闇・羽』の手中に陥ちて尚、存在し続ける大国、理扉。
 『闇・羽』に屈するくらいならと、自ら崩壊した小国、華永。
 どちらの生き方がいいかと問われれば、彼女は迷わず華永を選ぶ。国の存在よりも、自由を取りたいから。誰かの支配下に置かれるだなんて、嫌だから。
 けれど、どちらの国も『闇・羽』との対峙することは避けた訳だ。それは、国民を守ることにも繋がらないだろうか。
 能利はまだ組織の手が伸びていないらしいけれど、その代わりに今も叩かれていて――そこまで考えて、紗綾の思考がぴたりと止まる。
 もし能利が抵抗を続けるのなら、『闇・羽』はどうするのか。
 能利は華永のように小さくはない。崩壊させてしまえば、世界の政治、経済まで同時に崩壊しかねない。
 ならば、能利という国の形態は残されるだろう。国は恐らく、裏から牛耳られる――現在の理扉のように。
 今のところ能利の方が僅かに優勢ではあるが、もし理扉の側に誰かが加勢したのなら、能利はすぐにでも劣勢になるだろう。――『闇・羽』がやるとしたら、それだ。
 戦勝国としてならば、誰に文句を言われることもなく「能利」という国を支配することができる。
「……この国は今すぐに戦争を放棄すべきです。取り返しがつかなくなる前に」
 自分でも血の気が引いていることを自覚しつつ、紗綾は呟いた。小学生である自分の意見など、誰も聞き入れてくれないことは分かっているが、それでも誰かに言わずにはいられなかった。
 ――きっと瑠璃ならば、そんな彼女を理解しただろう。
「どうしてそんなことを言うの? このままの勢いなら勝てるよ」
「いえ……このままでは負けます」
 この国の勝利は、『闇・羽』が認めないだろう。どんな手段を使ってでも、あの組織は阻止する。
「恐らく、国がもう一つ理扉側で参戦する――そこまでなってしまったら、この国は……」
「紗綾ちゃん、何言ってるの? 周囲の国は中立を決め込んでる。大体海を渡った先なんて小国ばっかりだし、山脈の向こうの国々は山を越えるだけの国力がない。それに、今の戦況を見るなら、能利側についた方が明らかに有利だって」
「あの組織が絡んでると言っても、この国の勝利を言い切れますか?」
 そこで初めて雀榕の顔が青ざめた。
 これは既に国と国との戦いではない。国と裏社会の戦いなのだ。
 彼女は『闇・羽』がどんな組織なのか分かっていないが、それでも「浅淺」が屈するしかなかった組織として、恐怖の対象として認識している。
『雀榕、雀榕』
 しんと静まり返ってしまった居間に、瑠璃の声が響く。
「……浅淺?」
「これ、ですか?」
 声のする方を辿っていけば、テーブルの上に置かれた小さな画面に辿り着く。
 それは、瑠璃が紗綾を託した時に、一緒に置いていった人工知能だった。あの後紗綾と雀榕の二人は色々といじってみたものの、決してそれが反応を返すことはなく、何だか分からないままに放置されていたのだ。
 今は瑠璃の顔が、その画面には映し出されている。
『今すぐ理扉に……いや、無理ね。華永を通る陸路は東春が封鎖してしまっているでしょうし、今更海路を通れとも……山を越えさせるわけにもいかないし、やっぱり紗綾ちゃんにはあの時点で海を渡らせるべきだったわ』
 いつになく余裕のない瑠璃の表情に、紗綾は唇を噛んだ。
 「東春」だなんて国名は聞いたことがない。ならばそれは、能利を陥とすために、紗綾を手中に収めるために、『闇・羽』が打ってきた一手だろう。
 もはや足掻いた所で――無意味だ。
「『闇・羽』は、何を考えているんですか?」
『そうね……私もよく分からないんだけど、非合法の合法化、だと思うわ。組織の存在を表に出すつもりはではなかったはずよ。能利がなかなか陥ちなかったのは、予定外じゃないかしら』
 「予定外」。その言葉に、紗綾はうっすらと微笑む。
 どんなに怖い、どんなに完璧な組織だろうと思っていたが、予定外があるということは組織を走らせている人間も一般人でしかないということだ。ならば――「逃げられない」と言われている組織でも、逃げ出せる可能性は、十分にある。
 少なくとも瑠璃は、紗綾の側の人間だ。これは賭ける価値があるかもしれない。
 彼女はまっすぐな視線を瑠璃に向けた。瑠璃の顔が映し出されているのなら、紗綾の顔だってあっちの画面には映し出されているのだろう。カメラがどこにあるのかなんて、さっぱりだが。
「……一番ことが穏便にすむ方法を、教えて下さい」
「紗綾ちゃん……?」
 心配そうな雀榕を見て、紗綾は大丈夫です、と笑いかける。
 同時に胸の奥がちくりと痛んだ。彼女は普通の人であり、自分は決して普通になどなり得ないことを見せつけられてしまったからだ。
『国としてはもう手遅れだわ。紗綾ちゃん個人としては……適度な所で組織に来るのが妥当じゃないかしら』
 ですよね、と頷いて、紗綾はもう一つ、と人差し指を立てる。
「もし私がそちらに向かったとして、あなたは私を保護してくれますか?」
『それに関しては心配しなくても大丈夫よ。紗綾ちゃんが逃げ回ってくれたお陰で、組織側からはマークされてる。配属されるなら、私の所よ』
 そう、楽しげに笑いながら瑠璃は告げた。雀榕は何故そこで楽しげにできるのか理解できない、といった表情をしているが、ここは楽しむしかないと紗綾も思う。
 本当なら悲観に暮れるべき場面なのだろうが、そんな非生産的な行為は彼女の優等生としてのプライドが許さない。
 マークされている状態を喜んでいいのかは分からないが、少なくとも「知って」いる人がいる場所ならば安心だ。
『じゃあ紗綾ちゃん……』
「商店街でもふらついてきます。逃げていたのではなくて、友達の家に遊びに行ってたって、そういうことにします。それで、いいですか?」
『上等だわ。私は紗綾ちゃんの件に関しては関与していない態度を貫く。組織で会った時は初対面だから、よろしく』
「はい」
 紗綾が素直に頷けば、二人の会話をぼんやりと眺めていた雀榕が逆に慌てだす。
 ――それは、ある意味滑稽で。
「待ってよ、紗綾ちゃんはそれでいいの? 浅淺だってそんなに簡単に紗綾ちゃんを組織に入れちゃっていいの? まだ諦めちゃ駄目だよ……」
『雀榕』
 瑠璃が静かに名を呼べば、彼女はぴたりと黙り込んだ。
『確かに関わらないに越したことはないわ。けれど、それが一番いい守り方だとも思わない。今回はあっさりと捕まっておく方が賢明だと判断した――逃げ切れないのよ、どうしても。だからこれ以上事を荒立てない方がいい。
 まぁ、今更と思って徹底的に抗うのも悪くはないと思うけどね。でもそれは、私たち二人だけでなく、あなたをも巻き込みかねない。雀榕、理解してとは言わないわ。今回は諦めて』
 そっか、と雀榕は頷いたが、彼女が納得していないのは明らかだった。諦めきれていないのも明白で、このままでは感情で突っ走るかもしれないと紗綾は思う。だが、瑠璃は雀榕にそれ以上何も言わなかった。
『紗綾ちゃん、あなたが来るのは楽しみにしているわ。それと、ありがとう、雀榕』
 そこで通信は一方的に切られた。
「……紗綾ちゃん、本当にいいの?」
 改めて問いかけられ、彼女は溜息をつく。
 本当、だなんてそんなことは聞かないで欲しかった。これが最善であろうことはなんとなく分かっていたし、疑おうとも思わない。
 そう、これは紗綾にとっての最終布石なのだ。今回の組織との争いでの被害をいかに最小限に留めるかの、そして、次の争いをいかに有利に始めるかの。
 説明した所で、雀榕には理解できないであろうことも、紗綾には分かりきったことだった。
 だから紗綾は紡ぐ。「年齢相応」であろう、言葉を。
「……もう、分かりません。でも、私は猪代さんを頼るしかありません。それに、できるだけ迷惑はかけたくないですし……だって、猪代さんが私に関わっているって分かったら、猪代さんだって無事にはすまないでしょう?」
 そう言って俯いてしまった紗綾に何と言っていいのか分からずに、雀榕はただ彼女の横顔を見つめた。
「……私ね、たまに怖いの。浅淺が何を考えてるのか分からなくて。でもね、だからって敬遠しちゃいけないって思ってる。浅淺だって人間だもん。だから私は浅淺に遠慮しない。
 今回のその判断……ごめんね、私がもっと頼れる人だったら変わったのかな。私は浅淺や紗綾ちゃんみたいに賢くない。でもだからってひがむ気はないよ。賢い方がそんな時もあるだろうしね」
 雀榕の優しい、心からの言葉に、紗綾は思わず零れそうになった涙を必死に堪えた。
 優しさが、痛い。自分はこんなにも本心をひた隠しにしてしまっているというのに、彼女は信頼しきってさらけ出してくれている。その事実が、辛い。
 表面的に雀榕には感謝を示したが、心の中ではただひたすらに、謝っていた。本心を見せることのできない、弱い自分を。

 



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