戦渦に揺れる願い



 『羽蝶』が自室に戻れば、部屋の前で待ち構えていたのは『勇魚』だった。自室にも研究室にもいない『羽蝶』を延々と探した挙句の行動だろう。
「『覇王樹』に呼ばれたでしょう? どこに、行ってたの」
「いつからこの組織は、行動の自由をも制限するようになった」
 淡々と返して、彼女は紗綾たちの母、優沙が連れてこられているはずだったと思いを巡らした。組織内を自由に歩き回る許可など下ろされているはずもない。ならば彼女は今、どこにいるのか。総司令の部屋か、最上階か。
「でも総司令の……」
「総司令の言うことだからと言って、絶対ではない。無視するのも自由なはずだが」
 あまりにも『羽蝶』が堂々としているせいか、『勇魚』は逆におどおどとし始め、口ごもる。
 だがそんなことは『羽蝶』の知ったことではない。第一、総司令と話すことがあるとすれば研究の進行状況くらいで、その程度の話ならばいつでもできる。建前では。
「でも『羽蝶』……あんまり総司令に楯突くようなことしてると、逆に『空木』が危なくなるんじゃない……?」
 その話がしたかったのかと『羽蝶』は一人納得した。『羽蝶』とて組織内に一人くらいは味方が欲しいと、『勇魚』ならば簡単に懐柔できるだろうかと考えていたが、どうやら今回は無理なようだ。
 『勇魚』は『羽蝶』の身の安全を心配をしているように見せかけて、彼女が『空木』の手助けをした、そして今もしている事実を暴露しようとしている。恐らく、あわよくば紗綾の居場所まで突き止めようとしているのだろう。だが、そこまでするのには相手が悪すぎる。
「そういえば最近『空木』の姿を見かけないが、彼はどうした。ついに左遷でもされたのか」
「!?」
 わざと誤解させるような『羽蝶』の発言に、『勇魚』はやはり引っかかる。
 そんなに分かり易い反応を返していたら、ここでは命取りになるぞと『羽蝶』は思うが、それを彼女に教えてやる義理はない。
 『勇魚』も『羽蝶』や『覇王樹』と同じようにこの組織の中で育った。だというのに一人だけ感情を隠すのが苦手なのだ。それはやはり、彼女を育て上げた『空木』の影響なのだろう。
「あれ……『空木』の失踪と『羽蝶』は、関係ないの?」
「失踪? ……好奇心の赴くままに突っ走って帰れなくなったのかも知れないな。だから無計画な行動は慎めと……」
 ぼやくように呟けば、『勇魚』はふっと気を許したように笑う。
 『空木』の存在は、彼女にとってかなり大きいらしい――ならば、次回は彼女をこちら側に引きこむことも可能かもしれない。次回――恐らく、六年後。六年間の猶予期間中になら、彼女も手懐けてみせる。
「それで、『覇王樹』は何と?」
「え? 私は、知らな……」
「君の最近の研究が気になってね、ちょっと話したかったんだけど。『羽蝶』は忙しかったみたいだね」
 階段室から出てきた『覇王樹』がにっこりと笑えば、『勇魚』が俯いて一歩退いた。
 『覇王樹』。組織『闇・羽』に君臨する者。三年前、組織から逃亡していた『羽蝶』を、組織のルールすらも捻じ曲げて連れ戻した、実力者。彼の意図は彼女には、未だ分からない。
「あぁ、報告するのを忘れていたな。また人工知能の研究に戻った」
「近頃しょっちゅう留守にしているのはそのせい?」
「一般人や子供から発想を得ることもある」
 一見会話が噛み合っていないようにも見えるのだが、『羽蝶』と『覇王樹』の間では伝わっているようだった。短い言葉の裏に隠された意味までが。
「『羽蝶』。あんまり留守にするのはお勧めしないよ?」
「禁止されていなければ問題ない」
「そう思っているのは君だけだったとしても? ……いいけどね。『勇魚』」
 彼は彼女の名を呼ぶだけ呼んで踵を返す。『勇魚』は困ったようにちらりと『羽蝶』を見、『覇王樹』の後を追った。
 二人を見送った『羽蝶』は自室の扉に手をかけるが、途中で考えを変えて踵を返し、階段を上る。目指すのは最上階。優沙が閉じ込められているであろう場所。
 基本的に、この組織の研究員は組織の建物内どこでも自由に立ち入ることが出来る。それには「入れるのならば」という条件がつくが。
 最上階の扉はナンバーロック式で、その番号は総司令のみが知っている。――とはいえ、四桁程度の数字などを知ることは、『羽蝶』にとっては簡単だった。それが『覇王樹』が決めた数字であるのなら、なおさらだ。
 形式だけのノックをして、彼女は返事を待たずに部屋に入る。
 窓際に座って外を眺めていた女性は、入ってきた『羽蝶』をちらりと見ては、視線を外に戻す。彼女は――どちらかといえば、組織側の人間だった。
「外は寒かったが……ここは温室だったのか」
 暖かすぎる部屋の室温に僅かに顔を顰める『羽蝶』に、優沙はようやく『羽蝶』に向き直った。
「えぇ。暖房は効いているし、日当たりもいいのよ。……ねぇ、」
「紗綾さんのことだろうか。あなた自身のことだろうか」
「私のことなんてどうでもいいと思わない? ねぇ、私はあの子をここに入れたいの。協力してくださらない?」
 黙ったまま『羽蝶』は窓と反対側の壁に寄りかかる。彼女は、何の為に『羽蝶』や『空木』が苦労していると思っているのか。組織に引き抜かれる栄誉が全てだとでも思っているのではないのか。
「確実なことは何も言えない。逃したのが良かったのかすら、私には分からない。ただ、やれることはやった。今は『覇王樹』の出方を待つしかない。
 あなたが何と言おうと、私は『空木』の決断に従う」
 そう、と優沙は瞳を伏せる。使えない、と彼女の表情が告げていた。
「それで、輝安はどこにいるの? あの人もここに戻ってきたとか言うんじゃないでしょうね? 全く、中途半端な人。娘をこんなところに関わらせたくないのなら、さっさと足抜けしてしまえば良かったのよ。それとも――それには覚悟が足りなかったのかしら」
 出された名前に、『羽蝶』は首をゆるゆると横に振る。
「もし彼が今この組織に居場所を掴まれてしまうようなことになれば、彼の身が危うい。だから今は連絡を取らないように言ってある。少なくとも、国が一つ潰れるまでは」
「それは能利のこと?」
 優沙に問い返されて、彼女はあいまいな笑みを浮かべた。
 この親あって、あの娘あり。紗綾も相当に賢かったが、優沙も油断ならない相手のようだ。それは、『羽蝶』にとっては会話を楽しめる相手、程度の認識にしかならないが。
「ところで紗綾さんのことだが、頭のいい子だな。咄嗟の判断力に与えられた情報からの状況の分析力――確かにあの子は欲しい」
 くすり、と笑われて、優沙ははっと顔を上げる。いたずらっぽく笑う『羽蝶』のその表情。そこにどの程度の本音が含まれるのか、彼女には見当もつかない。
「欲しいの? なら、あの子を……」
「はっきりと言わせて貰おう。現時点では私は圧倒的に不利な状況にある。恐らく、私には紗綾さんを守りきれない」
 告げられた言葉に、優沙の瞳がきらりと輝いた。
 現状はつまり、紗綾が組織に加入するという未来への道の真上にある。そればかりは、『羽蝶』がいくら足掻いた所で変えられそうにない。
「ついでに聞いておこう。この組織につれてこられるとなった時、貴方はパニックに陥ったと聞いている。この組織に紗綾さんを加入させることを望みながら、何故?」
「悲鳴の一つでもあげておけば、素直にあの子も捕まってくれるかと思ったのよ。思った以上に薄情な子を持ってしまったみたいね、私」
 紗綾は賢い子だ。感情に訴えかけるようなことをすれば、逆に理性で否定しにかかるだろうことは、少し話ただけの『羽蝶』にも分かる。優沙のやった駆け引きは、紗綾の性格を把握していなかった優沙の負けだろう。
「もう一つ。私の名を『覇王樹』に告げるだけで、貴方の望みは成就される。何故貴方は私のことを告げない? 私が『空木』と接触していたのを、そして紗綾さんたちに接触しているのを、貴方が知らないわけがない」
 『羽蝶』の言葉に、にやりと優沙は唇の端を吊り上げた。
「あら、そんなことも分からないの? この組織の天才児が、聞いて呆れるわ。
 どちらにせよ結果は変わらないんでしょう? ならば最後まで足掻いてみせなさいな」
 優沙は『羽蝶』にチャンスを与えているのではない。彼女は余興として楽しんでいるのだ。紗綾の、自分の娘の人生を賭けた、このゲームを。
 『羽蝶』は何も言わずに、窓に近寄った。
 優沙も無言で窓の外を見遣る。真っ黒に曇った空からは、大きな雨粒が落ちてきている。外の音が聞こえることはないが、木々の枝の揺れからして相当激しく風も吹いているのだろう。
 ――その天気は、まるで今の世界そのものを表しているようで。
「『羽蝶』。あなたは何故、ここから逃げようと思ったの? こんな研究者として恵まれた環境、他にはないでしょうに」
 「研究者としては」。確かに、ここ以上に良い場所などないだろう。そんなのは、分かりきったことだ。
 自嘲気味に嗤いながら、『羽蝶』は言う。
「興味があった。外がどんなところか、見てみたかった。『父』と『母』が私を外に連れ出したんだ。それには何か意味があったんだろうと。その意味が何であったのかを、知りたかった」
「それは分かったの?」
「……さぁ。本人たち亡き今、確かめる術がない。唯一理解したのは、『ここ』が狭い、ということだけ」
 無表情で、息を吐くように呟くと、彼女は笑顔で優沙に宣言した。
「私は紗綾さんをこの組織に入れない。それは精神的な意味合いでだ。組織が、研究が、全てだなどという思想になど、させない」
 『闇・羽』という組織の中で孤立無援であろうのに、その顔は他のどの研究員よりも輝いている。
 圧倒的に不利な状況だと言うのに彼女は――この状況を、楽しんでいた。

 



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