戦渦に揺れる願い



 紗綾は数週間ぶりに、街中を歩いていた。
 初めてこの場所に来た時は店など見なかったから、遠くまで行かなければ商店街すらない、ある意味不便な所かと思っていたが、そうでもなかったらしい、と彼女は認識を改める。あちこちに戦争の広告が貼られているのは、減点ポイントだが。
 本当は文具店や本屋に立ち寄りたかったが、今日は目的が目的なだけにあえて避けていた。その代わりに、女の子が好みそうな雑貨店や服飾店を覗いてみるが、大して興味もない紗綾にとっては詰まらないことこの上ない。まぁ、書店に立ち寄った所で、大半の棚を占めていそうな物――テーマは分かりきっているから、どちらにしても面白くなかっただろうが。
 幸か不幸か――既に彼女は視線を感じていた。それは彼女を物色するように舐め回す。恐らく、紗綾が本人であるのかどうかを見極めようとしているのだろう。
 早く終わらせて欲しかったが、ここで焦ったら全てが台無しになる。溜息をつきつつも視線に気付かなかった振りをしつつ、紗綾は店を出た。
 さて、次はどの店に入ろうか。
 ぐるっと周囲を見回すついでに背後も確認する。スーツの男。やはり、後をつけられているようだ。
 と、ちょうどよい所にアクセサリー店を見つけ、ウィンドウを見に行くことにする。
 紗綾のような子供が入るような店ではないけれど、ショーウィンドウから見るくらいはいいだろう。女の子なのだ、キラキラとした輝きに惹かれないわけがない。
 センスはいいけれど、やはりいい値段だ、と思っていれば、肩を叩かれて彼女は顔を上げた。
「雀榕さん……?」
 予定外の、けれども想定内の人物が、そこにはいた。
「なんでここにいるんですか?」
「だって、紗綾ちゃんがやっぱり心配で……」
 予想通りの答えに、心の中で紗綾は苦笑する。
 雀榕は分かっていないのだ。紗綾よりも、雀榕の方が危ないということを。彼女がこの場にいる方が、紗綾が身動きを取れなくなるのだということを。
 心配してくれているのはあり難いが、逆にそれが彼女を追い詰めるのだということを。
 瑠璃は、これもきっと予測していたに違いない。この状態からどうやって雀榕一人を無事に家まで帰せというのだと思うと、なんとなく今はあの紫の瞳が憎らしく思える。
 それとも――あの人ならばそんなことは簡単にできるとでも言うのか。
「バカでごめん。でもやっぱり納得できないの。なんでそんなに簡単に諦められるの? それでいいわけないよね、それで紗綾ちゃんが幸せになれるなんて、そんなことないよね?」
 泣きそうな表情で告げられる一方で、紗綾の感情は冷めていく。
 ありきたりな感情論だ。そして感情論に走る人ほど理論での説得が難しい。
「雀榕さん……」
 ちょっと紗綾が合図すれば、雀榕は少しかがんでくれた。彼女はそんな彼女の耳に囁きかける。
「私も猪代さんも諦めていないから、諦められていないからこその選択ですよ、これは。間違えないでください。逃げ回るよりも相手の手中に飛び込んでしまった方が動きやすいことだってあるんですから」
 やはり悲痛そうな顔をしている雀榕に、大丈夫ですよと紗綾は根拠なく告げる。同時に彼女は考えていた。どうやったら雀榕をこの場から帰すことができるのかと。
 『闇・羽』が紗綾と接触した雀榕を野放しにしておく程甘いとは思えない――ならばもう手遅れか。組織の人間には、見られてしまっているのだから。
「蟒紗綾か」
 感情を含まない男の声に、紗綾は声のした方を見上げる。
 先ほどのスーツの男。
 ついに来た、と思うと紗綾の身体は自然に動きだす。同時に思考も巡り始めた。
「うん、そうだけど?」
 彼女はにっこりと笑って答える。目上の人にそんな言葉遣いを、と怒る人間は今はいない。それに――これで馬鹿な娘だと思わせられれば、上等だ。
「一緒に来てもらおう」
「えー? でも……」
「君の母親になら許可を取ってある」
「……」
 母親の顔を思い出した彼女は、一瞬そういうこともあるかもしれないと納得しかけた。もし彼女が『闇・羽』という組織を知っていたのなら、尚更有り得る。
「来てもらおうか」
「仕方ないなぁ」
 へらりと笑って承諾すれば、男は次に雀榕を見た。
「君もだ。縹雀榕」
「え……私も?」
 紗綾は当然だと思ったのだが、雀榕はそうは思わなかったらしい。読みが甘い、と紗綾は思ったが、彼女は一般人なのだからそれも仕方がないのかもしれないと思い直した。
 えっと、と考え込んでいる雀榕に逆らわない方がいいと示すために、彼女は雀榕の袖を引っ張る。
「一緒に行こうよ」
「え……あ、うん」
 紗綾にそんなことを言われるとは思ってもみなかった雀榕は、簡単に承諾した。余りにも簡単だったために紗綾は突っ込みかかるが、今はそんなことをしている場合ではないと、どうにか抑える。
 やっぱり黒塗りの車に乗り込んで、紗綾は雀榕の手をぎゅっと握り締めた。冷えきった手が、彼女の緊張を伝えていた。
 もしかしたらこっちの方が瑠璃の狙いだったのかもしれないと、紗綾は思う。紗綾自身を穏便に組織に入れることよりも、目をつけられていた雀榕を穏便に確保し、保護すること。瑠璃自身が出てきてしまっては逆効果であるし、他の研究員に捕らえさせるのは危険な賭けだ。でもそれがもし、紗綾と一緒なら? 自分の身を守るついでに、その場を丸く収めようとする――見事に一杯食わされた形だ。
 それはそれでいいとしよう。紗綾は思う。
 瑠璃が紗綾を利用するというのなら、紗綾も瑠璃を利用するまでだ。



 小高い丘の上に生える大樹の根本に座った白衣の少女は、何をするわけでもなく、ただ空を見上げていた。
 暫く晴れそうにない程に立ち込めた雲は今にも大雨を降らせてもおかしくないにも関わらず雨を降らせない。不安定で中途半端な、いつ崩れてもおかしくはない危ういパランスをどうにか保っている。
 少女が何気なく頭上の枝を見れば、そこには芽が出始めている。今はまだ固く閉ざされているそれだが、春になればほころび、青い葉となるだろう。だが、まだその時ではない。
 下を見下ろせば、小さな家が一軒、未だ帰らぬ家の主を待っていた。
 少女がここに住んでいたのはかなり前のこと。三、四歳にもなっていれば多少の記憶は残っていてもいいだろうに、彼女が記憶を探れば、出てくるのは全てあの組織に関わってしまった後のものばかりで、ここに住んでいた時のことは全く思い出せなかった。
 それが普通だと思いこんでいた時は何も思わなかったが、外を知った今なら言える。組織内の空気はいつでも張りつめている、と。
 協力して研究を進めようなどという考えは、ない。代わりにあるのは誰かを貶めようと渦巻く負の感情ばかりだ。それは特に、十代くらいで引き抜かれてきた研究員に多いように思われる。
 上を目指す姿勢を否定する気は少女にはないが、それでも何か違うのではと思わせた。人を蹴落として上り詰めた所で、それは順位が変わる結果しかもたらさない。結果的に何も変化しないことを、どうして彼らは気付かないのか、不思議でもあった。
 今度紗綾が入れば、そんな雰囲気も変わるだろうか。否、若輩者だと馬鹿にされるだけかもしれない。相手の能力を見極められないとは、その人の能力はその程度だということだ。
 紗綾を蔑むことは許さない。自分がここにいる限り。
 そもそも『闇・羽』という組織は、世界から異端と言わしめるほどの天才の保護の為に作られた。それがいつだったか、「組織の中でならどんなことをやってもいい」という間違った認識に置き換わってしまったのは。
 組織内部ならまだしも、国にまで干渉するのはいくらなんでもやりすぎだと、少女は思う。
 それに、組織の中にいた所で、最早誰かが守られているわけでもない。今や組織(それ)はだたの無意味な空箱と化していた。いや、空箱だったらまだ救いもあっただろうが、内外共に害をなしているようでは、むしろ弊害のほうが大きい。
「……優沙さん、紗綾さんはお借りします」
 ぽつりと呟いて、彼女は紫の双眸を閉じる。
 Magical Scientist――彼女の二つ名。天才の中の天才という称号にも負けない程の知識を、知恵を、少女は持っていた。だが、それだけでは組織を潰すのには足りない――そのことは、外の世界を知れば知るほどに嫌というほど思い知らされた。
 世界を変えるために必要な物は知識などではない。影響力なのだ。少女が今持っている影響力は、目的を達成するのには余りにも小さすぎる。
 だからこそ、彼女は手を借りるのだ。まずは、紗綾の。彼女が認めた秀才の手を。
 だからこそ、勢力を広げなければならないのだ。組織の外に、組織の中に、今よりも味方を増やしていかなければ、組織を、『覇王樹』を、陥れることなどできはしない。
 五年で基盤は完成する。六年後には走り出そう。思い描いた勝利をこの手に入れるために。
 それまでは――裏で動いていることを知られてはならない。
 だが六年後の幕引きへと走り出すその前に、終わりを告げよう。始められてしまった、無意味なこの戦争に。
 そして新たな幕開けを――




暗黒の雲
月影草