戦渦に揺れる願い



「本当にこの辺で?」
「えぇ」
 うつらうつらしていた紗綾は、聞こえてきた声で跳ね起きる。隣では麻仁が、やはりしっかりと眠っていた。
 現在地を確認しようと車の窓から外を見れば、そこは住宅街だった。紗綾が育った都市部よりも道幅が広く、街路樹も多い――どうやら、郊外の方まで来たらしい。
「紗綾ちゃん、起きた? 私たちはここで降りるわよ」
「あ、はい。……麻仁は?」
「麻仁ちゃんはうちで預かるよ」
 そう言って柔らかく微笑んだのは、運転していた彼だった。
 彼の笑顔に、紗綾はほっと息をつく。理屈はどうあれ、彼の笑顔は瑠璃のそれよりも余程安心できるものだった。
 彼の笑顔に緊張が緩んだのか、彼女は気付かぬ内に微笑み返す。
 そんな紗綾の態度に気付いているのか、瑠璃はくすりと笑みを零した。形ばかりで、どこか感情のこもらない、空虚な笑顔だと、ぼんやりとした頭で思う。
 まるで、誰かがやっているのをそのままコピーしているような――
「鼎さんは私と違って組織とは何の関係もないから安心して。それじゃあ、麻仁ちゃんは任せました。通行許可証はお持ちですね?」
 確認されて不安になったのか、鼎と呼ばれた彼は、サイドポケットをあさり出す。一枚の紙を抜き出した彼は、開いて中を確認し、笑いながら掲げて見せた。
「あぁ、ここにあるよ。良かった、失くしてなかった」
「それは良かった。今からまた用意するとなると、手間ですからね」
 彼らの笑顔からは、その通行許可証が正規のものであるのか、偽造されたものであるのかは分からなかった。
 けれど、どちらでもいい。猪代瑠璃のことだから、どちらにしても上手くやりそうだと思うし、「国境を通り抜ける」という目的さえ果たせるのなら、どちらでも構わなかった。
「二人とも、幸運を」
「はい、ありがとうございます。そちらこそ」
 麻仁を一人のするのは不安ではあったけれど、彼らを信頼すると決めたのだ。今更やっぱり信用できませんなどと言えるわけがない。彼女はただ、いつの日にか無事に再会できることだけを、ひたすらに祈っていた。

 麻仁を乗せた車が行ってしまうのを見送ると、紗綾は口を開いた。
「本当に、理扉に向かわせるんですか」
「えぇ、そうよ」
「何故?」
 問いかけて、紗綾は黙り込んだ。何故も何も、他の国になんて行けないと言ったのは自分自身ではないか。
 彼女が理扉という国に行ったことはない。実際には知らない国だからと言って否定した自分が嫌になる。それに――不変にしがみつこうとしている国に縛り付けられるよりも、将来的にはもしかしたらいいのかもしれない。そうは考えられないだろうか。
「そんなに交戦中だということが引っかかる?」
「……はい」
 素直に頷いた紗綾に、あっちよと促して歩き始めると、瑠璃は口を開く。
「理扉は『闇・羽』の手中にある国。能利は今も抵抗を続けているからこうして叩かれているけれど、理扉ならば多少は彼らの監視の目も甘いわ。それに、建前とは言え理扉は自由を重んじる国。――もっとも、能利が思っているよりも、理扉は能利のことが嫌いなわけだけれど、子どもならばそこまでの差別対象にはならないはずよ。無理をしたくないのなら、これが今出来る限界ね」
 それは暗に「あなたが選ばなかったのよ」と釘を刺されている気がして、思わず紗綾は噛み付いた。
「なら、あなたはできたと思うんですか? 私ならまだともかく、妹はまだ五歳です。それでなくたって今日は朝も早かったですし……ここから東の港に行って、そこから更に船? 明らかに無理です。私の体力だって、もったかどうか分かりません。
 ましてや追われながらだなんて……」
 一軒の家の玄関先で止まった瑠璃はチャイムを鳴らし、そこまで考察を述べた紗綾をじっと見た。意図の読めないその視線に、紗綾はごくりと唾を飲み込んでは居心地悪そうに視線を逸らす。
 何を考えているのか分からないことが、ここまで恐怖になるとは、思わなかった。
「良い判断じゃないかしら。組織が欲しがるのも納得できるわ」
 ぽつりと告げられた言葉に紗綾ははっと顔を上げるが、彼女が意味を問う前に玄関の扉が開かれる。出てきたのは、中学生くらいの、普通の女の子。
 彼女は瑠璃の横で居心地悪そうにしている紗綾に微笑みかけた。
「浅淺っ。待ってたよ、その子だね」
「うん、そう。ごめんね、雀榕、巻き込んじゃって」
「ううん、頼ってくれて嬉しい」
 純粋に嬉しそうな顔をする雀榕に、浅淺と呼ばれた瑠璃も笑い返す。それは外見年齢相応の、素直な表情だった。
 「大人びた」瑠璃が見せる「子どもらしい」反応に、紗綾は更に混乱する。彼女のその細やかな反応は、自然であるにも関わらずどこか不自然に思えてしまうのだ。
「紗綾ちゃんのことは任せて」
「ありがとう。それと、雀榕。これは一応連絡用に持っていて欲しいの」
 瑠璃がポケットから取りだしたのは、小さな画面のようなもの。雀榕は何も言わずに受けとるが、不思議そうにそれを眺めている。
「何ですか、それ」
 興味を引かれた紗綾も覗き込んでみるが、小さなテレビ画面のようにしか見えない。スイッチらしいスイッチも、見当たらなかった。
「人工知能よ。本来なら持ち出し厳禁」
 雀榕と紗綾の二人は申し合わせたかのように顔を顰めるが、持ち出してきた当の本人は平然としている。
「持ち出し禁止って……」
「当然でしょう? 組織の、重要機密なんだから。それに、こんなものが出来たとなれば、今の戦争、更に荒れるわよ」
 にこやかに物騒なことを言う瑠璃に、雀榕は苦笑した。きっと、多少の無茶ならば強引にでも押し通す性格は、今に始まったことではないのだろう。
「そんなものをなんで持ち出してきたの?」
「戦争なんて私の知った話じゃないからね。重要なのは自分の身の安全。電話は盗聴されるかもしれないでしょう? 何かあったら、それから直通で私に連絡を」
 そういうことなら、と納得した雀榕は頷いて、今度は紗綾に向かって微笑みかける。
「紗綾ちゃん、上がって。後の話は中でやろう」
 入るべきか否か、頼るべきか否か、戸惑った紗綾は傍らに立つ瑠璃を見上げる。彼女は紗綾の背をそっと押して促した。
「私を頼るって決めたんでしょう? 私はあなたを彼女に預ける決断をした。なら、今更迷わないの」
「あ、はい。そう……ですね。あの……猪代さんは?」
 てっきり瑠璃が一緒なのかと紗綾は思っていたが、どうやら違うらしい。彼女はどうするのだろうと聞いてみれば、
「私? 私は組織に戻らないと」
と、あたかも当然のように言われ、猪代瑠璃と組織の関係が未だによく飲み込めていない紗綾はただ、そうですか、と頷いた。

 ここが紗綾ちゃんの部屋だよ、と案内された部屋で、紗綾は立ち尽くした。
 紗綾の為にとかわいらしく暖色系の色で整えられた部屋。当然のように服なども揃えられていて、一体いつから準備をしていたのだろうかと、彼女は愕然とする。
「……あの」
「あ……気に入らなかった? 紗綾ちゃんも頭のいい子って聞いてたから、もう少し飾りのないシンプルな方が良かったかなぁ……」
 かなり拘って、一式揃えてくれたらしい。ぼそぼそとあれが良かっただろうかこれが良かっただろうか、と呟き始める雀榕に、紗綾は笑みを零した。
「いえ、そうじゃなくて。……お気遣いありがとうございます。でも、あの……私が来ることはいつから……?」
 えぇっと、と雀榕は思考を巡らせる。少なくとも、ぱっと思い出せないくらい前だったようだ。用意に使える期間はかなりあったようで、それならばこの、今現在誰が住んでいてもおかしくない状態にも納得できる。
「そうだね、三ヶ月くらい前?」
「そんなに……」
 三ヶ月前といえば、輝安が突如いなくなってしまったのもそのくらい前ではなかっただろうか。もしかすると、今回輝安がいなくなったのは、彼女や麻仁を逃すためだったのではないのか。
 それならそれで――何故奴らの手が伸びてくる前に逃さなかったのか。
 そこまで思考の辿り着いた紗綾の脳裏にちらつくのは母の顔と瑠璃の笑顔。
 瑠璃は『闇・羽』の事を天才集団だと言っていた。ならば、学校成績をやたら気にかける母が、彼の組織に紗綾を入れたがったとしても不思議ではない。
 そして――瑠璃。全てを見透かしたような、紫の瞳。「組織が欲しがるのも納得できるわ」、という先ほどのセリフ。
「……試された」
 猪代瑠璃という人物が、自ら『闇・羽』という巨大組織に楯突いてまで助けるべき人材であるのかを。
「紗綾ちゃん……?」
 不機嫌そうに黙り込んでしまった紗綾に、心配そうに雀榕は声をかける。紗綾が返したのは、誰も寄せ付けない、冷たい声音だった。
「あなたは、猪代さんとどんな関係なんですか」
「待って、猪代って……誰?」
「さっき私と一緒にいた人ですっ。談笑されてたじゃないですか、知り合いでしょう? ……もしかして……!?」
 さっき雀榕は瑠璃を「浅淺」と呼んだではないか。それが指し示す事実に気付いた紗綾は思わず絶句する。雀榕は――猪代瑠璃の本名を知らない?
 突如声を荒げた彼女に雀榕は暫く唖然としていたが、そっかと納得したように頷いた。
「猪代っていう名前なんだね。そっちが本名なんだね。ごめん、知らなくて。
 あの子となら同級生だったよ。あの子が組織から逃げてきてる時に知り合ったの。頭良くて、何でもできて、みんなの憧れだった。色々あったみたいで今は組織の方に戻ったって聞いてるけど、本当は組織なんて嫌いなんだって聞いてる。
 私にとってあの子はね、浅淺はね、私が大変だった時も側にいてくれた、大切な親友なんだよ。本名すら知らなかったっていうのに、説得力はないかもしれないけどさ」
 雀榕が笑いながら言い切れば、今度は紗綾が唖然とする番であった。
 本名すらも知らなかった彼女が、「猪代瑠璃」を疑う気配は微塵もない。
 同級生として築かれた信頼関係とは、そんなにも確りとしたものなのかと思えば、それは驚きを通り越して感動にも値する。それともそれだけ――猪代瑠璃は人を惹きつける魅力を持っているのか。
「紗綾ちゃん?」
 首を傾げながら名を呼ばれ、紗綾は笑顔を作った。優等生としての人当たりの良い笑みは、雀榕を安心させるには十分だった。
「大丈夫です。それと、疑ったりとかしてごめんなさい。まだちょっと混乱していて。これから、お世話になります」
 猪代瑠璃本人は未だに信用できないが、彼女の人脈は信頼できそうだと紗綾は思う。これなら、麻仁も安心して任せられる、とも。

 



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