戦渦に揺れる願い



 車の窓ガラスは黒塗りで、思わず紗綾は麻仁を抱き寄せた。
 助手席に座っている人の顔には見覚えがある。けれど、名刺に写っていた写真の顔よりも幼くはないだろうか。
 そう思うと、彼女が本人であるのかどうかは、紗綾には判断しかねた。それに――タイミングが良すぎる。二人の居場所だって、どうやって突き止めたのか。
 車はゆっくりと動きだし、助手席の彼女は後部座席の紗綾と麻仁の二人を振り返る。
「手荒な真似してごめんなさい。人に見られたくなかったの。
 改めまして初めまして。私は猪代瑠璃。お父様からあなた方二人のことは聞いているわ」
「……」
 何と返していいのか分からずに、紗綾は口を閉ざす。
「そんなに怖がらないで。悪いようにはしないから。
 あなたたちにはいくつか選択肢があるんだけれど、私は二人とも海を渡ることをお勧めするわ」
「いや、でもそれは二人の体力的にきついだろう。大人でもあの行程は厳しい」
 そう、運転している男は言う。ここから、海。なんて有り得ない選択肢を、彼女は持ち出してきたのか。
「一番確実ではあるわ」
 そう言って、瑠璃は品定めでもするかのように紗綾を見る。
「……他に選択肢はないんですか」
「えぇ、あるわよ。麻仁ちゃんには名前を変えて理扉に入ってもらい、あなた、紗綾ちゃんには暫くこの国で隠れていてもらう。少し不便な暮らしにはなるし、この騒動ではどこに居ても危ないと思うけれどね」
 あっさりと言われ、紗綾はまた考え込む。
 まず一番目の選択肢だが、彼女たちの現在地は能利の中でも西側。一番近い港は北に行けばすぐだが、それでは現在戦場になっている理扉との間の海を渡ることになる――銃弾の飛び交う中を突っ切ることは考えていないはずだ。ならば東の港まで陸路を使うのか。一日、いや、二日はかかってしまうかもしれない。そこから船……考えただけで、気が遠くなる。どこまで行かせるつもりなのかは分からないが、外海を行く事になる。今まで船に乗ったこともないのに、突然その強行軍は難しいのではないか。
 二番目の選択肢。まだ幼い麻仁を他人に預ける――しかも預ける先は交戦中の国ときた。学校で教えられてきた反理扉の思想は過激すぎると考えたとしても、不安は残る。理扉の国民が能利の毛嫌いしている可能性だって否めない。
 どちらの選択肢も、無茶で無謀だ。
「選択肢は、その二つだけですか」
「そうね。あなたが別の選択肢を持っているのなら、話は別だけれど」
 そんな瑠璃の物言いが、紗綾に他に行く当ても頼れる人もいないことを再確認させた。弱みを握られていることを見せつけられるような言い回しが、彼女の癪に障る。
「私はまだ子供です。誰かに頼るしか、生きていく道がない。私はあなたのことを頼っていいんですか?」
「それは私が判断することじゃないでしょう? あなた自身が私を信頼できると判断するか否かだわ」
「じゃあ、頼れるかどうかの証拠を下さい」
「私は頼ってもらわなくても構わないんだけれど」
 肩を竦めてみせる瑠璃を、紗綾は怒りの少し冷めた頭で観察した。
 むっとなって強い口調で言い返したが、それを彼女が気にした様子は全くない。むしろ紗綾の反応を楽しんでいるような節すらある。
 大人の、余裕。
 見た目こそ若いものの、見た目通りの年齢では決してないことが、その態度から伺えた。紗綾や麻仁が多少頼った所で、揺るがない基盤を恐らく彼女は持っているのだろうと紗綾は確信する。
 だが同時に理解できない。彼女が何を考えているのか。
「でも考えてみればそうね。あなたには別の選択肢もあるわ」
「……あなたに頼らずに死ねと?」
 紗綾が睨みつけながら唯一思いついた選択肢を口にすれば、何を思ったのか瑠璃は楽しげに笑い出した。
「あなたはまだ子供。そうあなたは今言ったじゃない。子供はどうやってでも守られるべきだわ」
 一通り笑って気が済んだのか、真面目な表情で瑠璃は言葉を続ける。だけれど、その口調はあくまでも軽い。
 その軽さに惑わされそうになるが、このことには自分と、妹の命がかかっているのだと、紗綾は自身に言い聞かせる。瑠璃は他人だから真剣にならずとも、自分は慎重に考えなければならないのだ、と。
「紗綾ちゃんにはね、逃げ回らないという選択肢もあるの」
「逃げ回らない……?」
 瑠璃の言葉を反芻して、彼女は思い当たる。今朝のFAXだ。取引をしようと相手は持ちかけてきていたが、取引とはなんのことだったのか。
 そうだ、自分は何故逃げているのか。誰から逃げているのか。「彼」に恐怖を覚えたのは、本当に正しいのか。むしろ「彼」に頼っても良かったのではないのか――否、「取引」という言い回しを彼がした以上、それはないだろうが。
 湧き出てくる疑問と同時に彼女が思い出したのは、「あの猪代瑠璃でさえ連れ戻された」との叔母の言葉。あれは――どういう意味だったのか。
 紗綾は不安そうに彼女と瑠璃とを交互に見ている妹を、また強く抱きしめた。
 虚勢でもここで強く出ておかねば。
 根拠はなくとも、それは紗綾は確信していた。
「もう一度、自己紹介をお願いできますか。あなたが所属している組織名も含めて」
 彼女は嗤う。その質問は想定内だとでも言うかのように。
「本当に人を信用しない子ね。お父様が常にお家にいらしたら、少しは変わったのかしら」
「父のことは関係ないでしょうっ!?」
 思わず紗綾が声を荒げれば、麻仁がぎゅっと彼女の服の裾を握り締める。落ち着いて、と瑠璃に笑いかけられれば、彼女は慌てて口を閉ざした。
 この程度のことで取り乱してしまったことが、恥ずかしい。
 けれど、精神的に余裕がないことも、また事実。
「関係はあるわ。それは後で話すとして、自己紹介ね。
 本名はさっきも言った通り、猪代瑠璃。『闇・羽』という組織の総合部門に所属しているわ。二人のお父様の所属は生命科学部門だったけれど、よくお世話になった。
 『闇・羽』の噂は、あなたたちも聞いたことがあるかしら? 世界中の天才という天才を集め、所属する研究員は人道的、非人道的問わず、やりたい研究を日々行っているの。一生涯かけて研究したい題材がなにかあるのなら、入ってもいいかも知れないわね。
 それでね、紗綾ちゃん。あなたは今、その組織に引き抜かれようとしているの。それはある意味名誉なことではあるけれど、ここで組織に名を連ねてしまえば、後でどう足掻こうともそこから抜けることは出来ない――あなたのお父様は出来ることなら関わって欲しくないと思ってある」
 そこまではいい、と確認され、紗綾はただこくこくと頷いた。
 彼女は『闇・羽』の噂話だなんて聞いたこともなかったし、それがどんな組織であるのか瑠璃の説明を聞いてもよく分からなかったから、そこに引き抜かれることが誇れることだとも思えなかった。
 実際に所属していたらしい父親である輝安が滅多に帰ってこなかったことを考えるに、一時的にでも抜け出すことは大変なのだろうと簡単に予想がつく。
 だから――輝安の言うとおり、組織に関わることは避けるべきであろう。
 だが、現に紗綾は『闇・羽』の研究員を目の前にしている。これでは組織に関わらないだなんて無理ではないのか。
「関わらないなんて、できるんですか? もう既に私は、あなたの手中にあるというのに?」
「早合点しないの。確かに私は『闇・羽』に属しているわ。けれど私もあなたには関わってもらいたくない。だからあなたのお父様はあなたたちを私に託し、あたなには選択肢が与えられた。私を信じて今は逃げるか、組織の力に屈するのか」
 『彼女は私たちの希望』。そう言い切った輝安は、瑠璃のことを何と思っていたのか。もっとよく話を聞いていればよかったと、紗綾は今更ながらに反省する。
 誰が何と言おうと紗綾にはまだ組織に属す気などない。少なくとも、今は。瑠璃を信頼すべきかどうかは迷う所だが、他に道はないだろう。
 答えかけた紗綾を、何を思ったのか瑠璃が制した。
「答えを出す前にもう一つ。私を信じてもらうのは構わないわ。だけど、確実に組織の手から逃げられるとは言い切れない。はっきり言って現状では私の方が分が悪いし、逃げた後で捕まったのなら、その後の組織での扱いがどうなるか……保証はできないわ」
 逃げ切れば自由は約束される。だが逃げ切れなければ。
 勝算と、利害。
 暫し沈黙して、紗綾はそれらを天秤にかける。
 結論から言えば、選択肢は与えられているようで、与えられていないのではないか。疑心暗鬼に捕らわれるものの、今は腹をくくるしかない。
「……頼らせて下さい」
 自分が不利であることをあえて明かすのは、本当に自分のことを考えてくれているのだろう。それが、紗綾の直感だった。
「交渉成立ね。それで最初の質問に戻るけれど、海を渡る気はある?」
「無理です。そんな強行軍」
 一番最初の問いに戻られて、反射的に紗綾は首を横に振る。
「そう言うと思ったわ。紗綾ちゃん一人でもきついでしょうしね。じゃあ、予定通りに」
 分かった、と運転手は頷いて、ハンドルを切った。

 



暗黒の雲
月影草