戦渦に揺れる願い



 紗綾の背中に負われて眠っている麻仁のすややかな寝息を聞いて、紗綾は溜息をつく。
 結局あの後気が動転してしまい、麻仁に着替えさせるのだけで手一杯だった。
 とにかく急がなければ、と手に持ってきたのは財布とあの名刺だけ。これからどうなるのかよく分からない以上、もう少し準備をしてくればよかったと悔やみ始めれば悔やみきれない。大体、財布だってとりあえず掴んできただけで、大した金額は入っていない。ないよりはまし、といった程度だ。
 だけれども――今から家に戻ろうとは、全く思わなかった。
 最悪の場合は本当に「彼女」に頼るしかないだろう。けれどまだその「最悪」の状況ではないと、焦りながらも紗綾は判断した。何故なら、彼女には頼れる叔母がいるからだ。
 ようやく辿り着いた叔母の家の玄関チャイムを鳴らし、紗綾は空を見上げた。
 どんよりと曇っていて、すぐにでも雨が降り出しそうな天気だ。もちろん傘なんて持ってきていないから、降り出す前に着けてよかったとほっとする。
『紗綾ちゃん……なの?』
 インターフォンから声が聞こえ、紗綾は飛びついた。
「あ、はい。あの、連絡もなしに突然ですみません。ちょっと、色々とあったので、暫く厄介になりたいなって……」
『……駄目よ、ここじゃ』
「……え?」
 予想外の言葉に彼女の思考は止まる。
 改めて詳細を聞き返そうとする前に、紗綾以上にパニックに陥っているらしい叔母が矢継ぎ早に言葉を紡ぎ始める。
『だめよ、ここよりも遠くに逃げないと。だってあの猪代瑠璃でさえ何年か前に連れ戻されたのよ? 輝安も帰ってきてないんでしょう? なら多分連れ戻されたんだわ。運が悪ければ……ううん、何でもない。とにかく、今は遠くに逃げなさい。私じゃ匿ってあげられない。
 そろそろだとは思っていたけれど……ごめんなさいね、紗綾ちゃん。彼らに対抗出来るのは猪代瑠璃だけだと思っていたのに、その彼女すら……だったから、他の人には無理よ。
 今は出来るだけ早く、出来るだけ遠くに……』
 何を言われているのか紗綾にはよく分からずに唖然としてしまったが、「猪代瑠璃」という名前にだけは聞き覚えがあった。
「待って、叔母さん。じゃあ、一つだけ。一つだけ教えてください。猪代瑠璃って人、頼れるんですか? 頼っていいんですか? 父には彼女に頼れって、でも私、父の言葉もどこまで信じていいのか分からなくて、でも他に頼れる人もいないし、友達とかいればよかったんだろうけど、あんまり交友関係もないし……」
『……』
 返事がないことに不安になって、紗綾はインターフォンを見つめた。
 だが、ただの機械であるそれが、何らかの反応を示してくれるわけもない。無機質に光るカメラのレンズが、彼女の不安を余計に駆り立てる。
『……そう。輝安がそう言ったのなら、頼りなさい。猪代瑠璃のことは、輝安の方がよく知っているから……。私には、分からないわ。
 幸運を、紗綾ちゃん』
 その言葉に、紗綾は自分が「帰って」これないであろうと予測されている事実を悟ってしまい愕然とした。
 とはいえその認識ならば、彼女に頼らせまいとする姿勢は納得だ。
「……ありがとうございました」
 なんとか作った笑顔でそれだけ言って、踵を返す。
 インターフォンからはまだ声が聞こえている気もするが、もう彼女の耳には届かない。
 どうしよう。どうすればいいのか。
 何も思いつかないものの、次の手をゆっくりと考えている暇すらないように思われて、行く当ても無く紗綾は歩き出す。
 彼女の背で、やっと起きたらしい麻仁がもぞもぞと動き出した。
「起きたの、麻仁」
 問いかければうん、と頷いた気配がした。
「降りてもらっていい?」
「うん」
 素直に頷いてくれたことに心の中で感謝しつつ、紗綾はそっと彼女を下ろす。
 コートのポケットに手を突っ込めば、固い紙の感触があった。叔母が駄目なら、頼れるのは「彼女」しかいない。まずは連絡を取らなくては――公衆電話はどこに行けばあるだろうと考えた結果、駅に向かうことにした。
 麻仁の冷えた手を引きながら、紗綾は財布を握り締める。
 電話一回分の費用くらいならなんとかなるだろう――けれど、それ以上になってくると、厳しい。
「お姉ちゃん? どうしたの?」
 幼い声に呼びかけられ我に返ると、彼女はなんでもないよ、と笑いかけた。
 そんな二人を追い抜かすように車が通りすぎ、数メートル先に停車する。
 紗綾はこれからを考えては唇を噛んだ。
 今のままではどうすることもできないから、猪代瑠璃に電話はかける。
 だが、もし猪代瑠璃が取り合ってくれなかったのなら。
 どうにかしてくれるとの約束を取り付けられたとしても、それが数日後だったのなら。紗綾にはその数日ですら、自力で乗り切れるとは思えなかった。
 それでも今は、会ったことすらない「猪代瑠璃」という人物を信じるしかない。
 そう思いながら彼女が麻仁の手を引いて車の横を通り過ぎようとした時、突然車から人が降りてきてぶつかりそうになる。
「ごめんなさ……い……?」
 慌てて避けようとしつつ謝れば、押し込められるようにして車に乗せられてしまった。



「理扉は陥ちて、華永は潰れた。だっていうのに、能利がまだ頑張ってるんだよねー。能利を陥とすには理扉との戦争に持ち込めば早いって思ったけどさ、持ち込んでもまだ頑張ってるんだよね。どう思う?」
 話を振られた『勇魚』は思わず身構えると、もう一人の研究員の顔を見る。
 ここ、総司令室にいるのは三人。総司令である『覇王樹』と、『公孫樹』、それに彼女、『勇魚』。『公孫樹』はともかく、何故自分まで呼ばれたのかが分からない、と彼女はただ肩を竦めた。
「何を訊いている」
「別に」
 短い答えに、聞いた本人である『公孫樹』は顔を顰めた。嫌そうな彼の表情に、『覇王樹』はただ楽しそうに笑った。
「君はさ、僕に何らかの意図があるとでも思ったの? そんなわけないじゃないか、僕はここの総司令なんだよ?」
「でも」
 思わず口走りかけて、『勇魚』は口を閉ざす。
 自分が口出しした所で、結局組織の意向に従うことに変わりはなく、意見を言うことの無意味さを思い出したからだ。
「『勇魚』は滅多に反論してくれないから、何を言おうとしたのか知りたいな」
 『覇王樹』の笑顔。それが非常に厄介なものであるのは経験上よく知っていた。だから、彼が笑っているときは逆らわないのが一番いい。
「……何をやろうとしてるのかは知らないけど、戦争なんて起こす必要はなかったんじゃ……?」
 彼女が怖々口を開けば、彼は更に楽しげに笑った。何を思い違いしているんだ、とでも言うかのように。
「何の話かな、『勇魚』。戦争を起こしたのは僕じゃないよ。僕はただ、煽っただけなんだから。元々理扉の人間は能利を嫌ってるし、能利の人間は、普段穏やかに見えてるけど、あれはあれで過激な所があるからね」
「本当に能利を陥としたいのであれば、新たな勢力を能利の敵側につけるべきだ」
 『公孫樹』の提案に、やっぱりそう思う、と『覇王樹』はその表情を輝かせた。
「国に必要なのは土地と統治者と国民。全て揃ってると思わないかい?」
 この組織を国として成立させる――彼の思考を読んでしまった『勇魚』はみるみる青ざめていく。
「待ってよ、そんなことしたら、この組織の存在が……」
 今まで隠れてきた意味が、なくなってしまうではないか。彼女の思いは最後まで声にならない。
「いいんだよ。この組織の存在する理由は、異端とされてしまうほどの頭脳の持ち主の保護にすぎないんだから」
「だが、それは合法では無理だろう? だからこの組織は今まで隠れてきたし、ここの最下層は今でも非合法でしかない」
 『公孫樹』も訝しげな顔をするが、『覇王樹』が意に介した様子はない。
 何故非合法でしかあれないのか、と彼に笑顔で問われては、『公孫樹』も『勇魚』も閉口するしかなかった。
 非合法は非合法であり、もしそれが合法であれるのなら、こんな組織はそもそも必要がない。非合法でしかあれないから、創立以来ずっと非合法であり続けたのではないのか。それとも、今まで誰も思いつかなかった方法を、この青年は考えついたというのか。
「非合法を合法にすればいいだけのことだろう? 簡単じゃないか。
 あぁそれで、『空木』のことなんだけどさ、どうも彼は海を渡っているらしい。ただし、この情報は確かじゃないんだけど」
「……火のない所に煙は立たぬ。噂が流れたということは、それと似通った事実があるんだろう。だが、『空木』はそんなに隠密行動ができるような性格じゃない」
「そうだね。それは僕も思ったよ」
 ――『空木』。数年前に突如行方を眩ました、ここの元研究員。
 彼は能利に逃げていて、組織がようやく居場所を掴んだのが一年ほど前の話。数日前に彼の自宅に押し入った時、彼本人は既に逃げた後だった。
 その話を聞いた時、彼は自分の家族を捨ててまで自分の身の安全を優先する人だったとは知らず、『勇魚』は落胆したものだった。
「……だからさ、誰か手引きしてる人間がいるんじゃないかって思ってね。心当たりがあったら教えて欲しいな」
「あるわけないでしょ。『ここ』しか知らないのに」
 そうかな、と『覇王樹』は嗤う。
 彼だって組織の外に行くことは滅多にないだろうに、彼には思い当たる人物がいるらしかった。
 ところでさ、と彼はまた話題を変える。他所で会ったのなら、話題の尽きない人だと感心しただろう――しかし、彼が持ってくる話題はどれもこれも、どこかで繋がりあっていることを知っている。そして無意味としか思えないそのどれもが、重要であるということも。
「僕はもう一人ここに来るようにって声をかけてたはずなんだけどさ」
「もう一人?」
 言われて『公孫樹』と『勇魚』は顔を見合わせた。
「『羽蝶』は、どこ?」
 名前を出されて『勇魚』は納得する。
 一度逃亡を試みたことのある彼女。彼女なら『覇王樹』にだって平気で刃向かうだろう。それに、彼女は Magical Scientist の異名を欲しいがままにしているのだ。他の研究員は決して頭脳戦をけしかけることのできずにいる『覇王樹』とだって、互角に渡り合えるはず。
 ただし、それは一対一の場合の話。
 今は明らかに――『覇王樹』の方が優勢だ。

 



暗黒の雲
月影草