戦渦に揺れる願い



 休日の昼間。麻仁と遊んでいた紗綾は、飲み物を取ってくる、と階下に降りた。ぼそぼそとした声が居間から聞こえてきて、思わず入ることをためらう。
 組織が、裏切りが。総司令が、逃亡が。
 そんな単語が微かに聞こえてくるが、何を話しているのかまでは分からない。それに、子どもが首を突っ込んでいい話とは思えなかった。
 飲み物は後にしようと、紗綾は扉に背を向ける。だが、居間から自分の名を呼ぶ声に引き止められた。
 神妙な顔をしている両親を前に、部屋に入ったものの、紗綾は立ち尽くす。
『ほら、座れ』
 促されて、黙ったまますとっと椅子に腰を落ち着ける。
 怖い。怖い。怖い。
 今からどんな話を聞かせられるのか。予想すらできない。けれど――良い話でないことだけは、間違いない。
『そんなに怯えるな』
 彼女を落ち着かせるように、父親は笑う。笑いながら彼はごそごそとポケットから財布を取りだし、財布の中から一枚のカードを取り出した。
『困ったら、彼女を』
 言われて渡されたそれを、微かに震える手で受け取った。受けとる時に掠めた父親の手は、暖かかった。
 何も言えずに名刺を見る。記載されている情報は、名前と電話番号だけ。それに、顔写真。
 写真の顔はまだ若い。二十歳……にもなっているのだろうか。どちらかといえば幼い顔立ちで、「頼れ」と言われると逆に不安になる。
 問い返そうと父親を見れば、
『彼女は必ず力になってくれる』
 と、絶対的な信頼を示されただけだった。
 再び名刺に視線をおとす。
 学生にも見えるその顔は可愛らしいとも表現出来よう。紫色の瞳が綺麗で――でも同時に、何故か彼女に対して恐怖を覚えた。
 戸惑った表情の紗綾に、父親は言葉を続ける。
『彼女の存在はな、紗綾。希望だ』
 にっこりとした笑顔と、その一枚の名刺を置いて、父親はまたどこかへと消えて……――


 困ったら頼れと言って、自分よりも一回りも二回りも年下の彼女の名刺を置いていった父は、今一体どこに居るのだろうか。夢現ながらに気になって、ぼんやりと考えている内に目が覚めた。
 きっとまだ成人したばかりであろう赤の他人に自分の子供を頼らせようだなんて、一体何を考えているのだか――真意を問いただす前に、彼はいつものごとく姿を消してしまった。
 まどろっこしいことの嫌いな彼は、いつも結論だけを述べていく。その前にあるべき説明を全てすっ飛ばして、だ。それが余計に混乱させると分かってやっているのか。いや、分かっていないから問題なのか、と紗綾は微かに溜息をついた。
 最後に会ったのは――もう三ヶ月も前になるのか。いつもならそろそろふらりと帰って――寄って行くころなのだけれども、今回ばかりは帰ってこないような気が、彼女にはしていた。
 紗綾にとって、父親というものは常に不思議な存在だった。
 紗綾の幼い間は三ヶ月位に一度、「帰って」きてはまたどこかに行ってしまうという生活を繰り返していたと言うのに、五年ほど前に帰ってきてからは仕事に行くことなく、「家族」として生活していた。
 彼女にとって「父親」とはいないのが普通だったため、逆に家にいる状態というのは妙な感覚だったのだけれども、それでも生まれたばかりだった妹が両親揃った環境で育てたのはどこか嬉しかったし、羨ましくもあった。
 何気なく父親のことを回想していたら、更にもやもやとしてくる。どうして疑問は疑問としてしっかりと晴らしておかなかったのか、紗綾はこれほど後悔したことはなかった。
 気付けば意識ははっきりと覚醒してしまっていて、再び寝直すのも難しい――仕方なく彼女は何時だろうかと壁にかかった時計を見上げる。
 時計が指し示すのは朝の二時。普段なら決して目を覚ますことのない時刻だ。
 だが紗綾の頭は完全に起きていたし、こんな時刻ではと布団に潜り込んでも、一向に眠気はやってこない。どころか、緊張しているのかのようにどんどん心拍数ばかりが跳ね上がっていく。
 いくら寝返りをうってみた所でどの体勢も落ち着かず、彼女は最終的にその身を起こした。
 ふとその目に留まるのは、右隣のベッドで健やかな寝息を立てているのは、紗綾より七つ年下の幼い妹、麻仁だ。
 真冬だというのに布団を蹴り飛ばしている妹にそっと笑みを零して、紗綾は布団をかけ直してやる。
 と、聞こえてきたエンジン音に、紗綾は顔をあげた。何故だか分からないが、彼女は反射的に身構える。エンジン音は重そうな音を夜の静けさの中堂々と響き渡らせ――家のすぐ近くで止まったようだった。
 隠れなければならないと、咄嗟に思った彼女は、手近にあった紙を掴みペンを走らせる。
『眠れないので麻仁と遊びに行ってきます』
 机の上に紙を置き、道路に面していない窓を開く。夜の冷たい空気が、部屋に流れ込む――その空気の冷たさに、思わず震えた。
 がちゃり、と玄関の鍵が開く音がする。続くのは、荒々しい足音だ。
 紗綾は眠っていた麻仁を起こし、ゲームだよ、と耳元で囁いた。
「お母さんとかくれんぼだよ。見つからないように隠れなきゃ」
 眠たそうな顔のまま、麻仁はこくりと頷く。二人が隠れるのは、クローゼットの中の引き出しの奥。クローゼットを開けただけでは、そこにスペースが存在するだなんて誰も思わないだろう。
 両親すら知らない、紗綾と麻仁だけの秘密の場所だった。
 二人が息をひそめていると、階下からどたばたと派手な音がする。女の人の悲鳴も聞こえ、紗綾は一瞬息を飲んだ。
「……お母さん?」
「静かにしてないとゲームに負けちゃうよ? ああやってね、お母さん、私たちが出てくるの待ってるんだから」
 麻仁にそう言い聞かせるものの、紗綾自身不安でたまらなかった。
 五年ほど前に、それまでたまにしか家に帰ってきていなかった父親が帰ってきた。初めての両親が揃った生活に、紗綾が戸惑ったのは事実だ。その後生まれた麻仁は、両親のいる生活しか知らない。出来ることならば片親だけの生活など味わって欲しくなかったのだが、紗綾の願いは叶うことなく、三ヶ月程前に父親はまた仕事に行ってしまった。
 何故こんな時に父親がいないのか。父親さえいれば、こんな恐怖に苛まれることなどなかっただろうに。
 不謹慎かもしれないと思いつつも、紗綾は最悪の状態を思い描いていた。もし父親が帰ってこず、母親に何かあったとしたら――彼女は誰を頼ればいいのか。
 思い浮かぶのは、父親に渡された名刺。
 頼りなさいと言われたけれど、本当に頼ったら力になってくれるのか。自分みたいな見ず知らずの子供を養ってくれるのか。せめて麻仁一人だけでも助けてくれるのなら、自分は。
 延々と続いていく思考を終わらせるように、紗綾は目を閉じる。これはそう、ゲームなんだ。ただ父親が突然帰ってきて、両親二人でふざけているだけなんだ、と自分に言い聞かせた。
 階下が静かになったと思えば、大きな足音が数人分、二人の方に近づいてくる。
 何があっても声を出したら駄目だよ、と彼女は麻仁に念をおし、こくりと頷いた妹をぎゅっと抱きしめた。
 ばたんと開かれる扉。入ってくる複数人の足音。
「いないじゃないか」
 男の声。風で紙が飛ぶ音がした。
「何だ、その紙。……『遊びに行ってきます』? ここの子供は優等生だろ? 夜遊びするなんて聞いてねぇぞ」
「妹と一緒に二階の窓から抜け出すかよ、普通」
「いや、もしかしたら妹の方が夜遊び好きなのかも知れんぞ」
 一人が言って、二人がからからと笑う。
 少なくとも、男たちは疑っていない。ならば二人をこの家の中で探すことなどしないだろう――紗綾はほっと胸を撫で下ろした。麻仁のことを悪く言われたのは腹が立つけれど、今はそんな見栄やプライドよりも、命の方が大切だ。
 下品な笑い声と足音は遠ざかっていき、やがて静かになるが嫌な汗はまだ彼女の背を伝っているし、高まった鼓動もおさまることを知らない。
 外のエンジン音が遠ざかると、紗綾はようやく息を吐く。腕の中の妹は状況を理解していないらしく、ぼうっとした視線で彼女を見上げていた。
「お姉ちゃんは様子を見てくるけど、麻仁はここで大人しくしてるんだよ?」
 眠たそうに目をこする妹の頭を軽く撫でて、紗綾は秘密の場所から抜け出した。
 もう誰もいないとは思うが用心するに越したことはないと、彼女は音を立てないように一部屋一部屋見て回る。
 荒らされた形跡のある部屋もあれば、何事もない部屋もある。ただ、全てに部屋には黒い足跡が何人分も残されていた。父親は当然のことながら、母親の姿も――やはり、ない。
 「彼女」に頼るしかいないのか――紗綾は唇を噛んだ。
 父親が絶対の信頼を寄せたからといって、無条件に頼れるものではない。彼女は油断ならないと、紗綾の直感が告げていた。
 それにその父親だって紗綾からすれば突如現れたも同然で、未だに彼の存在に慣れていないことは否めない。だから彼女にとって父親の言うことは「絶対」ではなかった。今は従うべきだと理解したが、余りに突然で感情がついていかない。
 一通り見て回り、どこにも誰もいないことを確認した彼女は、少しだけ安心した。とりあえず朝になってから行動に移せばいい。なら今はどんな行動を取るかを考えるべきだろう。
 結論づけた紗綾は二階の子供部屋に戻ろうと踵を返す。
 その時だった。突然電話が鳴り出したのは。
 聞き慣れた音だと言うのにどこか禍々しく感じ、鳥肌が立つ。
 一瞬だけ凍りついた紗綾は、鳴り止まない呼び出し音に恐る恐る近づいて、電話機のディスプレイを覗き込んだ。
 相手は非通知。
 受話器をとりかけて、紗綾は躊躇う。誰からかかってきているのか分からない電話。もしかしたらそれは、今荒らしていった男たちの関係者からかもしれない。
 彼女が取ろうかどうしようか悩んでいる間に、電話はFAXに切り替わり、着信音は途切れた。
 電話機からゆっくりと吐き出される紙を見つめ、紗綾はごくりと唾を飲み込む。
 普段は気にしたこともないというのに、そのスピードは異様なまでに遅く感じられ――
『取引をしないかい、紗綾』
「!?」
 小さく悲鳴をあげた彼女は二階に駆け上る。
 電話機はまだ、紙を吐き出し続けていた。




暗黒の雲
月影草