羽を持つ者、背負う者



 がさり
 耳元でした紙の音に、雀榕の意識は浮上した。自分が覚醒したのだかまだ夢の中なのだかはっきりとしない。
 けれど側にいる人の気配が気になって、開こうとしないまぶたを彼女が無理やりに開けば、見えるのは白い天井。
 右側の窓の外で、茶色いものが舞うのを捉える。それが落ち葉だと雀榕が気付くのに、数秒を要した。
 左側には、新聞を眺めている少女。ここがどこなのか、自分が何故ここにいるのか雀榕には未だ理解できていなかったが、見覚えのある少女が隣にいることで安心したのか、そこまで認識した雀榕は疲労を覚え、再び目を閉じた。
 余りの気怠さに考える気にならない。起きようと言う気すら起きなかった。
 けれど、ドアの開く音が眠りに落ちようとしていた雀榕を妨げる。
 部屋に入ってきたのは、足音は複数人。ドアは眠っている雀榕を気遣うわけでもなく、音を立てて閉められた。
「いくら探しても無駄だよ、『羽蝶』。君が探しているモノなら、新聞には載ってない。テレビを見てもラジオを聞いても無駄だよ。
 だってあの事故は『なかった』んだから」
 若い男の声。それに応えるものはいない。足音が近づいてくるのが聞こえた。そして同じ男の声が、先ほどよりも近くから聞こえる。
「『羽蝶』。君は自分の立場っていうのがまだ分かっていないようだね。君には最初っから選択肢なんてないんだよ。
 それとも、分かっていて君のオトモダチをこれ以上傷付けるつもりかい?」
 笑いを含んだ彼のセリフに応えるものは、やはりいない。
 普段は決して気にすることのない新聞をめくる音が、今はやけに耳障りだった。
「今ここでそちらの側に戻った所で、この件を終わらせるつもりはないんだろう?」
 溜息と共に吐き出された少女の平坦な声。機嫌が悪いのかトーンが低いが、それでもその声は浅淺のものであると、雀榕は知っていた。
「さすが『羽蝶』。分かってるじゃないか」
 笑うような青年の声に、返す少女の声は重い。
「今更止まらないのであれば、慌てて降伏する意味もない」
「確かにそうかもしれないね。まぁ、今だったらまだ手加減しなくもなかったけど、やっぱりそれもなしかな」
「……どうだか」
 沈黙に再び新聞をめくる音が響いた。
「それじゃあね、『羽蝶』。言うことがないなら僕は行くよ。せいぜい最後まで足掻いて僕を楽しませてよね」
 足音は一つ。ドアの開閉音と共に消えていく。
 数秒の空白。続くのは溜息のように吐き出された、少女の声。
「……まだ用事があるのか、『公孫樹』」
「俺は……俺は認めないぞ、裏切り者の再加入などっ」
 先程まで黙っていたらしい青年の怒鳴り声に、ばたん、と椅子の倒れる大きな音がする。
 がさがさと新聞が床に落ちる音も聞こえた。
 雀榕の意識ははっきりと覚醒したが、恐怖に鳥肌が立ち、目を開けて状況を確認することすら出来ない。
「お前のような裏切り者など、さっさと殺してしまえばいい。だというのに……」
「なるほど。今回の件については『覇王樹』の独断で、彼が勝手に動いているだけなんだな」
 ならまだいい、と少女は小さく呟く。それはまるで、物分りの悪い生徒に言い聞かせるような口調だった。
「ならば組織としては烏合の衆だ。組織ではなく個人を相手にすればいいと分かって安心した」
 淡々と告げる少女の言葉は、逆に『公孫樹』と呼ばれた青年の神経を逆撫でるらしい――彼は全く動じない彼女に怒鳴りかかる。
「俺たちが本気になれば、お前なんて簡単に……っ」
「殺れるなら殺ればいい。あぁ、確かに出来るだろう。だがお前には出来ない。『覇王樹』がここまで熱心なんだ。殺ればお前の方がどうなるか……分かっていないわけではあるまい」
 今度の沈黙は更に冷たく、鋭さをはらんでいた。
 一人分の――恐らく彼の、荒い息遣いだけが病室に響く。
 やがて荒い足音と共に一人が部屋を出ていき、張りつめた緊張も和らぐ。雀榕は安心して身体から力が抜けるのを感じた。
 目を開けば部屋に残った少女――浅淺は椅子を戻し、床に落ちた新聞に手を伸ばしている。
「……浅淺?」
 ようやく搾り出した声は掠れて弱々しく、浅淺には届かなかったのかもしれない。彼女は言葉を返すことなく、拾い上げた新聞を畳んでいた。
 もう一度雀榕が呼びかけようとした所で、浅淺はようやく口を開く。
「聞いていたね、さっきの話」
 静かな声で問いかける彼女の口調に、幼さはない。「同級生」であるはずなのに大人に叱られたような気分になった雀榕は、思わずごめんと口走る。
 彼女に背を向ける浅淺の表情は、見えない。
 少なくとも浅淺の声には先程までのように低くも平坦でもない。いつも聞き慣れている柔らかくて優しい声――それだけが、救いだった。
「ううん、いいの。こんな所で喋っていた私たちが悪いんだから。
 だけど――聞いてしまったからには、逃げられるとは思わないで。『公孫樹』はともかく『覇王樹』は――雀榕が起きていたのに気付いていたから。
 ……いや、彼は雀榕に聞かせるために、ここで喋っていったのかな」
 そこで彼女はようやく振り返る。その顔は哀しげだった。
「こんなことになるのなら、来なければよかった。あそこで、大人しくしていればよかった。逃げても無駄なことは最初から分かっていたし、我ながら馬鹿なことをしたと思うよ」
 自嘲気味に、浅淺は笑う。彼女がそのまま消えていってしまうような感覚に襲われて、雀榕は思わず起きて手を伸ばす。突然動いたことで傷が痛んだが、雀榕にとってそれは些細なことでしかなかった。
「嫌だよ、浅淺っ。何でそんなこと言うのっ!? 私は、私は浅淺と会えて、仲良くなれてうれしかった。こんなけがしたのは私の不注意だし……私は後悔してないよっ」
 力強く言い切ってみたものの、浅淺の表情は冴えない。
 右腕をつかんだ雀榕の手をやんわりと離させ、大人しくしていないと駄目だよと彼女は雀榕をベッドの中に押し戻す。
 そんな動作の一つ一つさえ、浅淺が自分から離れていく儀式のように雀榕には思えて仕方ない。やはり彼女は自分たちから離れていくのかと思うと、すごく悔しかった。
「……浅淺。教えてよ。あの人たちは、誰? 浅淺、あなたは……誰?」
 じっと浅淺から見つめられ、雀榕は口に出した質問を改めて考え直すと、はっと口を抑えた。
 何ということを口走ってしまったのか。これでは浅淺を疑っているも同然ではないか――後悔した所で、言ってしまった言葉をなかったことには出来ない。
 謝ろうとする彼女を、浅淺は笑顔で制した。
「雀榕が不審に思うのも無理はないよ。雀榕にも話していないことは沢山あるからね」
 深く息を吐いて躊躇いを見せつつも、彼女は続ける。
「教えても構わない。けど――知ることがいいことだとは思わない。少なくとも、今は知らない方がむしろいいと思う」
 それでも訊くの、との問いかけに、雀榕は迷わず頷いた。
「知りたいよ。浅淺のこと、いっぱい知りたい」
 雀榕が即答すれば、浅淺は困ったように微笑む。長い話になると分かっているのか、彼女は椅子に腰掛けて雀榕の瞳を覗き込む。
 淡い紫色の綺麗な目で見つめられて雀榕はどきりとする。「自分」というモノを覗かれているような気になったからだ。
「仕方ないね……じゃあ当たり障りのない所だけ。でもいい、雀榕。この話は誰にも言っちゃいけないよ」
 雀榕が頷くのを確認すると、どこから話そうかと浅淺は視線を宙に泳がせた。
「雀榕は、華永という国を知っている?」
「カエイ?」
「知らなくて当然だよ、もう存在しないから。この国の西側にあった小国で、私が生まれ育った国。……でも潰されてしまったの。たった一つの組織に」
「国が潰される? そんなことって……」
 浅淺が窓の外に視線をやれば、ちょうど風が吹いたのか数枚の葉が舞い落ちる。
「ありえない。誰もがそう思っていた。
 あの頃はまだ、あの組織もそこまでの力を持ってはいないと、信じられていた。だからこれ以上彼らが力を手にする前にと、華永の政府は先手を打とうとした。
 けれど――それは最早遅すぎた。あの組織にとって華永を潰すことはすごく容易いことで――華永は、潰されることよりも潰れることを選んだ。それは国としての、国民としての選択だったって、私は後から聞いた」
「何で? 潰されなくてすんだかもしれないのに、何で国民が潰すの? 自分の国を?」
「それが、自分の国を守れる唯一の手段だったから――政府は国民をまとめあげる。もしその政府が乗っ取られてしまったら、それは国民全員が支配されるのと同義だよ。自ら崩壊を選んだのは、自分たちの自由を守るためでもあったんだから。
 ……そんな泣きそうな顔をしないで、雀榕。華永の頭脳たちは、他の国々に逃げた。彼らは今でも、華永の復興を諦めていないから、いつか組織が衰退すれば華永は復興できるかも知れない。
 ――私はね、雀榕。華永が崩壊した時に組織の本部に連れていかれたの」
「……じゃあ浅淺は、浅淺の国を潰したその組織から逃げてきたんだね」
 雀榕が自分が理解できた所だけ、自分の言葉で言いなおす。浅淺は曖昧に笑った。
「うん。でも、私も彼らの一員なの。
 世界が彼らを異端とするのなら、あそこで育った私も異端でしかない」
 どういうことなのか問い返そうとすると、浅淺は突然激しく咳き込みはじめる――いつもの、発作だ。ここが病院で良かったと雀榕は反射的にナースコールに手を伸ばしたが、押させまいと浅淺が横からそれをさらっていく。
「なんでっ!? 発作でしょっ!?」
 自国を自分たちの手で崩壊させた華永の国民。
 逃げ出してきた組織の仲間だという浅淺、彼女を連れ戻しに来た男と、それを阻もうとするもう一人の男。
 体調が悪いはずなのに、医者を呼ばせない浅淺――全てが雀榕の理解の範疇を超えている。
 暫く続いた咳がおさまった時、彼女は床にうずくまり苦しげに息をしていた。
「この発作は、ある薬の副作用なの。
 雀榕。知っておいて。私は人間じゃない」
 紫の瞳は遺伝学上有り得ない色なんだよ、と言ってどこか楽しげに微笑む浅淺の顔が、先日学校のロビーにいた男の顔と雀榕の中で重なった。

 



暗黒の雲
月影草