羽を持つ者、背負う者
「縹お帰りー。早かったな」
クラスメートに声をかけられ、雀榕ははっと顔をあげる。
彼女の頭の中はロビーにいた男と浅淺のことばかりが気になって、自分が教室に戻ってきたことに気付いていなかった。
声をかけた男子生徒は、様子のおかしい雀榕に眉をひそめる。
「何かあったのか? 規那の容態でもおかしいのか?」
「ち、違うのっ」
突然出された浅淺の名に、雀榕は慌てて否定する。
「浅淺はね、平気そうだったよ。事務所に行く前に浅淺に会ったから、私は帰ってきたの」
彼を安心させようと雀榕は笑みを浮かべるが、どこか引きつった笑顔にしかならない。
脳裏に思い浮かぶのはロビーにいた男の顔。微笑んではいたくせに、ちっとも笑っているようには見えなくて、更には自分を見透かされている気もして、悪寒だけがつきまとった。
同時に、感情の抜け落ちた顔を彼に向けた浅淺も気になる。あの無表情さは二年前を思い出させるようで。
あの男は浅淺とどんな関係があるというのか。少なくとも良い関係でないことだけは、雀榕にも伝わった。
「縹、本当に大丈夫なのか? あ、規那の奴がまだ体調悪いのに保健室から抜け出して心配なんだな。お前が心配するのも分かるよ。あいつ、変なとこで無茶するかなら。そういう時は保健室に追い返せ」
「そっか、次は頑張るよ」
にこりと笑顔を貼り付けて、雀榕は自分の席に戻る。
浅淺の体調は、無理をしているようにも見えなかったから、恐らく心配ない。けれど、雀榕は不安で仕方がなかった。
あの浅淺ならば大丈夫だと彼女には分かっているはずなのに、頭の片隅のどこかでそれが否定される。根拠も何もない、ただの勘だ。誰に何と言っても信じて貰えずに笑われるだけ。それでもなにかすべきだと、雀榕は焦っていた。
何をすればいいのか分からない彼女は、状況把握から始めることにする。状況を知らずに行動しても、悪い方にしか転がっていかないから。
今の浅淺を例えるのなら、蝶。身体の割に大きな羽が邪魔をするから飛べないと分かっている強風の中を、無理に飛ぼうとして逆に飛ばされていくような――
想像した瞬間に鳥肌が立つ。今は正にその状態なのだと、勘が彼女に訴えかけていた。
浅淺は賢い。持った知識と知恵を駆使すれば、大抵の状況は一人でも打破出来るだろう。だが今回のこの状況は、彼女の賢さが仇になっているようだった。彼女が機転をきかせればきかせるほど、泥沼にはまり込んでしまうようで、今の彼女では抜け出すことは無理かもしれない。
「浅淺」個人ではどうしようもないモノと浅淺は対峙しているのではないのかと、不確かながらに雀榕は思った。
何故それが浅淺なのか。浅淺でなければならないのか。
考えている内に雀榕の頭の中に浮かんでいたのは、ロビーにいた男の顔だった。
彼に会ったことはないはずなのに、どこかで見覚えのあるような顔の気がしてならない、違和感。年齢は、幼さが残るものの二十代前半くらいか。
雀榕は唇を噛む。
いつの間にか授業が始まっているが、内容など聞いている場合ではなかった。
思い出さなければと思うのに、思い出せない。
もどかしい。
こういう時は案外答えが近くにあったりするんだよね、と雀榕の意識がふっと男から逸れると、がらりと音がして彼女は反射的に振り返った。
後ろの扉から教室に入ってきたのは浅淺で、さっき廊下で会った時よりも、体育の授業の時よりも真っ青な顔をしていた。
「先生。今日は……早退します」
弱々しい声から、今の彼女は立っているだけで精一杯なことがうかがえた。
あの男とロビーで多少話しただけだろうに、どうしてあんなにも消耗しているのかと、雀榕は不思議に思う。だがあの男となら話すだけでも疲れるかもしれない、となんとなく納得する。
「いいけど……今帰って大丈夫? 保健室でもう少し休んでいなくていい?」
「大丈夫です」
「浅淺っ」
雀榕は浅淺を呼び止めたものの、毎日見ている浅淺の紫色の瞳が陰っているようにも見えて更に戸惑い、他に言葉が何も出てこない。
ドアの所で立ち尽くしたまま雀榕を見る彼女が、雀榕には何故か更に頼りなく見えてくる。
引き止めた以上何か言わなければと雀榕が暫く口をぱくぱくさせていると、何を思ったのか浅淺はくすりと笑った。
――そんな笑顔すらも、どこかおかしいように雀榕には思えて。
「いつものことだから平気。雀榕は心配しすぎだから」
「……うん。気をつけてね」
――本当に、無駄な心配をしているだけなのだろうか。
「……鋭い」
公園のブランコに一人腰掛け、女の子は呟いた。
彼女の顔色は冴えない。――夜風にさらされ身体を冷やしているのは彼女にとって良くないだろうに、女の子は何かを待っているかのようにそこに座っていた。
「……鋭い」
女の子は同じ言葉を再び呟き、そっと伏せていた視線を上げる。
明るくも暗くもない、夜の帳が降りつつある空。
それは彼女の現状を表しているようにも思われた。
軽く唇を噛む女の子の短い髪を、夜風がふわりと揺らしていく。
「何で子供って、あんなに鋭いんだろう」
女の子だって子供だというのに、彼女のセリフ自体に違和感はない。
むしろ違和感があるのは、彼女の外見の方だ。前髪の影に見え隠れする彼女の憂いの表情は、外見の幼さにそぐわない。
何もかもが理不尽で理解できないとでも言うかのように、考え込んできた彼女はまた小さく言葉を紡ぐ。
「容赦しては、くれないか……」
何かを悼むように、その瞳は細められた。
その表情から、たとえ彼女が大人びて見えようとも、未だ子供の域を離れないことは明白であった。
女の子は純粋で。
だから醜い大人の、裏の世界の現実になど耐えれるはずもない。
ふっと誰かに呼ばれたように、彼女は振り返る。
彼女の視線の先に見える街――明りの点き始めた住宅街は、闇に閉ざされようとしていた。
雀榕にとって、学校から浅淺の家までの道のりは通い慣れた道だった。
自分の家が近いこともあって、学校のプリントを渡しに行くこともあったし、余り体調のすぐれない浅淺を朝迎えに行くこともあった。たまに帰りが同じ時刻なら、家まで送っていきもした。
今日浅淺は学校に来ていたから、雀榕が届けるものはない。連絡事項もない。
だというのに、浅淺の家に来て玄関チャイムを鳴らしたのは、大丈夫だと分かっていても心のどこかで浅淺のことを心配しているからだろう。
ほどなくして開かれた玄関。
顔を覗かせた女性はいらっしゃいと雀榕に笑いかけ、あらと首を傾げた。
「あの、浅淺……」
「一緒じゃないの?」
「……え?」
「まだ帰ってきてないから、今日はてっきり雀榕ちゃんと一緒だと思ってたんだけど……」
雀榕は血の気が引くのが自分でも分かった。
まさか途中で体調を崩して、とも思ったが、ならば通学路のどこかにいるはずだ。雀榕はその通学路を通ってきたから、会わないはずがない。
どうして、と思う彼女の頭を過ったのは、今日学校に来たあの男の顔だった。
そして瞬時に思い出す。彼の瞳の色は紫だったことを。
紫の瞳なんてそうそうお目にかかるものではなく、二年前は浅淺の紫の瞳がなんとなく物珍しかったのを、雀榕は覚えている。
ならばあれはお兄さんだったのかもしれない、と雀榕は思った。浅淺の顔色が真っ青だったのには理由がつけられないが、男に見覚えがある気がしたのは説明が付く。
ただ問題なのは、雀榕が浅淺からお兄さんがいるなどという話を聞いたことがないことだ。
「……あの、浅淺ってお兄さんとかいます?」
恐る恐る聞いてみれば一瞬の間を置いて首を横に振られ、じゃああれは一体誰だったのだろうかと思う。とはいえ、よくよく考えて見れば瞳の色が同じだからと言って血縁とは限らないことに雀榕は気付いた。
雀榕はぺこりと頭を下げると、探してきますと言い残し、弾かれるように走り出した。
学校、図書館、病院、本屋……。
街中の浅淺が行きそうな場所を探して走り回ったが、彼女はどこにもいない。たまに立ち止まり、行きそうな場所と実際に彼女が探した場所との数を指折り数えて比較してみるものの、数の差は埋まっていくばかり。
走り回って上気した雀榕の頬を、大分冷たくなってきた風が撫ぜる。日は完全に沈んでしまったらしく、今は街灯の白い光だけが彼女を照らしていた。
疲れきった雀榕には走るだけの体力が残されていなかった。それでも、親友の安否を確認するためだけに姿を探して歩き回った。
もしかしたら浅淺はもう家に帰ったのかも知れない。どこかですれ違ってしまったのかもしれない。そんな思いが、雀榕の頭を過った。
そろそろ終わりにしよう。思った彼女が最後に寄ったのが、街外れの公園だった。
暗くてよく見えないが、公園には人影がある。ブランコからちょうど立ち上がったその人影は、背丈からして子供。
「……浅淺」
確信はなかった。
その人影から感じられる弱々しさが、浅淺ではないと思わせた。
だというのに、何故その人を浅淺だと思うのか、雀榕は自分でも分からない。
「浅淺っ」
少し大きな声で呼びかけると、人影は呼応するかのように振り返った。
タイミングよく通りかかった車のライトが、さらりと揺れた短い髪を、向けられた顔を、照らし出す。
物憂げな表情とは裏腹に、しっかりとした意志を秘めた瞳。彼女は雀榕に気づくと、青白い顔で微笑んだ。
どこか辛そうな笑顔に、雀榕は思わず息を呑む。
「浅淺……っ。浅淺!」
叫んで走り出した彼女に、浅淺は驚いたように目を見開いた。
「来ないでっ」
浅淺には自分など必要なかったのか。突然の制止に、雀榕は思わず立ち止まる。
自分自身を否定されたような気になった雀榕をライトが照らし、つんざくような高い音が彼女の耳に届いた。
視界が回る。見えるのは、まだ星の見えない群青色の空。
ぬめりとした、生暖かい感触。
駆け寄ってくるのは、軽い足音。
だんだんと感覚が遠のいていく雀榕の耳に最後に届いたのは、ごめんねと謝り続ける浅淺の声だった。
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