羽を持つ者、背負う者



 「人間じゃない」
 そう言った浅淺の声だけが、雀榕の中でぐるぐると回っていた。
 人間じゃない、だなんて一体どういう意味なのか。
 毎日見舞いにやってくる浅淺は普段と変わらない態度で、その真意を聞くことなど雀榕にはできなかった。とはいえあの話は聞かなかったことにして忘れ去ってしまうことも彼女にはできず、ついに退院の日を迎えた。
 迎えに来たのはやはり浅淺だった。回復するの早かったね、と言って彼女は蒼白な顔で笑った。
「浅淺、大丈夫?」
 毎日来てくれたのは雀榕としては嬉しかったのだが、同時に浅淺の方こそ無理をしているのではないかとの思いは否めない。それがもしかしたら浅淺の体調を悪くさせているのではないかと考えるのは、雀榕からすれば当然だった。
 浅淺は、雀榕は心配性だねと笑った。
「私は平気。だけど雀榕には……謝らないといけないことが……」
 何だろうと首を傾げる雀榕に、浅淺は暫く視線を彷徨わせていた。
 決心がついたのか彼女が口を開こうとすると、『次のニュースをお伝えします』と、テレビの音が雀榕の耳に届く。
 浅淺が微かに顔を顰めてテレビを眺めるのにつられ、ニュースに興味はなかったが、雀榕もテレビに視線を向けた。
『昨夜女性の遺体が見つかった事件で、女性は縹恵華さん三十八歳と判明しました。死因は中毒死とされており、警察は自殺の疑いがあるとして捜査を進めています……』
 縹恵華――雀榕の母親の名前だ。テレビに映っている顔写真も、雀榕がよく知っている母親のものだった
「ごめんね、雀榕……」
 呆然とする雀榕の耳に、浅淺の掠れた声が響く。
「私が関わりすらしなければ、あなたは普通の人生を歩めたというのに。
 ごめんなさい、雀榕」
 大丈夫だよ、と雀榕は上の空で繰り返す。
 突然告げられた母親の死と謝り続ける浅淺とが、彼女の中では全く繋がらなかった。

 ――思い返せばあの後一月くらい、クラスメートから除け者にされていた気もする。けれど浅淺だけは常に側にいてくれたから、雀榕はそれ程辛い思いをせずにすんだし、第一クラスメートに除け者にされることよりも、母が居なくなってしまった事実の方が雀榕にとっては辛かった。
 雀榕に対する嫌がらせは意味をなさないまま消え、ほぼ全てが「元に」戻った。変わったのは雀榕が親戚の家に引き取られたことくらいか。
 雀榕が浅淺について知っていることは限りなく少ない。彼女が何故自分の故郷を潰した組織にいるのかなど、未だによく分からない。
「はかどってる?」
 声がした方に目をやれば、そこに居たのは浅淺だった。今保健室から戻ってきたばかりらしい彼女は、雀榕の机の上に放り投げられたペンを見てくすりと笑う。
「進んでなさそうだね」
「記憶の整理中なんだから、邪魔しないでよ」
「それは重要だよね。ごめん」
 今さっきまで保健室で休んでいたからか、浅淺の顔色は良かった。そんな浅淺を見ていると思い出されるのは、学友たちとのプールサイドでの会話だった。
「浅淺はさ、卒業したらどうするの? やっぱり帰るの?」
「……うん」
 雀榕の言葉に、浅淺は躊躇いながらも頷いた。
 帰る先が組織を指していることは、聞かなくても分かっている。
「何で? 浅淺はそこ……嫌いじゃないの?」
 人には余り聞かせられない話だろうから、と雀榕は声をひそめ、周囲を確認する。だが、周囲の生徒たちは誰一人として二人の会話を気にしている様子はない。
「うん、嫌い……かな」
「じゃあ何で戻ろうとするの? ずっとここにいちゃ、だめなの?」
 軽く息を吐いて、浅淺は窓の外に広がる青空をみやった。真っ青でどこまでも続いていく、青空。
「……あれはね、もう存在したらいけないんだよ。誰かがその暴走を止めないといけない。それはね、すごく難しいことで……多分私にしかできない。
 だから、私は『希望』の名を冠しているんじゃないのかな。あれに関わってしまった人たちの、関わらざるを得なかった人々の、希望――」
 窓の外を眺めたまますっと細められた瞳には、強い意志が見て取れた。
 浅淺は自身のことを人間でないと言ったが、それは間違いだと雀榕は思う。何を思って彼女は自身のことを人間でないと言うのか雀榕は知らないけれど、彼女には感情があり、意志がある。少なくとも雀榕は、浅淺は人間だと思っているし、信じてもいる。
 もしそれでも違うと浅淺が言うのであれば、それはそれでいいんじゃないだろうかと雀榕は思っていた。浅淺が人間じゃなかったとしてもやっぱり雀榕は浅淺のことを親友だと思うから。
「浅淺がさ、そうするんだって決めてるんなら、私なんかが止めちゃだめだよね。でもさ、浅淺……帰っちゃっても、友達でいてくれる?」
 驚いたように振り向いた浅淺は、困ったような表情をしていた。
「本当に私なんかが友達でいいの?」
「浅淺だからいいの。決まってるでしょ」
 ありがとう。
 そっと囁かれた謝辞に、雀榕は笑みを零した。


「それで、どうだった? 君の大切なオトモダチが苦しむのを見てるのはさ。面白かった?
 まあ僕からするとあれは失敗かな。母親の死からもう少し早く立ち直ってくれると踏んでたのにさ、クラスメートから苛められても反応なくて詰まんなかったし」
 決して視線をあわせようとしない少女に、机に頬杖をついた青年は問いかける。
 何も語ろうとはしない彼女の反応すらも、彼は楽しんでいるようで居心地が悪い。
 窓すらないその部屋に響くのは、壁にかけられた秒針の進む音ばかり。主なものは机と椅子と時計程度だけだというのに無闇に物が散乱しており、居心地の悪さばかりか息苦しさをも彼女は覚える。
「それで、『烏合の衆』とはよく言ってくれるじゃないか、『羽蝶』」
「……結局のところ私の為だけに奔走したのは『覇王樹』だけだろう」
 ようやく口を開いた彼女、『羽蝶』に、彼、『覇王樹』はふふっと笑う。
「確かにそうだけどね。でもさ、ここの外は無意味なモノばっかだって、君は思わなかった? ここの外の世界ってさ、結構感情で動いてる。理論じゃないものなんてさ、必要ないと僕は思うんだけど」
「彼らには必要なんだろう。理論よりも先に彼らを走らせるソレが」
 まじめに答える彼女の表情は、研究者のそれだった。彼女は理論的に説明付けをしようとしているのだ。感情というモノを。
 それは、彼女が感情というものを未だに理解していないことの証明に他ならない。
「それでさ、君が何をしたかったのか知らないけど、やりたかったことはできた? それともここから逃げたかったのかな。抜け出せないって、君が知らなかったわけでもないだろうに」
 蔑みを含んだ『覇王樹』の言葉に、別にと『羽蝶』は気のない返事をする。
 そして何を思ったのか、彼女は小首をかしげた。
「……むしろ、それを訊きたいのは私の方だ、『覇王樹』。
 外に出た私を泳がせて、今度は連れ戻してきた。外にいることを『許した』癖に、外にいることは意味がないと言う。言っていることとやっていることと、全てがばらばらだ。
 『闇・羽』の在り方は確かに気紛れで、その時の興味や好奇心に多いに依存する。だが『覇王樹』。お前のやっていることは矛盾が多すぎる」
 理詰めで指摘され、そうかなと彼は肩をすくめた。
「よく言われるよ。僕としては一貫してるつもりなんだけどね。まぁ、矛盾しているように見えるのも、否定はしないけどさ」
 『覇王樹』はくすくすと笑い、『羽蝶』はそんな彼をただ冷たい視線で見つめていた。
「でもさ、それって『羽蝶』、君にも同じことが言えると思わないかい? 君だって、ここから逃げ出しておきながら大した抵抗もなくこうやって戻ってきてる。君のその行動は、矛盾してないって言うの?」
「私は効率を計算しただけだ。
 あそこで私が足掻いた所でここに戻されることに変わりはない。ならば、無駄なモノは省くべきだろう?」
「本当に? 足掻くのはそんなに無駄だって、思うの?」
 見損なったよ、と『覇王樹』は目を細めた。
「じゃあ君が外で過ごした二年間、全く無駄だったって言うんだ。それなら、僕が君を連れ戻したのこそ無駄かもしれないね」
「二年間が無駄になるか否かは、今から私が決めることだ。他人に決められることではない」
 彼は興味もなさそうにふぅんと相槌を打ち、そういえばと言葉を続けた。
「君と同時期にもう一人ここからいなくなってるんだけど、君は知ってる?」
 『覇王樹』は机の上の紙の山をがさがさと掻き分け始めた。何か書類でも埋まっているのだろう――山から滑り落ちた書類数枚が、『羽蝶』の目に留まった。
 理扉と能利の情勢を調べ上げたそれらには、極秘の印が押してある。恐らく元々は束にされていたであろうその書類の数十分の一、もしかすると数百分の一でしかない枚数を見ただけでは確実なことは言えないが、彼が理扉と能利を巻き込もうとしていることだけは確かだ。
 彼女の考察を他所に、彼は続ける。
「そうだね、『羽蝶』が知ってるわけないよね。君が逃げた日に彼は理扉へと発った。そしてそのまま帰ってきてないわけさ。彼は技術の進歩を見るためにたまに国を周遊してた。音信不通にはなれど。その時まではちゃんと戻ってきてたからって放っておいたのが問題だったのかな」
 ようやく見つけたらしい書類を引き抜いて、ばさりと『羽蝶』の前に置いた。
 蟒輝安(うわばみ きあん)――コードネーム『空木』の処分確定。
 組織に戻ると決まった時に、二年前と同じように何も感じまいと『羽蝶』は「感情」は閉ざしたはずだというのに、どこか胸の奥がずきりと痛む。
「二人も研究員がなくなるのって結構痛いんだよね。『羽蝶』、すぐにでも実験に入ってくれる? 君の研究結果とかは全部残ってるし……Heatherのデータだって程良く集まった頃合じゃないのかな。
 あ、そうそう。AIの方は片手間でいいから、どっちかっていうと生物兵器とかの方の研究進めてくれる? 吸い込むだけでなんらかの病気を引き起こすような化学薬品とか、君ならお手の物だろう?」
 『覇王樹』の要求は半分以上聞き流し、あぁと生返事をしながら『羽蝶』は『空木』のことを思い返していた。組織の人間でありながら唯一、幼かった『羽蝶』や『勇魚』等の外との繋がりを積極的に保とうとしてくれた人だ。
 彼はどちらかといえば「出来が悪い」。
 組織の中でもずば抜けた優秀さを誇っていた『羽蝶』と違い、彼が組織に戻してもらえる可能性は、限りなく低い。それが意味するのは――彼の死だ。
 彼女にとっては次の研究テーマよりも、『覇王樹』が『空木』の居場所を突き止めたかどうかの方が気になっていた――それによって、次に打つ手は大きく異なってくる。
 まずは『空木』の安全の確保を。次に彼の家族を避難させて――
 彼女が何を考えているのかを分かっているのか、『覇王樹』はすっと目を細めて問いかける。
「でさ、『羽蝶』。君が逃亡した日と彼が理扉に出発した日が合致してるのは、本当に偶然なのかな?」




暗黒の雲
月影草