羽を持つ者、背負う者



 学校のロビーに残された二人は、暫く黙ったままだった。何もせず、何も言わずにただ立っていたわけではない。どれだけ自分が何を考えているのかを相手に悟らせずに、相手の考えていることを読み取れるかの駆け引きが、既に始まっていた。
 何も表さない冷たい顔と、全てを覆い隠す笑顔で交わされる鋭い視線は、この小学校という場において余りにもふさわしくない。
 彼らにとって情報は命にも等しい――これは彼らの「命」の駆け引きでもあるのだ。
 だというのに――彼は雀榕の顔を見たのだろうかと一瞬過った不安に少女は気を取られ、微かに表情が変わる。青年はそんな彼女の些細な表情の変化も見逃すことなく、にやりと笑った。彼女はしまった、と気を張りつめなおすも、もう遅い。
「大分辛そうだね。それ、薬の副作用?」
 あえて少女が考えていたことには触れず、青年は楽しげに彼女に語りかける。今更と思いながらも冷たい視線を返したのは彼女の、彼という圧力に対する些細な抵抗でもあった。
「弱ったな。そんな態度じゃ、僕がここに来た意味がない」
 いいけどね、とやはり笑顔を崩さずに彼は続ける。
 青年の笑顔は、相手の表情を読み慣れている、否、読み慣れていた少女にとってみても、やっかいなものだった。彼は彼女よりも表情を読み慣れていて、彼女よりも表情を隠し慣れている――明らかに、不利な状況だ。
 冷静にそこまで分析した少女は、自分でも気づかない内に焦っていることを悟る。それすらも、彼には伝わってしまっているのかもしれない。
 ――彼は一体何を考えているのか。
「Magical Scientist と言われようと、不老の薬を作るのが無理ってことが分かっただけ、収穫かな。そんな副作用あったら、いくら不老になれたとしても、使いたくないかもね。苦しいのは誰だって嫌だし。それに、見た目が幼くなるのも減点ポイントかな」
「……」
 「不老を求めたわけじゃない」との言葉を飲み込めば、思わず唇を噛み締めそうになって彼女は我に返る。
 ここに来てからまだ二年だというのに、クラスメートや周囲の人間から細々とした「感情」を示す動作がうつってしまっていることに、遅まきながら少女は気付いた。これでは青年に自分の考えを伝えているも同然だ。
 どうするのが最善かと考えた結果、彼女は記憶を呼び起こす。
 二年以上前の、自らの記憶。感情を知ることのなかった、表情を映すはずのない頃の記憶を。
 少女の脳は機械と同じ。選んだプログラムを走らせることくらい、簡単にできるはずだ。
 最初から昔をトレースしていればよかった。中途半端な気持ちで彼に臨んでしまったことは、大きな痛手となるだろう――だが今は気にかけている余裕はない。なんとかしてこの場を上手く切り抜けなければ、文字通り自分の命がなくなってしまう可能性は否めない。
 以前の自分の行動を分析し、現状に当てはめる。「自分」が取ったであろう行動は、簡単に予想できた。
「…… Magical Scientist ?」
 少女がぽつりと反復すると、やっぱりそこに引っかかったね、と青年は嬉しそうに口元を歪めた。そんな彼の反応は、彼女の予測通りだ。
「君のことだよ、『羽蝶』。『闇・羽』という天才科学者集団において最年少でありながら、最早誰もが届くことのない場所にいる――世界を知り尽くし、科学を操る様はまるで魔術の様ってね。本当に Magical Scientist って知らない? 君、まだいたと思うんだけど」
 君がまだ知らなかったことに驚きだよ、と彼は意地悪く笑う。『羽蝶』と呼ばれた少女は、僅かに眉を顰めてみせた。それが演技だと彼が見抜いたのかどうか、彼女には定かではない。
「それでね、『羽蝶』。僕はいつかは魔術にも届くであろうとされる君に、話があるんだよ。科学者集団に属し、科学の発展を夢見る者としてね」
「私は科学者。魔術師になんてなり得ない」
 彼女は微かに溜息をつくが、最早彼女の表情が動くことはない。声にも抑揚がなく、恐らく誰もが彼女を人間かと疑ったであろう。
 青年はただ、楽しくなったと言わんばかりに嬉しそうな笑顔を見せるばかりであった。
「まったく、二年も離れていたから多少変わったのかと思えば、本当に変わらないね、君は。そうやって君は、全ての可能性を否定するのかい」
 別に、と言葉少なに『羽蝶』は返す。彼女の態度は、例え可能性がなくなったとしても関係ない、とでも言うかのようだ。
「……それで、話とは」
「ようやく聞く気になった?」
 青年は更に弾んだ声を出し、それは『羽蝶』を更にげんなりさせる。
 彼の反応は「聞く気になった」よりは「早く話を終わらせたい」との彼女の意思を知っているからこそであり、大概彼が喜ぶ時は彼女にとっていいことはないと、経験から知っていた。
 長引いてもやっかいだし、長引かなくてもやっかいなことになる、と冷静に分析する。
「『闇・羽』の規則は知ってるよね? 一応、裏切り者とか逃亡者には死を、っていう決まりなんだ」
 笑って言うと、彼はわざとらしくポケットに手を突っ込んだ。それ程膨らんではいない――だからといって、何も入っていないわけがない。彼は世界中から集められた科学者集団の中にいるのだから。
 良くて小型の銃。悪くてたちの悪い化学薬品か、生物兵器。どれも、可能性としてはありえる。
 だが、彼にはそれを使う気がないことなど、『羽蝶』には分かっていた。真昼間の学校で発砲事件なり殺傷事件なりあったとすれば、一番先に疑われるのは訪問者である彼だ。同時にマスコミも騒ぎ立てるだろう。事を隠密にすませたい彼がやる訳がない。
 ――もっとも、それは青年に情報操作をするだけの力と権力がなかった場合の話であり、今の彼にならそのくらいのことは簡単にやってのけるであろう。
 それでも、あれはただの脅しであり、彼はこの場で『羽蝶』を殺すなどしないと彼女は確信を持っていた。
「その規則なら知っている。……なら、話すことはないな」
 わざわざ話題にする意味が分からないと、早くも話を切り上げて立ち去ろうとする『羽蝶』に、青年は苦笑するしかなかった。
「ちょっと待ってよ、まだ本題に入ってないんだから。それとも、そんなに僕のこと嫌い? なら本気でこの場で君のこと、殺しちゃうよ?」
 軽く言ってのける青年に、彼女も軽く肩をすくめてみせる。
「どちらにせよ、この場で別れることに変わりはない」
「僕の予定ではさよならなんて、言わなくてすむはずだったんだけどなぁ……」
 困った困った、と彼は笑顔のままで繰り返し、何も言おうとしない『羽蝶』を気にすることなく言葉を続ける。
「本題はここからなんだけどね。戻ってくる気はない? 『闇・羽』に」
 提示された選択肢は『羽蝶』の想定内ではあったものの、意外だった。そこから導き出される事実は、一つ。
「総司令になったのか、『覇王樹』」
 静かに彼女が問い返せば、『覇王樹』と呼ばれた彼は嗤うだけで、何も言わない。それは肯定を示しているのだと、彼女には分かっていた。
 前任者のことは『羽蝶』も知っている。怖い印象はなかったが、組織の決まり事に関しては融通のきかない人であったと記憶している。
 だから、前任者の彼ならば裏切り者の再加入など決して認めないだろう。
 やるとしたら実際に申し入れてきた彼、『覇王樹』。彼の気まぐれな性格なら、前任者に気に入られて後継者として指名されていてもおかしくはないし、『羽蝶』を連れ戻すためだけに規則を変えることだってやってのけるだろう。
「……殺せばすむ話だというのに、面倒なことを」
「折角貰った権力だし? 行使しなくちゃ」
 『覇王樹』の笑みからはどこまで本気なのか読み取れないが、恐らく彼は本気だと『羽蝶』は結論づけた。でなければ、総司令になってわざわざここまで赴いてくる理由がない。
 総司令は『闇・羽』という組織の全ての権限を任される。とはいえ、所属している科学者達がただ権力に平伏すはずがない。権力に平伏すような人材は、たとえどんなに優秀だったとしても組織が入れることをまず拒むだろう。
 もし『覇王樹』が組織を属する全ての人の意見を纏め上げた結果がこれなのであれば、『羽蝶』がこの場で拒否したところで無駄な足掻きでしかないだろう。もし『覇王樹』が権力の元に一人で行動しているのであれば、逃げ道は残されているかもしれない。
 見極めるなら、それが組織の意向であるのか、それとも『覇王樹』個人の意向であるのかだ――そこまで考えが至ると『羽蝶』はすっと目を細めた。
「私を泳がしたのはその為か」
「泳がした? 何の話?」
 再び訪れた沈黙に、二人は鋭い視線を交わしあう。
 鋭いながらも『覇王樹』の視線は楽しげで、『羽蝶』はあえて自分が見逃されていたことを悟る。
 先に口を開いたのは、『覇王樹』だった。
「君に戻る気はないって、そう受け取っていいのかな。
 残念だよ。折角良い取引だと思ったのに、『羽蝶』がその態度じゃ話にもならないよ」
 意味もなく『覇王樹』はくすくすと楽しげに笑うその態度と、どこまでも冷たい言葉とが明らかに噛み合っていない。
 二年前の『羽蝶』ならば何とも思わなかったのだろうが、彼の態度は異様だと、現在の『羽蝶』の直感が告げていた。あえて言葉にするのなら、「狂っている」。
「君には最初から選択できる権利なんてないんだよ、『羽蝶』。僕は力づくでも君をこっち側に引き戻してみせる。
 覚悟しておくことだね。手加減なんて、しないから」
 『覇王樹』の表情から笑みが一瞬消える。それは『羽蝶』に思考を読ませるための、故意に作られた隙。無意識に彼女が顔を顰めたのを見届けると、彼は満足そうな笑みを浮かべて出ていった。
 『覇王樹』が目の前からいなくなったことで緊張の抜けた『羽蝶』は、手近な壁に寄りかかって天井を仰ぎ見る。彼女が読んでしまったのは、彼が彼女を取り戻すためにこれから取る手段。
 組織のことだなんてほぼ忘れていた自分の能天気さに、「自分」の意志を通そうとした自分の浅はかさに、『羽蝶』は唇を噛み締める。
 彼の手段が最初から分かっていたのなら、拒絶などしなかったというのに。
 これから友人が味わうことになるであろう苦痛と絶望に、『羽蝶』はそっと目を閉じた。

 



暗黒の雲
月影草