羽を持つ者、背負う者



 原稿用紙に必死になって走らせるペンを止め、雀榕は自分の隣にある空いた席を見た。そこにいるべき彼女の親友は、今も保健室で休んでいる。
「落ち着いたかな、浅淺」
 規那浅淺。
 二年前、四年生だったときに転校してきた彼女は、出会った頃から不思議な子であったと、雀榕は認識している。
 当時の浅淺は笑わなかった。言われたことを着々と、機械的な動作で片付けていく子だった。質問には答えるものの、自ら会話に入ろうとしない彼女の扱いに、同級生は皆一様に困ったものだ。
 浅淺の頭が良いことは、その頃からだんだんと広まった噂だった。夏休み前という変な時期だったにも関わらず、すぐに皆の憧れの対象になった。
 雀榕だって、浅淺に憧れた一人である。
 親しくなりたい一心で浅淺に話し掛け、同じくらい頭が良くなりたいと必死になって勉強した。最初は投げ出したいと思った科目も、今ではおもしろいとさえ思える。要は心構えの問題なのだと、最終的に気づいた。それまで平凡であった雀榕を、少しだけ賢い部類に入れるようになったきっかけが、浅淺なのだ。残念ながら雀榕の成績が浅淺に追いついたことは、まだない。
 だが、天は二物を与えずとは良く言ったもの。
 浅淺は勉強ができる代わりに、とてつもなく虚弱体質だった。
 転校してきたばかりの頃、浅淺は登校してくるだけで顔を真っ青にし、朝礼の時に立っていることさえ危うかった。体育で走り回るなど論外で、一週間のうちに登校してくるのは一日だけというのも日常茶飯事。後何年生きられるかなど分からず医者からも匙を投げられたのだと、浅淺のクラスメートは聞かされた。
 最近はだいぶ浅淺の体調も落ち着いてはいるが、やはり月に二、三度は発作を起こすらしく、その度に保健室に行っている。
 誰よりもか弱く、誰よりも真面目で、誰よりも賢い浅淺を、雀榕を含めたクラスメートたちは放って置くことができなかった。
 最初からかなり目立つ存在であった浅淺はいじめを受けることもなく、クラスメートたちに、先生たちに守られて二ヶ月後に卒業を控えている。
 雀榕は一度、成績面でどうしても追いつけない浅淺に勉強の仕方を聞いたことがあった。彼女の答えは簡単で、「日々の積み重ね」。体が弱いから、勉強以外にやることも、出きることもないのだろうとその時雀榕は勝手に納得したが、別の要因があったことを数ヶ月前に始めて知った。
 考えれば考えるほどに不可解な浅淺と巨大組織の関係は、未だもやもやとしたわだかまりを雀榕の中に残している。
 それは浅淺が賢い理由であり、心を閉ざした原因であり、彼女が生まれた場所であり、いつかは帰ってしまうであろうところ。天才の集団で、だからこそ浅淺が体調を崩すことになった……――
 そこまで考えて、雀榕の思考は止まった。
 全てを誰かに話したい。話して事情を整理したい。
 だが誰にも言わない、というのが浅淺との約束だった。
 ふぅ、と雀榕は息を吐いて、原稿用紙に視線を戻す。
 浅淺と組織の関係にまで思考が辿り着いてしまうと、後は卒業文集のためなんかに自分のことを振り返っている場合ではなくなってしまった。自分の記憶を辿っていられずに、否、つい数ヶ月前のことしか考えられなくなって、未練がましく握っていたペンを机の上に放り出した。
 自分のことを変えるきっかけとなった浅淺のことは、ぜひとも卒業文集に書きたい。ならばここで、一度整理してみても無駄ではないだろう。何を書いてよくて、何を書いてはいけないのかも考えなければならない。
 雀榕は数ヶ月前の記憶を、今度はしっかりと辿り始めた。
 あれは風が冷たく感じられるようになってきた秋の日に始まり、他の誰にも異変を感付かせぬままに全てが終わっていた、長くても一ヶ月ほどの話――



 「お前、たまには運動しないと、治るものも治らんぞ」
 プールサイドに座って見学していた浅淺に、体育教師がプールの中から声をかける。
 転校してきてから二年間。浅淺が体育の授業に見学以外で参加したことはない。
 それは彼女の虚弱過ぎる体質のせいであり、学校中の誰もが知っていることだ。だが、実際にどれだけ彼女が虚弱であるのか、知っているのは僅かだろう。
 この体育教師は知らない側であり、これはそんな彼の「好意」だった。
「いいんです。治るようなものでもないですし」
 浅淺は困ったように笑って見せるが、体育教師は譲らなかった。
「あのなぁ。そんな悲観的だから治らないんだ。ちょっとこっち来てみろ」
 プールの中から手招きされ、真意の読めない浅淺は首を傾げながらも近寄る。と、突然体育教師に手を引っ張られ、プールの中に落ちてしまった。
「っ!!」
 突然の温度変化に、出来なくなった呼吸に、浅淺は声にならない悲鳴を上げる。だが、それは体育教師には届かない。あまつさえ彼は
「水の中に入るくらいなら問題ないだろ?」
 とまで言ったのだ。
 浅淺が落ちたときの水音で、何が起こったのだろうと生徒たちは呆然と眺めていた。水音がしたところに見えるのは体育教師だけ。事の始終を見ていなかった彼らが理解できないのは無理もない。
 雀榕が一番最初に確認したのは浅淺の姿だった。
 プールサイドにいるはずなのに、姿が見えない。満足げに笑っている体育教師。そして先程の水音。
「大有りですっ!!」
 状況を理解した雀榕は、悲鳴に近い声を上げて無我夢中で水の中に手を伸ばす。
 水面上からではどこにいるのか分からずに、雀榕は水に潜る。
 浅淺はプールの床の上でどうすることもできずにただ、うずくまっていた。
「浅淺っ。大丈夫!?」
 せめて浅淺を立たせようと、雀榕は必死になって彼女を支えようとした。だが、いきなり水の中に落とされ、立つことも出来す、わずか数十秒のこととはいえ呼吸すらままならなかった浅淺の身体は、力が入らない。
 雀榕の力添えでなんとか水面に顔を出した浅淺を見て、見ていただけの生徒達が集まってくる。数人は水の中でもがくことさえできない浅淺が水から出るのを手助けし、一人はタオルを取りに走る。体育教師に向かうのは雀榕だ。
「浅淺の体は急激な温度変化にも耐えられない。だから水の中に入ろうだ何て無理なんですよっ」
 大丈夫、とクラスメートたちに聞かれても、浅淺に返事を返せるだけの余裕はない。咳き込み、荒い息を繰り返しながら数度、こくこくと頷くのが限界だった。
「す、すまん」
「本当に分かってるんですかっ。浅淺にとっては命に関わるんですっ」
「……雀榕」
 少しだけ落ち着いた浅淺は、大人顔負けの迫力で教師を怒鳴りつけている雀榕に弱々しい笑みを向けた。微笑む彼女の笑顔は痛ましく、クラス全員で体育教師を睨みつけた。
「……大丈夫、だから」
「でも保健室には行っておこう? 大事があったらいけないから」
 平気だよ、と笑いつつも、浅淺は男の子の手を借りて保健室へと歩いて行った。
 それは、二年前よりもはるかにしっかりとした足取りで、誰もが、彼女は治りつつあるのだと、思っていた。
「浅淺さ、だいぶ元気になったよね。いつかは体育の授業、一緒に受けれるようになるのかな」
 一人が喜ばしげに雀榕に言う。
 浅淺が治ってくれるのは、雀榕も嬉しい。体育の授業を一緒に受けれたら、とは雀榕だってずっと思っていた。
 それなのに、素直に喜べないのは何故だろう?
「……どうなんだろう。元気になったから、逆に不安で」
「何で?」
 問い返されて雀榕は眉間に皺を寄せる。
 彼女にだってはっきりとした理由があるわけではなく、ただ、嫌な予感がしているだけなのだ。なにか、取り返しのつかないことが起きてしまうような――。
「良く分かんないけど……浅淺、元気になったらどこか遠くに行っちゃいそうで。不安っていうか、嫌だな」
「それ分かる。あいつ頭もいいもんな。健康になったらもっと学力の高いところに行ってもおかしくねぇし」
「そしたら寂しくなるね。やっぱりいくのは首都の方かな。こんな田舎よりも、学力の高い学校が揃ってるもんね」
 冷えてきた風が、雀榕たちの濡れた身体から体温を容赦なく奪っていく。
 普段曇りがちの空が今日は雲一つない快晴で、逆に不気味だった。

「規那さん、いるかしら」
 休み時間に浅淺を探して教室を訪れたのは、珍しく事務の人だった。普通、浅淺を探して教室まで来るのは保健の先生なのだ。
「規那なら保健室ー。まだ帰ってきてねぇよな、縹」
「うん、まだだよ」
「浅淺がどうかしたの?」
 雀榕はこのクラスのことが好きだった。なぜなら普段別行動でも、浅淺の名前を聞けば皆が集まってくる。
 浅淺が転校してきたときに、彼女の余りの弱さを見かねて、全員で一致団結して浅淺を守ろうと、そう決めたからだ。そしてその決意は、二年経った今もまだ、続いている。
「何か急用があるって人が来ててね。でも規那さんが具合悪いのなら、今日は帰ってもらおうかしら」
「私、代わりに会って話聞きましょうか?」
 雀榕の申し出に事務の人は一瞬渋るが、周囲のクラスメートが「それがいいよ」「雀榕なら浅淺も信頼してるだろうし」との声に「仕方ないわね」と承諾した。
 事務の人の後をついて歩きながら、雀榕は教室から事務室までこんなに遠かっただろうかと何気なく考えていた。
 なにやら嫌な予感までして、浅淺に用があるという人に会ってみたいのに、会ってみたくない。クラスメートたちは何気なく雀榕を推したのだろうが、本当に彼女が会っていいものなのだろうか。
 同時に雀榕は思い出していた。二年前、すべてを拒絶する構えを見せていた、浅淺の態度を。いつからか浅淺はクラスに溶け込んだが、最初の頃は口を開きすらしなかったこと。
「あら、規那さん」
 階段を一階まで降りたところで、擦れ違おうとした生徒に事務の人が声をかける。聞き慣れた名前に、雀榕も顔を上げる。
 こんにちは、と微笑む浅淺を見て、二年前からだいぶ変わったなと雀榕は改めて思う。
 すっと視線を事務の人の背後に向け、浅淺はそこに雀榕がいたことに、少し驚いたようであった。
「雀榕?」
「もう平気なの?」
「……うん」
 答える浅淺の顔色は悪くない。あくまで「悪くはない」のであって、「良くもない」のだが、雀榕はそれだけでも安心した。
 この顔色なら、心配ないかもしれない。
 ぱっと決断を下すと、雀榕は浅淺に話し出した。
「なんかね、浅淺に会いにきた人がいるんだって。浅淺の調子が悪いんだったら私が会ってこようと思ったけど、大丈夫だよね」
「……私に?」
 来訪者など予期していなかった浅淺は、事務の人を見る。事務の人はそうよ、と頷いてロビーへと浅淺を促しただけだった。
 おかしい。そう雀榕は直感する。
 事務の人は何故一言も、誰が浅淺に会いにきたのかを告げないのか。
「じゃ、いってらっしゃい」
 にっこりと笑って雀榕は浅淺を送り出す。浅淺は自分なんかよりずっとしっかりしているから大丈夫、と自分に言い聞かせ、会わなくてよくなったことに安心している自分に、後ろめたさを感じながら。
「うん。心配かけてごめんね」
 浅淺も笑ってドアを抜ける。
 恐怖もあったはずなのに、好奇心の方が勝ってしまったことが間違いだったのかもしれない。
 浅淺を待っているのはどんな人だろうと、雀榕はロビーをさりげなく覗き込む。
 浅淺を待っていたのは男。何を思ったのか、雀榕を見て微笑んだ。
 だがその微笑みは冷たくて。
 彼の笑顔と、彼を見たときの表情ない浅淺の顔。二人の対比が怖くて、雀榕は逃げるように立ち去った。




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