sub rosa



「ねぇねぇ、守護神様見なかった?」
 まだ幼さの残る少女の声。それはこの神殿で巫女見習いをしている少女たちの一人だろう。
「守護神様? 見てないけど、もしかしてまた逃げられたの?」
「仕方ないじゃなーい。幼い子を閉じ込めるなんて無理無理」
「幼いのは見た目だけでしょ? ……まぁ、分からなくもないけど」
 大事であろうにも関わらず、少女たちの声には緊張感がない。恐らくこれはいつものことであって、彼女たちからすれば日常の延長に過ぎないのだ。
「それにしても本当にお強いわよねー、守護神様。神術だけでなくて、体術にも長けてあるのよ? あの方に守られている間は、この国は安泰だって思わない?」
「うん思う思う。あ、でもあの方じゃなくて破壊神だったこともあるらしいわよ?」
「破壊神? きゃあ怖い。そういうカミサマに限って感情的だったりするのよね」
 彼女たちの会話を聞きながら溜息をついたモノがいることにも気付かず、二人は楽しげに笑いを響かせる。そんな彼女たちに、叱責の言葉が飛んだ。
「こら、あんたたち。暇してるんなら守護神様を探すのを手伝って」
「はーい」
 未だくすくすと笑いながら、それでも素直に言われた通り彼女たちは動き出す。
 樹の枝に座り幹に背を預けて彼女らの様子を見ていた少年は、再び静かに溜息をついた。初夏を迎え、木々には葉が生い茂る。それは少年の姿を隠し、下からではそこに彼がいることになど気付かないだろう。
 青みのかかった銀灰色の髪が、風にさらりと揺れる。彼の着ている服はゆったりとしているにも関わらず重厚に出来ているのか、風にひらめくことはない。外見だけで判断するのなら、彼の年齢は十二、三。けれどそのダークブルーの瞳をすっと細めて下の様子を見つめる眼差しが、彼を大人びて見せている。
「君は僕を召喚し、僕は君を召喚しなければならない。
 この悪夢の連鎖は、終えることができるのだろうか」
 誰にともなく呟いて、彼は手中にある赤いノートの表紙をそっと撫でた。元は茶褐色であったように彼は思うのだが、今やそれを確かめる術はない。
 ノートを開くことはせずに、少年は頭上を見上げる。葉に隠された空はやはり、見えない。
 暫くそのまま空を見上げていたが、下が騒がしくなったために彼は視線を戻す。
「守護神様は本当にどこ?」
「あの方がいらっしゃらなければ、この国なんてひとたまりもないわ」
「お願い、私たちを見捨てないで」
「守護神様……っ」
 「悲痛」を装った彼女たちの叫びも、少年からすれば憂鬱になる材料にすぎない。
 確かに彼には「力」がある。だがそれを今の彼が彼らの為に行使したことはない。図らずも彼らを喜ばす結果を導き出してしてしまったことがあるのは、悔やんでも悔やみきれなかった。
 彼は再度溜息をつく。
 そろそろ引き上げようかと思っていたのだが、この騒ぎでは下にすら降りられない。けれど降りなければ騒ぎは大きくなる一方であろう。
 どうしたものか。
 宙をぼんやりと見つめたまま、こつこつとノートの表紙を軽く叩いていれば、ぐらりと視界が傾き――
「いた、い……?」
 ――気がつけば、樹の根本に転がっていた。
 衝撃に思わず「痛い」と口走ったものの、実際に痛みはない。それは地面が柔らかかったのか、それとも彼の感覚が鈍っているのか。恐らく、後者。
 平衡感覚も、痛覚すらも狂っている自分なんかが「守護神」であることが妙におかしく感じられ、彼と共に落ちてきた葉に半分埋もれたままけらけらと笑い出す。
 物音を聞きつけて集まってきた人々が怪訝な表情をするが、彼の知ったことではない。
 笑い疲れた彼は、寝転がったまま左手を頭上にかざす。半分透き通ったソレの向こうに、青々と茂った樹の葉が見えた。

「……だから、何回言ったら分かってくれる訳?」
 どうでもよさそうな少年の口調に、数人が顔を顰めた。それだって、彼が気にした様子はない。
 外はあんなにも暖かく、柔らかい日差しが降り注いでいたというのに、石造りのこの部屋は無駄に広く、寒々しい。
「大体カミサマなんてそんなに必要なの? どの国も武力以外のモノを武器にし始めてる今のご時世に、どうしてそこまでして戦力に拘るのかな」
 それは問いかけよりも独り言に近かった。
 誰も言い返せず、誰も言い返さない。彼がその気になれば、この国など簡単に消し飛ばされてしまうだろうから。
 ――とはいえ彼は守護神である。守護すべき国を破壊することなどしないだろうが。
「最早ここに留まるだけの力が残っていない。だから代替わりが必要。そこまではよろしい」
 先ほど手が透けて見えたのは、その身体の質量さえも存在するためのエネルギーとして使い始めているからに他ならない。
 少年と向かい合わせに席についた神官は、言葉を続けた。
「だからそこでどうして破壊神に代替わりするなどということになるんだ。召喚の儀では次の守護神を召喚すればいい」
 そうだそうだと頷く他の神官たちを前に、少年は分かっていないなと首を振る。
「僕の次は彼女。彼女の次は僕。こっちに召喚されるのは僕と彼女しかいないんだ。僕は僕を召喚できない。なら、僕が召喚できるのは彼女だけだ。
 それが嫌なら召喚の儀なんてやめようか」
 声を荒立てているわけでもないのに、淡々とした彼の言葉の効果は覿面で、その場にいた全員の顔から血の気が引いた。
「そんなに絶対的なチカラが必要? 僕にはそうは思えない。君たちは忘れてるみたいだけど、僕たちだってヒトだ。不老であっても不死ではないんだよ。だからこの召喚の連鎖が不慮の事故で途切れてしまう可能性だってある――それは、考慮に入ってる?」
「お前、言わせておけば……っ」
「よせ、やめろ」
 周囲の制止を聞かずに、一人の若い神官が少年に掴みかかるが、少年を掴んだはずの手は何の手応えもなくするりと抜ける。
「もう、時間がないみたいだね」
 少年が、他人事のように呟いた。


「今回はどうする? そろそろ、僕は限界なんだけど」
 先ほどより狭い、けれどやはり石造りで寒々しい部屋に閉じ込められた少年は、冷えた壁をに背を預け、宙に問いかける。
 「答」はどこからともなく返ってきた。否、声として返答が聞こえてきたわけではないが、彼女の意思ならばある程度は読み取れる。
『やるべきことは決まっているでしょう』
「あんなのの為にヒトとしての人生を捨てる? 冗談よしてよ」
 うわ言のように彼は返すが、彼女が本気で思っていること位分かっていた。いや、それは分かっていたからこその反応だ。
『あなたはそのまま消えるつもりなの? それこそ冗談じゃない』
「そうかな。永遠の不毛な連鎖は断ち切れるよ」
『私はあなたを失う気などない』
 彼女の言葉に、あぁと少年は瞳を閉じる。

 《ガランダル》と呼ばれる此の世界と、《ダンダルド》と呼ばれる彼の世界。
 これら二つの世界は、コインの裏表のように同時に存在し、そして決して交わることがない。唯一の例外が、彼と彼女だ。
 彼ら二人は《ダンダルド》にてヒトとしての生を受け、《ガランダル》に「神」として召喚される。彼が彼女を、彼女が彼を召喚するその連鎖は、今も、そして恐らく未来永劫に続くのだ。何らかの理由でそれが断ち切られない限り。
 そして、その断ち切る術を、彼らは知らない。
 永遠に続く連鎖に疲れきっている彼らに、《ガランダル》の小国に住む人々は「神」として存在することを強制する。
 違う世界で生まれたというだけの、ただのヒトに。

「でもだからって」
『私を召喚しなさい、クルト』
 ごねる少年クルトに、有無をも言わせない口調で彼女は告げる。
『あなたを先に逝かせはしない。だから』
 ――今は、召喚の儀を。
 きつい口調とは裏腹に、ただ彼を失うまいとする彼女の感情が、彼の裡に流れこむ。
「あぁ分かったよ、分かったから」
 根負けしたクルトが、ふらりと立ち上がる。
「本当にいいんだね」
 部屋の中心に立った彼は誰にともなく呟いて、赤いノートをそっと顔に近づける。そのノートからは、仄かに故郷《ダンダルド》の香りがした。

 モノには必ず、「有」と「無」の二つの状態が存在する。
 この世界に有るモノは、その状態が限りなく「有」に近いモノであり、彼の世界にあるモノの状態は、この世界では限りなく「無」に近い。
 けれど、状態がどちらか片方であることは決してなく、必ず両方の状態が交じり合っている。それは、重なり合った二つの世界が、完全に独立して存在し得ないからだ。
 だから、「無」の状態を持つモノも、その「有」の状態を感じとってこちら側に引き寄せてやればいい――他の世界に有る存在を感知し、引き寄せてその存在をこの世界に固定する、それが彼ら二人が使う召喚術のカラクリである。
 そしてこれができるのは、世界間を渡ったことのある彼らだけ。

 クルトはそのままの体勢で目を閉じる。
 少女の存在は、世界を越えて感知している。その彼女の存在をこの世界から感じられるようにすればいい。
 目を開いた彼は、宙に向かってにっこりと微笑んだ。
「来て。ティルラ」
 彼の声に応えるように、少女の姿が現れる。
 彼は彼女の手をそっと握る。
 彼女の瞳が彼の姿を捉え、微笑み――チカラが、暴走した。
 少女を中心として全てを切り裂くように、全てを吹き飛ばすように、石造りの室内を風が掻き乱し、吹き荒れる。
 このチカラの暴走は、世界間を移動したことによる一時的なものだ。
 けれど彼女にはその止め方が分からず、彼にはそれを止めるだけのチカラが残されていない。
 だからクルトはただ、全てを包み込むようにティルラを抱きしめ――

 とさり

 ――ノートの落ちる音を耳にした時、その場に残されていたのは少女一人だった。
「また、止められなかった」
 小さく呟いてティルラは力なくその場に座りこむと、石の床に落ちた赤いノートに手を伸ばす。それはまだ微かに暖かいような気がして、彼女は抱きしめた。
 石でできた床は、否応なく彼女の体温を、彼が残した温もりを、奪い去っていく。
 にわかに外が騒がしくなったのを感じて、彼女は溜息を一つつくと立ち上がった。
 今は演じなければならない。この国の切り札であり、この国の絶対的な存在である「神」を。「破壊神」である彼女には、人々に弱みを見せて付け込まれることなどあってはならない。
「守護神様っ」
 扉を勢い良く開けて入ってきた巫女は、部屋の中にいたのが少年ではなく少女であったことに驚いてたたらを踏む。
「神の座は継承された」
 冷たい表情で告げ、威圧するように彼女は一歩前に出る。
 ひっと裏返った悲鳴を上げて、巫女は逃げるように後退した。
「残念ね、心優しい守護神サマでなくて。彼は再びその力を取り戻すまで眠りにつく」
 また一歩。
 何事かと様子を見に来た別の巫女たちも、少女の姿を見て凍りつく。
「そして彼をこの地に再び召喚できるのは私だけ。だから今は――従いなさい」
「宴を……誰か宴の準備をっ」
 誰が最初だったか。その言葉をきっかけに、集まっていた彼らは散っていく。
 その場に誰もいなくなると、ティルラは目を閉じてノートに顔を埋めた。仄かに香る甘い香りに思い出されるのは、故郷に咲き乱れる白い花。彼は、無事に還れただろうか。
 目を開ければ、怯えた面持ちでティルラの様子を伺っている巫女がいる。目が合うと彼女はか細い声で「お部屋にご案内します」と告げる。
「えぇ、よろしく」
 巫女の後をついて歩きながら、ティルラは手中のノートをぎゅっと握り締める。
 烈火のごとく燃え盛る感情は、今は冷たい表情の下に隠しておかなければ。そして、いつか――



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