魔導士は科学を夢見る



「エベル君の調子はどうだね」
 突然声をかけられて、うつらうつらしていたユリの意識が浮上する。
 声をかけてきた魔導士を見上げうっすらと微笑むと、彼は手に持ったままだったペンを下ろした。
「彼、意識が戻らないんです。たまに微かに反応が返ってくることがあります。ですから、彼の意識はまだ、あると思うんですが……」
 何も出来ない現状に苛立ち、ユリはぎゅっと手を握り締める。爪の食い込む痛みだけが、彼に正気を保たせていた。
「君は彼の現状をどう見る?」
「彼は意識が入ってくると、そう言いました。恐らくそれは、魔法を行使しようとした彼に対抗しようとする自然の意識――あわよくば彼も他の『魔物』と同じように駒として使おうとしているのではなかろうかと。アロイスさんは、どう思われます?」
「私も同じ意見だ。ユリ君。覚悟はしておいてくれるね?」
 覚悟、と口の中で呟いたユリは黙り込む。
 頭で分かっていても、実際にその行動に踏み切れる自信はない。
「……それまでに、何らかの策を立てられるよう善処します」
「よろしい。実に君らしい答えだ。
 ところで、その花はどうしたんだね?」
 アロイスが指差すのは、ユリが森から持ち帰った木の枝だ。白い花は相変わらず咲き誇っている。
「香り、どう思われます?」
「香り? 香りなんてするのかね」
「……あなたにも、分からないんですね。僕にも分からないんです。けれどエベルは、甘ったるいと言っていました。ヴィルもジークも感じたらしい。
 ……でも、僕には分からないんです。もしかしたら、この香りが分かるか分からないかが、魔物化するかしないかの差なのかもしれないです」
 ふむ、とアロイスは何やら考え込む。
「それは面白い仮定だ。だが、そればかりは試してみろと流石の私でも言えないよ。エベル君のことについては、暫く様子を見よう。こんな事態は今回が初めてでね、私もどうするべきなのか分からない。それに、彼は今のところまだ問題を起こしていない。早急に手を打つ必要はないだろう」
「……はい」
 彼が魔物化する素振りを見せたら容赦はしないと言外に言われ、ユリは躊躇いながらも頷くしかなかった。
 エベルは確かに幼馴染で、彼の大切な友人だ。だが――それでもこの街の人々を守るために、自身の家族を守るために、それは仕方がないだろう。
 頭では分かっていても、感情は追いつかない。そんな事態になってしまえばユリは後々まで後悔する事になるのは、分かりきったことだった。
 だからこそ今は、アロイスに与えられた猶予内でなんとか対策を考えなければならない。
 ――とはいえ、いい案がすぐに思い浮かぶ訳もなく、過去に同じ事例があったという記録すら、ない。
 手詰まりだった。
 今は、エベルの状態が悪化しないことをただ願うしか、できなかった。
「ユリっ」
 血相を変えて勢い良く部屋に入ってきたのはヴィル。彼の焦りように大方の事情を読み取ったユリは、唇を噛み締めた。
「アロイスもここにいたのか。ユリ、エベルが……」
 言いづらそうに視線を彷徨わせるヴィルを制するように、ユリは立ち上がった。
「大体分かりました。今からそちらに向かいます」
「どうする? ユリ君」
「……結論は、もう少し待って下さい」
「少しは待とう。だが余り呑気なことも言っていられまい……まぁ、いい。今は様子を見ておいで」
 アロイスに「はい」と頷き返し、ユリはヴィルに続いて部屋を出た。

 エベルの部屋の前に立った青年は、走ってくるヴィルとユリの二人に気付き、顔を上げた。
「ジーク、様子はどうだ?」
「派手に暴れている……少しでも気を許したら、やられそうだ」
 ぽつりと呟いた彼の額には、汗が滲んでいる。とはいえやはり魔物化の影響なのか、ユリにはエベルが使っているであろう数々の魔法の気配はあまり感じられなかった。
「中に入れますか?」
「死ぬ気なら」
 あっさりと短く返されて、思わずユリは微笑んだ。ジークは元々口数が多くない。彼は彼なりにユリのことを心配しているのだ。
「死ぬ気はないですよ……固定化するのは僕の得意分野ですから」
 仕方ない、とでも言うかのように顔を顰めたまま半歩下がる。
 緊張した面持ちでユリは扉に手をかけ、一瞬だけ躊躇うと細く開いて中に滑り込んだ。
「エベル」
 声をかけるが反応はない。目だけを動かして部屋の中の様子を探れば、色々なものが散乱していた。そしてどれもこれも、切れ味のよい刃で切り裂かれたような断片と化していた。
「エベル、落ち着いて下さい」
 望洋としたエベルの視線が、ユリを捉えたと同時に。
「……!」
 見えない刃がユリの頬を掠めていく。
 咄嗟に避けたからかすり傷程度で済んだが、「エベル」は確実にユリを殺す気でいた。改めて突きつけられた「魔物化」という事実に、ユリは愕然となる。
「エベル……僕のこと、分かっていないんですか」
 無駄と分かっていながらも、彼はエベルに語りかける。返ってくるのはただ、全てを切り裂く刃のみ。
 一々避けてもいられない、とユリは風で防御壁を展開する。風属性の魔法はエベルの方が得意だ。だから本当なら使うべきではないのだろう。
 分かってはいるのだが、今はエベルと直で話したい。他の属性では駄目なのだ。
「……」
 ユリの魔法を感知したのか、エベルの瞳に意思が宿る。
 それは明らかなる殺意。
「ユリっ、何やってんだっ」
 来るであろう魔法に身構えた途端、ユリは扉の外に引きずり出された。
 扉をばたんとヴィルが閉じ、今度はジークとアロイスの二人がかりで部屋そのものに魔法をかけてしまう。
「お前な、自分が何やったか分かってるのか? いいか、ユリ。あいつはいつものあいつじゃない。甘く見てかかると本気で死ぬぞ、お前」
「……すみま、せん」
「ふむ。ユリ君を見ても無反応だったようだな」
「……はい。彼は、魔法にしか、反応しませんでした」
 どうにかなると、状況を甘く見すぎていた。
 どうかしてやれると、自身の力を過信していた。
 両方を潰されてさえ、まだどうにかしたいとユリは思っているけれど。
 ぺたりと床に座り込んだユリは、あははと笑いながら自分を囲むように立っている三人を見上げた。そんな彼が精神的に参っていることは、誰の目からも明らかだった。
「ユリ君。私が何を言いたいか、君には分かるね?」
「待てよアロイス、このままじゃ……っ」
 ――エベルとユリの二人を失う事になる。言いかけた言葉の余りの不吉さに、ヴィルは思わず言葉を飲み込んだ。
「やれと、言うんでしょう? あなたは……。
 確かに僕は彼の癖も強みも弱みも知っています。いくらエベルが『自然』に飲み込まれていようと、それで例え普段以上の力が出せようと――できない、なんてことはないと思いますし」
 力なくユリが微笑めば、がしりと肩を掴まれる。
「お前は……っ。今まで何の為に研究してきたんだよっ。友達一人助けられない研究だったら時間の無駄だ。さっさと辞めちまえっ。
 お前は、お前自身はそれでいいのかよ。そうやって友達を失って……それでいいのかよっ」
「ですけど……これ以上ご迷惑をおかけするわけには」
「一晩」
 ジークがぽつりといい、ユリが「え?」と聞き返す。
「一晩なら、保つ」
「それは私も総動員で、ということかね、ジーク君」
 アロイスの皮肉めいた口調に、彼はこくりと頷いた。アロイスと二人でなら、エベルが魔法を連発しても一晩は耐えられる、ということだろう。
 困ったものだ、とアロイスは言うが、彼は明らかに状況を楽しんでいる。どうやらアロイスも、力を貸してくれることに異存はないらしい。
「俺ももう少し防御系上手かったらなぁ。任せろって言ってやれるんだけど」
 ヴィルが悔しげに拳を握り締める。そんな彼の表情も、生き生きとしていた。
 そんな三人を見ていたユリは、ふらりと立ち上がる。そして、笑った。
「分かりました。一晩……一晩でなんとかします」

 ユリが戻ってくるのをエベルの部屋の前で待つ三人の間には、誰もが口を開こうとしない為に重苦しい沈黙が漂っていた。
「アロイス……」
「君はこんなところで何をやっているんだね」
「いたらまずいのかよ」
 ヴィルが声をかければ、そんな憎まれ口が返ってくる。炎に精通しているヴィルがこの場にいても何も手出しできないことは、確かだった。
「アロイス、頼むからあいつにアレをヤれ、なんて言わないでくれよ」
「それは君が代わりにやるという話かね? 君では荷が重いだろう。アレの隙をつくのは複数の元素に精通しているユリ君だからこそできることだ」
「……」
 何故この人は、できるできない、やれるやれない、の二択しかできないのか。
「頼むから……! 頼むから、あいつのこと信じてやれよ。これ以上あいつを追い詰めるなよ……」
「まあそれは、」
 廊下を走ってくる足音が聞こえ、アロイスは顔をあげた。
「彼次第なんだけれどね」
 走ってきた当の本人であるユリは数メートル手前で減速し、息を整えながら歩いてくる。
 アロイス、ヴィル、ジークが黙って見守る中、彼はゆっくりと口を開いた。
「通して下さい。やります」
「本気なのか?」
 冷静なように見えるユリの前で、逆に焦って口をぱくぱくさせているヴィルを横目に、ジークが訊ねる。
 何を問われているのか即座に理解できなかったユリは首を傾げ、あぁ、と微笑んだ。その笑みは柔らかで、少なくとも彼は、思いつめていない。
「多分、皆さんが思ってある『やる』とは違うと思います。確実かと言われれば、全く確証はないんですが……それでも、諦めてしまう前に一つだけ試させてほしい。
 ……そのくらい、猶予はありますよね?」
 ユリがアロイスの方を見れば、彼は肩を竦めただけだった。好きにすればいい、ということらしい。
「ぐ、具体的には何をするんだ」
 ようやく落ち着いてきたらしいヴィルが口を挟む。ユリがやろうとしていることによっては、彼が力強く阻むつもりであるのは、その表情から明らかだ。
「あはは、安心して下さい。あまり無茶なことをするつもりはありませんから。
 ただ、意識を叩き込めばいいのかもしれないと思い至ったので……」
「意識を、叩き込む?」
 言葉を反復して問い返してきたジークに、ユリははい、と頷く。
「エベルは自分の中に意識が入ってくる、と言っていました。もしそれが本当ならば、恐らく入り込んだのは『自然』の意識。ソレに身体を乗っ取られることで魔物化しているのであれば……ソレに対抗できるだけの意識を叩き込んでやればいい……違いますか?」
 ユリは同意を求めるが、それが正しいか正しくないかなど、「魔法」の仕組みすらはっきりと分かっていないというのに判断できるはずもない。
「……試せば、いいんじゃねぇ? 可能性はあるんだろ、それに賭けない手はない。サポートしようか?」
「いえ、いいです」
 笑ってユリはエベルの部屋にするりと入る。
 エベルはやはり、意思のない虚ろな視線で宙を見つめていた。そんな彼がユリの存在に反応する前に、彼はつかつかとエベルの目の前にやってくる。
 魔法の構成も、呪文もあったものではない。
 ただ、ユリは目の前にいるエベルを見据え、
「エベル。これが僕の知っている『あなた』の全てです」
 ユリの持つエベルとの記憶。
 ユリの持つエベルのイメージ。
 それら全てを、叩きつけた。

 



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