A Lullaby



「姫様! 今日から側仕えをさせていただくエーファです、よろしくお願いします」
 きらきらとした表情でぺこりと頭を下げる少女。彼女を紹介されたのは、戦争が始まったと告げられてから数日後のことだった。
 姫様と呼ばれたのはティルラ。彼女は王家の人間などではなく、「姫」と呼ばれる理由はどこにも見当たらない。だが、わざわざ否定するのも面倒で、彼女はただ「あぁそう」と素っ気なく返す。
 けれどもティルラの態度がエーファの気を害した様子は全くない。彼女は変わらない明るい笑顔で、はきはきとこう言うのだった。
「なにか必要なものがあったら、何でも言ってくださいね!」
 その態度に、寒気がした。
「……どうして」
 小さく口の中で呟けば、なにか仰りましたかと少女は首をかしげる。その仕草は小動物を連想させ、非常に愛らしい。だというのに、否、だからこそティルラは苛立っているのだ。
「どうして、そんなに嬉しそうなの」
 嬉しそうに明るく笑うエーファが、ティルラには理解できない。
 今までにも側仕えしてくれていた少女たちはいたが、びくびくとティルラの顔色を伺うばかりだったり、ティルラと最低限の接点しか持とうとしなかったりと、どの子も一様に「破壊神」であるティルラを恐れた。
 だから、こんなにも笑顔で接してくるエーファに、ティルラは違和感を覚え、微かながら恐怖すらも感じるのだ。
「姫様が噂通り綺麗な人で私は嬉しいんです!」
 屈託なく無邪気に言い切られ、逆にティルラが絶句する。
 「噂」で綺麗と言われるのは嫌味や皮肉でしかないだろうに、恐らくそれを疑うことすらこのエーファはしなかったのだろう。
「……ありがとう」
 何故その言葉が出たのか、ティルラにも分からない。だが言わなければならないような気がしたのだ。エーファは何を感謝されたのか分からずに、ただ首を傾げる。
 ティルラは感情を映すことのない瞳でエーファを見つめた。こんな純粋な子を、穢してしまうのだろうか、と。



 戦争の理由は領地争いか覇権争いか。説明された気もするが、興味のないティルラは聞いていなかった。どちらにせよ、ティルラに関係があるのは「戦争が行われている」という事実のみ。
 そして聞こえてくる戦況はおもわしくない。そのことが指し示す事実はただ一つ。
「姫様……」
 普段ならば元気よく声をかけて入ってくるエーファが、今日は大人しい。彼女の手の内には白い封筒がある。答えは、明白だろう。
「その手紙は、私宛かしら」
 青ざめた表情でその場に立ちつくすエーファにティルラが声をかければ、はっとしたように彼女はその手紙を差し出した。差出人すらも書かれていない真っ白な封筒を、ティルラは開けることすらせずに卓の上に置く。
「読まないの?」
 震える声で問われ、ティルラはただ肩を竦めた。
「中を見なくても見当はつくわ。どうせ、召喚状でしょう?」
 ティルラの感情のない声に、エーファは無言で頷いた。

 この国に祀られているのは守護神と破壊神、二柱の神。
 二柱は有事の際、この国の盾となり剣となる。
 ティルラは剣。だから赴かねばならない、戦場へと。

「あなたは来なくてもいいわよ」
 淡々とティルラが告げれば泣きそうだったエーファは一瞬唖然とし、そしてその表情に怒りの色を滲ませる。その感情変化が理解できずに、ティルラは小首を傾げた。
「それは、ついてくるなという命令ですか?」
「いいえ、残ることに対する許可よ」
「なら、私がついていくことに対しての許可をください」
 思わずティルラはエーファの顔を見返した。
 彼女はてっきり戦地に赴くことになってしまった自身の身の上を憂いているのかと思ったが、どうやらそれは違ったらしい。
 それならば、彼女は一体何を。
「……ごめんなさい」
 ティルラの無感情な表情に何を思ったのか、エーファがぽつりと謝った。
「あなたは何を謝るの」
「だって私も、姫様を祀り上げてる人間の一人なんです。私たちが姫様を『神』だなんて呼んでなければ、姫様は戦争になんて行かなくてよかったんですよ」
 今にも泣き出しそうな笑顔を向けてくる彼女。普段ならばその表情はティルラを苛立たせるだけだというのに、今日は何故かかわいそうだと思った。
 暫し沈黙し、それは彼女だってこの国の歪んだ伝統から逃れられずにいる一人であることを知ったからだと、ティルラは結論づける。
「ありがとう、エーファ。……私と共に、来てくれる?」
「! はい、ティルラ様!」
 エーファの顔を真正面から見据えて問えば、ぱっとその顔を輝かせて彼女は即答する。そんな彼女が、眩しい。



 日に日に衰えていく力。
 一向に改善しない戦況。
「役に立たない破壊神など……」
「いや、守護神を召喚してもらわねば困る」
「いつまでのさばっているつもりだ、あれは」
「だから破壊神はいらないと」
 気を許せば耳に飛び込んでくるのは、人々の囁き声。ティルラは聞いていないだろうと高をくくっているのか、その声は少しずつ高まっていく。
 相手にするのもわずらわしく、ティルラは素通りする。悔しさに唇を噛みなからも、エーファはティルラに倣った。
「ティルラ様、どうぞご無事で」
 馬に跨ったティルラに赤いノートを手渡しながら、エーファは不安気に見上げてくる。それは、この国の国民ですらもティルラに牙を向くかも知れないこの状況を心配しての言葉だった。
「私は帰ってくる。いいわね」
「はい。お待ちしてます」
 ティルラがエーファにそう告げたのは、ただの気休めだった。無事に帰れる自信は、ティルラにもない。
 それでも約束した以上、彼女の元へ帰らねばならないだろう――戦場へと馬を飛ばしながら、ティルラは思う。
 ティルラ――「破壊神」が馬を止めたのを見て、「味方」の兵は何を言われずとも退いていく。彼らはティルラから自身の身を守るように、訓練されているのだ。
 そう。ティルラの「神術」は、敵味方の区別をしない。だから兵は彼女の姿を見るなり「逃げ帰る」のが常であり、そしてそれを敵兵が追うのもまた。
 戦場に似合わない優雅な手つきでノートを顔に近づければ、ふわりと漂うのは故郷の香り。
 懐かしさに浸れば、彼女は「故郷」を感じとる。躊躇うことなくティルラはそれを「引き寄せた」。
 故郷の風はいつでもティルラに優しく従順だ。その関係は、世界を越えた今も変わらない。ティルラはただ、昔のように柔らかく包み込まれるのを感じて目を閉じる。
 「風」の気配が消えた時、ティルラの周囲には誰もいなかった。けれど――無人になる範囲は日に日に狭まっていく。
 一層強くなった鉄の匂いに、血塗られたように真っ赤に染まったノートをティルラはぎゅっと抱きしめた。何度も何度もその表紙をなぞる指はまるで、神に祈るようで。けれど彼女の表情は固く、ぴくりとも動かない。
 紅に染まった原を駆け抜ける風が、彼女の髪をふわりと揺らした。
 そして彼女は気付く。自分の指先が、ノートの表紙に刻まれた模様を感じ取っていないことに。
『ティルラ、そろそろ限界じゃないのかい』
「……っ」
 不意に届いた少年の声に、ティルラは俯いた。
 もっと聞いていたい、けれど今は聞きたくない声。
『僕に代わって、ティルラ』
「まだよ、まだやれるわ」
 彼女は小さく呟くと、きっと前方を睨みつける。吹き荒れた風に、野が更に紅く染まって――



 戦場から帰ったティルラは与えられた天幕で薄く白い衣に着替えると、肌寒さにその膝を抱えた。
 徐々に弱まっていく己の「チカラ」。
 同時に薄らいでいくのは自身の存在。
 「彼」の言う通り限界が近いことは、彼女自身にも分かっていた。
 「彼」に助けを求めれば、彼女は救われるだろう。けれどそれは再び「繰り返す」ことをも意味し、ティルラには選ぶ決心がつかない。しかしこのままでは彼女の存在が消えてしまうだろう。それが上手く「終焉」をもたらしてくれればいいのだが、賭けてみる勇気もない。
 どうすればいいのかと、彼女は自分に問いかける。当然、結論が出るはずもなくて。
 ――助けて。
 声にならない叫びに、ティルラは赤いノートを抱きしめた。
「失礼します、ティルラ様!」
 外から元気よく声をかけられて、反射的に彼女は立ち上がる。その時、ノートがするりと彼女の手を「すり抜けた」。
 天幕に入ってきたエーファは、落としたノートを拾いもせず立っているティルラににこりと笑いかけると、彼女の様子を気にした風でもなく食事の準備を始める。
 盆に載せて運んできた食器を全て並べ終えると、「どうぞ」とティルラを促した。
 ティルラは素直に頷いて卓につく。器を手に取ろうとして、その手をぴたりと止めた。
 今器を持ったら落としてしまうのではないか。折角用意してくれた食事を無駄にしてしまうのではないか。そんな思いが渦巻いては食べる気にもなれず、彼女は無言で手を引っ込める。
「ティルラ様? 嫌いなものでもありました?」
「ないわ。けど」
 真っ直ぐに向けられたエーファの視線から逃げるように、ティルラは顔を伏せる。小刻みに振るえているのはこの大地か、この身体か。
 何を思ったのか、すっと近寄ってきたエーファがティルラの手を取る。すり抜けない。まだ。
「ティルラ様、無理はしないでくださいね?」
 恐らく温かいのであろう彼女の体温――最早感じられもしない自分が悔しくて、エーファに分からないようにそっと、ティルラは唇を噛み締めた。
「逃げちゃいます? ここから」
 唐突に軽い口調で告げられた言葉に、思わずティルラは目を点にする。
 逃げるなど考えてもみなかったが、神殿の奥に「幽閉」されていた時と違い、兵すら配属されていない天幕にいる今ならばやれる。
「私は、逃げていいの?」
「私はいいと思いますよ。逃げたらどうします? ティルラ様は、帰りたいですか?」
 彼女の質問に、ティルラは「いいえ」と迷いなく答える。彼の地に思い入れのあるものなど、ティルラにはない。
「ならば、クルト様にお会いしたいんですか?」
「別に」
 彼のことだって、ティルラにはどうでもいい。
 けれど彼女は彼に会わなければならない。歪ませてしまったこの世界を正すのに、彼女もしくは彼一人では力量不足であるからだ。
「えっと……とにかく、終わらせたいんですよね? ティルラ様にも、クルト様にも、やらなければならないことがあるんですよね?」
「えぇ、そうね」
 その為には帰らねばならない。元居た場所に。
「なら、こんなところで諦めちゃ駄目です。このまま消滅してちゃ駄目ですよ。それとも、クルト様に全てを任せるんですか?」
 限界が近付いていることは隠していたはずだというのに、エーファにはお見通しだったらしい。その事実に、ティルラは苦笑せざるをえない。
「……そうね。今まで、ありがとう」
 エーファに後押しされて決断したティルラは笑う。久しぶりに、晴れやかな気持ちになれた。



 晴れ渡った空の下で、少女は一点の曇りもない笑顔を輝かせてみせる。
『僕ならいつでも大丈夫だよ、ティルラ』
 「彼」の言葉に決心がついたのか、少女はノートから漂う香りに集中し、その感覚を研ぎ澄ます。
 甘い香り。思い浮かぶのは、白い花の咲き乱れる樹の下に佇んでいる、「あの時」と変わらない少年の姿。
「クルト」
 少女の存在に気付いたかのように振り返る少年の名を、彼女は呼ぶ。
 少年が此の地《ガランダル》にあるのか。少女が彼の地《ダンダルド》にあるのか。そんなことは今の二人には関係ない。ただ、呼応するかのように伸ばされたその手を、彼女は握る。
 甘い香りが一段と濃くなり――大地が、隆起した。
「お休み、ティルラ」
 微笑んだ少年の瞳には、怒りの色がある。
 彼は、自分の為に怒ってくれているのだろうか。少年の姿を認めるなり、彼に抱きとめられた少女の身体からは力が抜け――
「さて、お礼参りと行こうか?」



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