A Lonely Night
姫様を見送った後、私はどうにも寒くて寒くって、天幕の中で一人かたかたと震えていました。
姫様はご無事でしょうか。ご無事だと信じたいです。けれど、なぜ涙が溢れてくるのでしょうか? 止まらないのでしょうか?
私は信じています。姫様のこと。ならば、なぜ身体の震えが治まらないのでしょうか?
あぁ、そう。私は見てしまったんです。あの赤いノートがするりと、そこに姫様の手なんてなかったかのように本当にするりと、床に落ちたのを。
姫様は、ティルラ様は。もう、長くありません。
私はあまりの寒さに、膝を抱きかかえました。それでも、底から冷えてくるような寒さは治まりません。
私は、悔しいのです。あの優しかった姫様を「破壊神」と呼び、蔑み、そしてこき使った私たち国民のことを。もし姫様が亡くなられることがあるのならば、姫様にはこの国を巻き添えにする権利があるんじゃないでしょうか。そんなことを、本気で考えるほど。
どのくらい、かたかたと震えていたでしょうか。
気付けば、馬の嘶きが聞こえていました。
気付けば、人の悲鳴も聞こえていました。
気付けば、蹄が地面を蹴る音がしています。
気付けばすごく騒がしくて、まるで人々が火事から逃げて行くような、そんな印象を受けました。
凍えた足でふらりと立ち上がれば、天幕の出入り口に垂らされた布が跳ね上げられました。
「エーファ……! お前、やっぱりまだここにいたのか!」
「どう、したの?」
来てくれたのは、前線で戦っているはずの兄でした。
その事実に、目元が熱くなりました。
戦っているはずの兄がこの陣地にいること。限られた人しか来ない「破壊神」の天幕に彼が訪れたこと。そして、「彼女」が未だ帰らないこと。
「なんでもいい、逃げるぞ!」
「いや! 私は、姫様を、ティルラ様を待つんだから!」
ぐい、と力強く左腕を握られて引っぱられましたが、私はあらん限りの力を振り絞って抵抗しました。
ティルラ様の帰る場所は、私の所です。ティルラ様は、帰ってくると約束してくださったんです。私が待たずに、誰が待つというのでしょう?
「その『ティルラ様』は帰らんっ! あれはこの国を棄てたんだからな!」
「棄てた……?」
兄の言葉に、私はぽかんと口を開けるしかありませんでした。
棄てた、とはどういう意味でしょうか。姫様は、ご自分の世界にちゃんと帰られたのでしょうか? この国を棄て、敵国に寝返ってしまったのでしょうか? それとも、やはりそのまま消えられてしまったのでしょうか?
「いいか、お前が何を思ってるかは知らんが、あいつはやっぱり破壊神だったんだよっ。敵味方関係なく大量虐殺した挙げ句に喚び出したのが死神だ、とんだ疫病神だな、お前が崇めてたのはよっ!」
兄は、吐き捨てるように言いました。
私は、理解が追いつきません。ティルラ様が呼び出されるとしたら守護神様、その人に違いありません。けれど、何故兄は「死神」と呼ぶのでしょう?
「あいつはすぐここまで来る。お前はどうするんだ、逃げるのか? 逃げないのか? 敬愛する疫病神様をお待ちしてここで一生を遂げますってか? 馬鹿馬鹿しいっ」
「私はティルラ様をお待ちします。帰ってこられると、約束されて行かれましたから」
見捨てたように私を突き放し、兄は足音も荒く去って行きました。
残された私はまた一人、姫様の天幕でかたかたとふるえていました。
しばらくすると、何も聞こえなくなりました。
人の悲鳴も馬の足音も、本当に何も。ティルラ様が戦場に立たれていた時にはいつも聞こえていたあの風の音すらもしないのです。
私の他には誰もいないのかと思うと、私は今までとは違う意味で怖くなりました。ぎゅっと膝を抱きしめていた手は冷たく強ばり、足は冷えきって感覚もありません。
そんな時、子供の軽い足音が聞こえて来たのです。それは、ティルラ様と同じくらい軽やかで、いえ、姫様の足音よりももっと軽やかでした。
「誰かいそうだね。入っても良いかな」
「は、はい、どうぞ!」
天幕の外から聞こえて来たのは、幼い男の子の声でした。けれどただ幼いのではなく、ティルラ様と同じくその声には年長者のおだやかさがありました。
その声に。幕を上げて入って来た男の子の表情に。私は確信したのです。彼が、姫様が待ってあった「守護神」であるのだと。
さらりと揺れた銀灰色の髪の合間から、ダークブルーの瞳がにこりと微笑みかけてきました。
穏やかな瞳であるにも関わらず、心の奥底まで見すかされているような気がして、私は思わず視線を泳がせました。でも、彼に聞きたいことは山ほどあるはずなんです。ティルラ様がどうされたのか、とか。
「あ」
視線を落としたら、見覚えのある赤い表紙が目に入りました。
細かい模様が入れられた、なめらかな皮の表紙。彼がそのノートを少し動かせば、ふんわりと甘い香りが漂いました。それは、まだ数時間しか経っていないけれど懐かしい、姫様の香りです。
その優しい香りに、ふと頬がゆるみました。
子供らしい小さな手が、そっと表紙をなでました。
「僕がここに来たから分かってると思うけど、ティルラはもういない。だから、君の任は解かれた」
「はい」
予想していたことだったからなのでしょうか。私は「守護神様」の言葉にあっさりと頷いていました。
「君はさ、あの子の良い友であってくれたよ。ありがとう」
「分かるんだ……」
思わずぽつりと呟けば、「守護神様」は私にあの赤いノートを持たせました。
「開いてご覧。最後の方」
最初の方は駄目だよ、と念を押されながらそっと開けば、出会った当初の冷たい態度だったティルラ様の姿が、浮かび上がりました。
毎日話しているうちに、表情が柔らかくなって行くティルラ様が、そこにはいらしました。
陰口に唇を噛み締めながら、ただ私との約束を思って戦場を駆け抜けるティルラ様を見た時には、目元が熱くなりました。
国のためなんかではなく、私のために、ちっぽけな私の幸せと、私との約束を守るために、あの方は毎日戦われていたことを、私は初めて知りました。
こんな思いをさせるくらいだったら、私は、私は……!
「君のお陰で、あの子は幸せだったんだよ。君があの子と過ごす日々を楽しんでいたように、あの子もあの子なりに楽しんでいたんだよ。それを忘れて、あの子と過ごした日々の全てを否定しないで欲しい」
手元が軽くなったことに気付けば、「守護神様」が私の手から抜き取ったノートを片手に、そんなことを言われました。
「あんな性格の子だ。不器用だからいつも人と衝突ばかりして、人生を楽しめたことなんてほとんどない。……あぁ、もし心配してくれているのなら、あの子は無事に還ったよ。あっちに」
「良かったぁ……」
その言葉にほっとして、ようやく笑えました。
姫様が帰られたのならば、もう心配することなんてありません。
そんな私を見て、「守護神様」はあきれたような顔をされました。
「君はさ、他に思うことはないの? こっち陣営、今いるの君だけなんだけど、その理由が知りたいとか……まさか、君一人しか残ってないってことも知らないとか?」
「え?」
私が一人きりだったなんて、全く知りませんでした。そんなこと、思いもしませんでした。
「そういえば、さっきすごく騒がしかったんですよ」
「皆逃げてたからだよ。誰でもない、僕からね」
「どうして? 『守護神様』なのに?」
赤いノートをなでていた手が、ぴたりと止まりました。
「……あの子と共にあったのならば分かっているだろう。僕らは『破壊神』でも『守護神』でもない。ただのヒトなんだ」
「はい、それは分かってます。だけど、皆は『守護神』様は守護神様だって信じてる。なのに逃げたの?」
「守護神様」は宙をみやり、静かに話し始めました。その顔には、なんの感情もないように見えました。
「君は本当に純粋だね。『守護神』だから信じている人なんて、ほとんどいないだろうに。彼らは、誰か守ってくれる存在があればいいんだ。それが『守護神』か『破壊神』か、なんて、どうでもいいんだよ。
僕はさ、ただ面倒だった。『守護神』という立場上、祈祷師だとか呪術師だとかっていう情報が流れてくるから丁度よかったし、僕自身はカミから情報を得ていたしね。ずっと黙ってたけどさ、さすがに勝手過ぎるよ。ヒトは。耐えられなかったのは彼女じゃなくて僕の方。だから僕は滅ぼした。両方とも」
そう零した『守護神様』の目に何が映っているのか、私には分かりませんでした。
誰一人としていなくなってしまった陣営を、私たちも立ち去ることにしました。「守護神様」がどこに行かれるのかは知らないけれど、私が行く場所はもう決まっています。
「行く宛てがないのなら、僕についてくるかい?」
「いいえ。私はティルラ様の付き人ですので」
「そうか。じゃあ、元気で」
私は、ティルラ様の甘い香りを探します。姫様が「故郷の香り」と言われたあの香り。白い花をつける木の香りだそうです。
「あの、お名前をお訊きしても?」
最後にお名前をお訊きしたら、「守護神様」は不思議そうな顔をされました。けれど、嬉しいことに答えてくださりました。
「クルト」
「クルト様もお元気で。お二人の悲願、叶うと良いですね」
私の言葉に、クルト様がくすっと笑われました。初めて見せてくださる、心からの笑顔です。
「ありがとう。君にも、幸あらんことを」
そしてまた、私は一人になりました。さびしがっている暇なんてありません。私はまた、姫様のそばに行くんですから。
The Legend
月影草