An Interval



「もう崩壊は始まっているんだよ。
 君たちに選べるのは――そのスピードだけだ」

 彼はそう、にっこりと笑って――



 あの、ダークブルーの瞳が怖い。
 怖くて怖くて、たまらない。
 ――でも誰も、理解してくれない。

 扉の前で数秒躊躇ってから、思いきって重厚なドアをノックする。その音は微かで、中まで聞こえなかったんじゃないだろうか。それでももう一度ノックすることは更に躊躇われ、そのまま用件を告げた。
「……失礼します。朝食をお持ちしました」
 中からの返事を確認してから、私は扉をゆっくりと押し開ける。
 ガラスのはめ込まれた窓のところに座っていた彼は、私を見るなりにっこりと笑う。同僚の中には、この笑顔がかわいらしいと言う子もいるけれど、……いや、止めておこう。
「どうぞ、入って」
 思わず入り口の所で立ちすくめば彼に促され、私は恐る恐る足を踏み入れる。入る度に豪華な部屋だと圧倒されるけれど、同時に寂しい部屋だと思うのもまた事実。
 広すぎる部屋には人の温もりがない。はめ込まれた窓は開け放つことができず、風も通らない。昼間は日光が辛うじて差し込むけれど、それもすぐに陰ってしまうのだ。そしてなにより、彼にはこの部屋から自由に外に出る権利が、ない。
 部屋に来る度に彼が観察してくるように思うのは、人と触れ合う機会が全くないからなのかも知れない。とはいえ、誰かに注目されているのはなんだか居心地が悪く、とにかく彼を見ないようにしながら、無駄に大きいテーブルの上に朝食を並べる。
 意識しないようにしてはいても、自分をじっと見つめているらしい視線に気付いてしまえば、頬が紅潮するのは一瞬だった。
「では私はこれで……」
「待ってよ。それとも、急がないといけない用事でもあるのかな」
 早々と退出しようとしたら呼び止められて、いえ、と私は口ごもる。実際に用事はないし、それに――彼の指示は「絶対」だから。
「じゃあ、少しだけ付き合ってくれないかな」
 その言葉を拒否するなんてことはできずに、私は俯いたまま頷いた。

 顔を伏せたままテーブルにつき、ふと視線を上げれば、抜群のタイミングで彼がにっこりと微笑んだ。そんな彼から逃げるように、つっと私は視線を逸らす。
 全てを見透かされているようで怖い。自分なんかよりも幾分も幼い容姿をしていると言うのに、いやだからこそ、この国の運命までをも知っているようで、恐ろしい。
 彼は一体今まで、何を見て、何を体験してきたのだろう。そして何を知っているのだろう?
 と、彼の背後にあるベッドの上に、無造作に置かれた赤いノートが目に入った。
 遠目から見たことがあるあれは、確か彼が肌身離さず持ち歩いているもの。そんなに、大切なものなのだろうか?
「興味、あるのかな?」
 私の視線を追って背後に目をやった彼は立ち上がる。
 どうするのかと思いきや、彼はそのノートを手に取り、ほらっと軽く放って寄越した。私は慌てて受け止める。そんな乱雑さは、とても大事なものを扱っているようには見えない。
 受けとったもののどうしていいのか分からずに、ただ彼を上目遣いに見上げた。
 なめらかな皮の表紙。暗い赤色の、落ち着いた風合い。入れられた模様は細かく繊細で美しく、けれどそれは同時に禍々しくもある。
 そしてそこからふんわりと香るのは甘い香り。あぁ確か、初夏に柔らかな日光を浴びながら真っ白な花をつける――あの樹木はなんという名だっただろう。
「僕から彼女に、彼女から僕に、延々と受け継がれているものだよ。僕と彼女を、そして僕らを、彼の世界に繋ぐものだ」
 彼女とは恐らく、もう一人の神のこと。彼と彼女の二人――二柱は交互にこの国を統べている。「神」とは呼ばれていても、二人ともほぼヒトと変わりがない。差といえば、彼らが使う「召喚術」くらいなものだろう。
 いつから、どうしてこの国を統べ、「神」なんて呼ばれるようになったのか、知っているのは彼と彼女だけではないのだろうか。
「開いてみてごらん」
 彼がノートのことを言っているのだと理解するのに、たっぷりと十数秒を要した。驚きに目を瞬かせ、それを私は持ち直す。
「……いいんですか?」
 彼らの秘密を覗き見てしまうようなそんな罪悪感に、彼に問い返した。が、彼は当然というようにあっさりと頷いた。
「ならば、言い方を変えようか。開いてみなさい」
 それは、命令。私などが彼に逆らえるはずもなく、ためらいながらも震える手で、そっとその表紙を開いた。びっしりと刻まれた文字は、少なくともこの国の言葉ではなく――
「!?」
 文字を追うよりも先に、まるで脳に叩き込まれているかのように、鮮やかにイメージが流れこむ。
 赤。赤。赤。
 私は思わず目を閉じ、左手で口を覆う。そんなことをしても、この映像の奔流は止められないというのに。
 視界を染め上げる赤い色に、感じとってしまった鉄の匂いに、とにかく混乱して。
 ふと、ノートを持っていた右手から、その重さが消える。同時にその赤のイメージも、止まった。
 恐る恐る目を開けば、ノートは閉じられて彼の手中にあり、ダークブルーの瞳が私の顔を、覗きこんでいた。
「律儀に一ページ目から開いたのは君が初めてだよ。すまないね、最初の方は戦争のことばっかりなんだよ、これ」
 彼が軽く掲げてみせるその赤いノートは、最早禍々しいもののようにしか見えない。
 でも、どうしてそんなものを、彼らは大事そうに引継ぎ続けているのか。……いや、それはなんだか分かったような気がする。
「……それに刻まれているのは、あなた方がご覧になった歴史そのもの、ですか?」
 かすれた声で問いかければ、にっこりとした笑顔で彼は頷いた。
 怖かった。真っ赤に染まった大地が。
 怖かった。あちこちで上がる炎が。それを煽るように吹き荒れる風が。
 怖かった。けれどそれは、その光景を垣間見ただけの私なんかよりも、そこに突然現れてしまった彼の方が、もっと。
 何らかの原因でこちらの世界に飛ばされた彼が現れたのが、あの戦場だったのだろう。召喚術を使える彼を、軍が見逃すわけがない。そして彼は。
 何と言っていいのか分からなくて、私はただ、口を閉ざす。
「同情ならばいらないよ。僕たちが欲しいのは、解決策だけだから」
 あぁ、なんて。
 名ばかりの「神」を演じ続けることは、さぞかし滑稽だろう。けれど彼らにはこの茶番を続ける以外の選択肢がないのだ。
 それは恐らく、この理不尽な連鎖を終わらせること以外の何かを、彼らが望んでいるから。
「あちらの世界に、『召喚』されることはできないのですか?」
「できたらもうやっているよ」
 どこかどうでもよさそうな口調でそう告げて、彼は椅子に腰掛け足を前に投げ出す。そして銀灰色の前髪をさらりとかきあげた。そんな一つ一つの動作も、様になる。
「召喚術というものは、世界を渡って初めて使えるようになる術なんだ。だから、一度召喚されなければ使えない」
 そういうものなんだよと笑う彼の表情に、自嘲の色が混じる。
 そこで私は理解した。こうなってしまったことには彼にも責任があって、彼は自分自身をも責め続けているのだと。
 彼は、「永い」時を与えられた訳だけれども、同時に将来を奪われた。これ以上成長することも老いることもなく、ただ「神」としてこの地に縛り付けられているのだから。
 そこに一縷の望みがあるかどうかさえも分からない。もしかすると、絶望ばかりなのかもしれない。
 そんな彼らを「神」だなんて祭り上げて、私たちは何がやりたいのだろうか? 彼らはどうしたら、「神」の座から自由になれるのだろうか?
「君はさ、興味あるのかな」
 改めて問いかけられてはっとする。もしや踏み込んではいけなかったのではないだろうか。そう思うと、顔から血の気が一気に引いたのが自分でも分かった。
「とんだご無礼を……!」
「いや、構わないよ。誰も興味を持ってくれない、というのも寂しいものがあるしね」
 にっこりと笑った彼は、テーブルの上に頬杖をついた。それも、面白いものを見つけた、と言わんばかりの表情で。
「聞いていくかい? 詰まらない話かも知れないし、君が予想していたものとは全く違うかもしれない。途中で耳を塞ぎたくなるほどにえげつない話かも知れない。
 その辺りの責任はとらないよ」
 反射的に頷きかけたけれど、なんとか思いとどまった。
 神殿で伝えられているのとは違う展開が待っているのだろう。あえて神殿が語り継がなかった物語を、自分なんかが聞いてしまってもいいのだろうか。
 伏せていた視線をちょっと上げてみれば、彼は無言でこちらを見つめていた。
「……その前に、お一つ。伺っても構いませんか?」
「いいよ。僕に答えられることならば、ね」
 すぅっと深く息を吐いて、早鐘を打つ心臓を無理やり落ち着ける。そして、私は再び口を開く。
「この国のことを、今まで長い歴史を見てきたあなたはどう思われますか?」
 彼は私の質問に少し驚いたような顔をしたが、にやりと不敵な笑みを浮かべると、こんなにも近くにいる私にすら届くか届かないかといったささやき声でこう、答えた。
「もう崩壊は始まっているんだよ。
 君たちに選べるのは――そのスピードだけだ」
 その笑顔はどこまでも冷たい。「神」としての振る舞いを余儀なくされた永い時の中で感情を失っていったのだろうかと思うと、ずきりと胸が痛む。
 心の底から、笑って欲しい。
 けれど彼をそんな笑顔にさせるのは恐らく、まみえることのない「彼女」だけだ。
「まさかそんな質問が来るとは思わなかったよ。君さ、もしかして周りの子たちと上手くいってないんじゃないのかい?
 この国は本当に保守的だね。それがいいのか悪いのか、それは僕には判断しかねるよ。ただひとつ残念なことは、国を変えようとする『意志』が存在しないこと。誰もがこの国の現状に甘んじていて、これからも変わらずにあれると思っているんだ」
 さて、と彼に答えを促され、私は頷いた。
「……お願いします」



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月影草