イスラスールの青い鳥・上




「イスラスール……Isla Azul……」
 さんさんと降り注ぐ太陽の光に、僅かに顔をしかめながら隣に座っている金髪の少年が、小さく呟く。
「イスラスールの青は、海の青?」
 彼、クラウスの問いかけがただの独り言ではなく、自分に向けられた物だとエドガーが理解するのに、数秒を要した。
「いや、違う。あの島には、もっと青いもんがあんのさ」
 ふぅんと頷いた少年のふわふわとした髪を、エドガーはくしゃりと混ぜる。クラウスの表情から不快の色は消えない。――子供のくせに無表情で無口なものだから今まで気付かなかったが、どうやらこの少年は、日光が嫌いらしい。今二人が乗せてもらっている小さな漁船の上に日陰はないから、島に着くまではこのままだろう。
「今日の Zweck は?」
「ん?」
 エドガーが聞き返せば、クラウスは口を噤んで少し考える。
「……今日の目的は?」
 言い直されて、エドガーはあぁ、と頷いた。
 クラウス本人が話さない為に詳しいことをエドガーは知らないが、彼はどこかの国境沿いで育ったらしく、たまにエドガーの聞き慣れない言葉が混じるのだ。
「買い付けだよ。魚はそんなに運べんが、塩とか海藻とかなら日持ちもする。行く所まで行けば高値でも売れるしな」
 ふぅん、と彼はまた頷いた。
「……なんてな。そんなもんはルーピアで仕入れりゃいい。こっちの島まで来んのは、ただの観光だよ」
 観光、と少年が口の中で繰り返す。エドガーの回答が意外だったのか、丸くなった目が瞬いた。
「噂じゃ、明日には見れるらしいぞ。楽しみにしてろよ」
 にやりと笑ってやれば、分からないなりに楽しみにしていれば良いことは伝わったらしく、クラウスは大人しくこくりと頷いた。
 結局彼に興味があるのかないのか、エドガーには分からない。

「きゃあっ、誰か、ケイシーを捕まえて!」
 船が波止場に着いてエドガーとクラウスの二人が上陸した、丁度その時だった。そんな少女の声が、騒がしい市場の中に響き渡ったのは。
「誰だ、ケイシー?」
「……さぁ?」
 二人揃って見回してみるが、次から次に到着する船から忙しそうに荷を降ろしている人々や、降ろされた魚介を市場に並べる人々の姿はあれど、逃げているような人影は見当たらない。叫んだ少女も見失ってしまったのか、きょろきょろと市場の中を探しているようだった。
「まぁ気にしないで行くか」
「はい」
 明後日出発するまでに、この細っこくて頼りない少年にはとにかく大量に食べさせておかなければならないと、妙な使命感に燃えてエドガーは歩き出す。クラウスは、そんな彼の背後に隠れるようにしながらも、素直に従った。
 しかし。
「あーっ! ケイシー! いたっ!」
「え?」
 先程の少女にびしりと指差され、少年は困惑した表情で足を止めた。
 確かに細くて頼りなくてなよっとしてはいるが、少女と見間違われるような風貌はしていない筈だと、エドガーは背後のクラウスを振り返ってまじまじと考える。
 そんなエドガーの無遠慮な視線を受け、クラウスは気まずそうに視線を落とした。釣られてエドガーも足下を見れば、黒い艶やかな毛玉が緑色の瞳を輝かせ、口にはぴちぴちと動く魚を加え、彼ら二人を見上げていた。
「お、猫か」
 エドガーがしゃがむと、魚を捕られると思ったのか、黒猫は数歩下がってクラウスの陰に隠れた。当のクラウスは動物に慣れていないのか、自身の足下でくつろぎ始める黒猫をただ見下ろしていた。
「ケイシー、駄目でしょ」
 クラウスの陰に隠れたことで油断していたのか、少女にひょいと抱え上げられてしまった黒猫のケイシーは、咥えていた魚をぼとりと落とし、みゃあと鳴く。
「レオナちゃん、そんなこと言わないでケイシーちゃんに食べさせてやりな」
 遠くから、レオナと呼ばれた少女に声をかける男性は、恐らくケイシーが咥えていた魚の主であろう。
「ギドーさん、そんな甘いこと言ってると、ケイシーがギドーさんとこの魚、全部食べちゃいますよ?」
「そいつは困るなぁ」
 あははと朗らかに笑う様子は、たとえ魚を食べ尽されてしまっても困るようには到底見えない。
「ケイシーちゃんだっけ? レオナちゃんが飼ってんの?」
「はい! 目を離すといつもこうやって市場でお魚貰ってるんですよ。ケイシー、今回までだからね」
 右脇に猫を抱えたまま、彼女はケイシーが咥えていた魚を拾い上げた。そしてエドガーとクラウスの二人を交互に見遣る。
「お二人は、イスラスールを見に来られたんですか?」
「あぁ。明日辺りらしいって噂をルーピアで耳にしてな」
「はい、それが皆の予想です」
「坊主、良かったな。やっぱり見て行けそうだ」
「はい。……何を?」
「じゃあ、明日が楽しみですね!」
 条件反射のごとく頷いておきながら小さく続けられた質問に、レオナが吹き出した。クラウスは、ただ小首を傾げる。
 華やかに笑う彼女と、目を白黒させるクラウスが対照的過ぎて、エドガーは笑うのを堪えるのに一苦労だった。
「レオナちゃーん、そろそろお願いしてもいいー?」
「はーい!」
 遠くから呼びかけられた声に、レオナは元気良く返事をした。そして脇に抱えたままの黒猫を見下ろすと何を思ったのか、手近に突っ立ったままのクラウスに差し出したのだった。
「ここにいる間だけでいいから、この子、預かっててくれない?」
「え……え?」
 戸惑うばかりの彼にケイシーを無理矢理抱かせて魚まで持たせると、レオナは良い笑顔になる。
「私、おばさんがやってる酒場の手伝いをしてるの。この子、本当に食いしん坊でね、連れて行くとどのお料理も欲しがっちゃって。だから、お願い!」
「は、はい」
「ありがと。よろしくね! それと明日は幸せになるのよ!」
 大きく手を振りながら去って行くレオナを、黒猫を抱いたまま凍り付いたクラウスが困ったような笑みで見送るのをみて、エドガーは腹を抱えて笑い出す。
「仕方ねぇなぁ。行くぞ。とりあえず宿だ。荷物置いて、全てはそれからだ」
「はい」
 クラウスの腕の中、すっかりくつろいだ猫もみゃあと返事をした。

 エドガーの朧げな記憶を頼りに道を行けば、潮風にさらされ錆び付いた看板が揺れている。扉を押せば、きぃと軋んだ。
「らっしゃい」
 昼食には遅く、夕食には早い、そんな中途半端な時刻。がらんとした大衆食堂の奥、カウンターにいる中年男は新聞を読む目を上げることすらしない。
「おい、お前んとこの経営を少しでも助けてやろうと思ってわざわざ遠路はるばる来てやった客に対してその態度ってのは良い度胸だな」
「お前に恵んでもらわにゃいけねぇほど困窮してねぇよ」
 やれやれと首を振り、エドガーはクラウスに肩をすくめてみせた。クラウスは無言でエドガーを見上げていたが、自己主張するかのようにケイシーは鳴く。
 店の主はそこでようやく新聞を置き、こちらを振り返った。
「あ? 猫だぁ?」
「ケイシーちゃんナイス」
 ようやく話を聞く体勢になった彼を見て、エドガーは褒めるようにケイシーの頭を撫で、ケイシーは気持ち良さそうにのどを鳴らす。店の主人はと言えば、そこにいたのが声をかけたエドガーだけでなく、猫どころか少年も一緒にいたことにぎょっとしたようだった。
「二泊三日で頼んだ」
「訊いてねぇよ」
「聞けよ」
「何だお前、慈善活動にでも目覚めたのか?」
「そっちじゃねぇ。……まぁ、どっちも確かに拾いもんみたいなもんじゃあるが……なんだ、猫は駄目か?」
 エドガーが撫でていた手を止めれば、ケイシーは目を丸くしてエドガーを、そして近付いてきた店主を見上げた。
「こんな可愛い顔してんのになぁ。お前駄目だって。クラウスと一緒に野宿するか?」
「Was……僕も?」
「そりゃそーだろ。お前が頼まれたんだから」
 そっか、と頷いてクラウスは、押し付けられてからまだ抱いたままの猫を見下ろした。当然ではあるが、猫であるケイシーが動じた様子はない。
「冗談だって。俺の旧知の友は親切だから、猫一匹追い出すなんてこたしねぇよ。な?」
 そうなの、とクラウスは上目遣いに大人二人を見上げた。見上げられたエドガーはにやにやと笑いながら店主を見遣り、店主はあーと声を出しながら、面倒くさそうに向きを変えた。
「いつもの部屋でいいだろ?」
 そう、カウンターの奥から出してきた鍵を渡される。
「いつも悪いな」
「構わねぇよ。……明りは消さねぇ方がいいかもしれん」
 クラウスを伴って二階に上がるエドガーに、店主がそう声をかけた。
「ん? 壊れてるのか?」
「いや」
「じゃあ何だよ」
「多分、嫌がるだろ」
「何がだよ」
 エドガーが重ねた質問に返されたのは無言。後ろを歩くクラウスも、首を傾げていた。

 部屋に荷物を押し込んで、クラウスとケイシーを連れて回る市場は、エドガーが自分一人で回るよりも余程楽しかった。クラウスも楽しんでくれたのではないかと、エドガーは思う。滅多に見られない、彼のはにかんだような笑顔が見られたのだから。
 ただ、食べ歩きに関して述べれば、猫を連れてきたのは間違いだった。クラウスより、ケイシーの方が良く食べていた気がするからだ。
 岬や港だけでなく、島の中心付近に広がる丘などを巡れば長い日も傾き始め、宿に戻った頃にはとっぷりと日が暮れていた。
 大衆食堂で一杯引っ掛けると、エドガーはクラウスを連れてさっさと部屋に上がる。人間より先にベッドに潜り込んだケイシーに苦笑しつつ、彼はカーテンを引いた。
「じゃ、俺らもそろそろ寝るか。明日は遅くていいからな。お休み、クラウス」
「お休みなさい」
 明りを消して布団に潜れば、エドガーはことりと眠りの落ちる。













登録者:夢裏徨
HP:月影草
Good Day Good Departure企画