コートのポケットに入った紙を、クラウスは確認することなくぐしゃりと握り潰す。
 紙は、ふと思い立って今朝方描き始めた紋章である。待ち時間か長かったお陰でー通り描き上がりはしたが、まだ動作確認なんてしていないし、そもそもこんなものを作っていたことすら仲間たちに告げてはいない。
 だから、これは賭けだ。負ければ命はないかもしれない。
 足早に細い路地を抜けながら、クラウスは嵌めた手袋を外す。そして指先を小さく噛み切った。
 この紋章の発動条件は、誰かの血液。仲間の血液だけに反応するような術式も組み込めるが、今は誰の血液にでも反応するようになっている。
 握り潰した紙をそっと指で撫で、赤く染みができるのを確認し、彼は投げた。空高く。
 くしゃくしゃに丸められたそれはまるで翼を広げるように空中で広がり、そして——
「——どうか、届いておくれ」
 彼らの下に。



真夜中の迷走劇・上



 一行がメルカディロの街に到着したのは、昼を少し過ぎた頃の事。それから街に入る手続きに時間を要し、結局彼らが街に踏み込んだのは、日もとっぷり暮れた後のことだった。
 犯罪でも犯したのかと思わせる程事細かな取り調べ、もとい、手続きは、書類制作が煩雑すぎるだとか心証が悪いだとかを通り越し、全員を疲労困憊させた。ただし、待っている間、楽しそうに紋章を描いていたクラウスだけは除く。
 ともあれ、疲れきった一行は真っ先に目に入ったカフェで軽食をテイクアウトし、真っ先に見つけた宿屋に部屋を取り、とりあえず荷物を放り込んで今に至る。まだ起きているのは、スカイアとクラウスの二人だけだった。
「なぁ、この街、なにか様子がおかしいとは思わないか?」
 カーテンを開け放した窓の下、月光で手元を照らしながら何やら指で紙に綴っているクラウスに、小さなティーテーブルを挟み向かい合って座ったスカイアが、寝てしまったメンバーを起こさないようにと小声で囁きかけた。
 スカイアの声が聞こえなかった訳ではないだろうに、クラウスはその手を止めない。視線をちらりと上げる事すらしない。いくら紋章を描くのに熱中しているからとは言え、彼が無反応なのは珍しい。やはり聞いていなかったのだろうかと、スカイアは再び声をかけた。
「おい、クラウス?」
「聞こえているよ。僕は反対だ」
 まだスカイアは話を振っただけで、自分の意図を告げていないというのに、クラウスはそうきっぱりと言い切って、ようやく手を止めた。
「まだ何も言っていないと言いたさそうだね? でも君が言いたい事は、その話の振り方でおおよそ分かるよ。君は、この街が抱えている問題の原因を追及したい。そしてあわよくば解決したい。そうだね?」
 いつも通りの優しく柔らかい口調だというのに、どこか責められているような気になり、スカイアはたじろいだ。よくよくクラウスの表情を見れば、いつも笑みを湛えている青い瞳が笑っていない。
「あ、あぁ」
「それは今晩でなくてもできるだろう。僕たちはまだこの街に着いたばかりで、街で何が起きているのか、そもそも何か起こっているのか、それすら知らないんだ。土地勘のない街で真夜中に動くのは、もし何かが起きているのならば危険すぎると僕は思うよ」
「……あんた、もしかして」
「怒ってなんていないよ? 君の学習能力のなさには少し呆れているけれどね。シュピタールの時も、そうやって自ら首を突っ込んだなんて言わないだろう?」
 怒ってるじゃないか。そんな言葉をスカイアは飲み込んだ。
 暫く前に立ち寄った街、シュピタールでの一件で、スカイアは大怪我をしている。その時は巻き込まれただけで、傷を負った責任自体スカイアにないことをクラウスも良く分かっているだろう。だから彼はその一件を怒っているのではなく、似たような状況にあるこの街で、あの時と同じように暗い道を歩こうとするその危機管理能力のなさに怒っているのだ。
「……だから、あんたに言ってるんだろう」
「うん?」
「一人旅をしていた期間が長いあんたのことだ、この街にだって来たことの一回や二回はあるだろう。土地勘はある。少なくともあんたにだ」
 真っ直ぐに向けられたスカイアの視線を受け止めることもせず、クラウスは作業を再開する。伏せられた瞳から、その考えを読み取ることは難しい。
 スカイアは、ただ待った。難解な紋章を躊躇うことなく描き上げていくクラウスの手元を、指先を、紡がれる魔力の色を、眺めながら。
「君は疲れていないのかい? 彼らはもう、ぐっすり眠っているというのに」
「それを言ったらあんたも同じだろ。街に着いた時には疲れていたように見えたが、一度紋章を描き始めてからは表情が生き生きとしてる」
 スカイアの指摘に、クラウスはふっと口元を緩めた。
 紋章は描き上がったのかそのまま鞄に放り込み、クラウスは壁にかけてあったコートとマフラーを手に取った。何をしているのかと彼を見ていたスカイアを振り返り、あたかも当然と言うかのようにクラウスは言う。
「何をしているんだい。行くんだろう?」
「あ? 何だ、反対じゃなかったのか」
「反対だよ。だけど君の気が済まなさそうだからね。本当に少しだけだ。少しだけ、周辺を歩いたら帰ってくる。それで良いね?」
「あぁ、もちろんだ」
 スカイアも立ち上がり、立てかけてあった槍を手にした。そして、ベッドの上に転がしてあった紙袋を手に取れば、クラウスは怪訝な顔をした。
「さっきテイクアウトしたあのお店、イエルバだっけ? あのカフェに用事でもあるのかい? もしかしてユーヒ君が君の分まで食べてしまったとか」
「ユーヒが食べたのはあんたの分だろ。……いや、ちょっと届け物があってな」
「へぇ。昼間には届けられないような物なんだ?」
 くすりと、クラウスの青い瞳がいたずらっぽく輝く。
 普段はリューの無表情なボケツッコミに隠れがちだが、クラウスの言動も性質が悪いと、スカイアは思い始めていた。
「早急に届けるべきものだと言ってくれ」
 スカイアが苦く返せば、クラウスは更に楽しそうに笑った。


 宿の外に出れば、オレンジ色の街灯が怪しく周囲を照らしている。やはり外出は控えるべきだったと、クラウスはその瞬間確信した。
「それで、そのお届け物の宛先は分かっているのかい?」
「ああ……」
 一つ目の角を曲がる際にクラウスが問えば、部屋から持って来た紙袋をがさごそと開け、スカイアは中に手を突っ込む。引っぱり出したのは毛糸の帽子。色までは分からないが、その大きさから、小さな子供の持ち物であることは分かった。
「エスコーラ通りの21番だな」
 帽子の中に書かれた住所を読み上げ、帽子を紙袋の中に戻しながら、スカイアはクラウスを見た。この住所に行きたいと、そういうことなのだろう。
「いくら前に来たことがあるとはいえ、通りの名前までは把握していないよ」
「そうか。ならいい」
 あっさりと諦めたスカイアに、クラウスは苦笑する。
「妙な所で諦めが良いよね、君は」
「無理な物は仕方がないだろう。明日、誰か街の人にでも訊けば良いさ」
 あえて何も言い返さずに見上げた街灯が、ちかちかと点滅を繰り返す。少し足早になりながら、二人は再び角を曲がった。
 嫌な予感という物は、どうしてこうも当たってしまう物なのか。クラウスがちらりと横目でスカイアを見れば、彼は小さく頷き返してくる。
「肯定しては欲しくなかったんだけどね」
 と、声のトーンを下げて囁けば、
「事実を口頭で否定しても意味がないだろう」
 と大真面目にスカイアは言い切った。先ほどから何者かに後をつけられていることに二人とも気付いており、それはクラウスの気のせいではないという証左でもある。
 どうして今日は、今晩は、絶対に外に出さないという反対の姿勢を貫かなかったのか。クラウスは後悔した。
「……すまん」
 かたわらを歩くスカイアが小声で謝るのを、手でそっと制した。
「僕の判断ミスでもあるからね、悪いのは君じゃない。それに、今重要なのはそんなことじゃないだろう?」
 背後から視線が追いかけてくる。だから二人は視線を合わせることもしない。徐々に歩く速度を上げ、どうやって宿まで戻るのかをひたすらに考える。
 幸いなことに、尾行は上手くない。クラウスにもその気配を察知できるくらいなのだから、ほぼ素人と思って間違いはないだろう。
「それにしても君、何かしたのかい?」
「まさか。この街に入ってからあんたたちとはほぼずっと一緒に行動してたし、カフェに入った一瞬だって、メシの注文と受け取りに行っただけだ。ちゃんと代金も払ったぜ。あんたたちこそ、何もしてないんだろうな」
「いや。忘れている可能性は否定しないけど」
 もちろん、冗談である。が、スカイアが半眼になっておいおいと突っ込んでくる。
 最後にもう一つ角を曲がると、一周回って宿の前に出た。しかし、宿に入ることは出来ない。何故なら、数人の男たちがそこで「誰か」を待ち構えているからだ。
「……クラウス。何か目つきの悪いお兄さん達が俺達の方を見ているような気がするんだが」
「気のせいということにして通り過ぎたいんだけど、無理かな?」
 速度を緩め、角を大きく回りながらクラウスは肩をすくめる。その発言はあっさりと流され、スカイアは宿を見遣った。
「入り口ってあそこだけなのか?」
 問われ、クラウスは宿の間取りを思い出す。が、裏口らしき戸は見覚えがない。
「それは、部屋の窓から入りたいという事かい?」
「四階だったか? 簡単に登れない高さだってのは確かだな。……何かこっちに近づいてくるんだが」
「何だろう、僕たちはそんなに変な格好でもしているのかい?」
「ちょっと目立ちはするかもしれんが、至って普通の格好だと思うぞ」
 おどけて言ってみれば、真面目に返される。そんな真面目な応対を求めていないことを、スカイアは分かっていないとクラウスは心の裡で思った。しかし、そんな悠長なことを考えている場合でも、ない。
「どうしようか、選択肢は二つ。とりあえず堂々と通り抜けてみるか、どこかで時間を潰して戻ってくるか」
「あれ、堂々と通り抜けることを許してくれる目だと思うか?」
「やっぱり無理かな」
「無理だろうな。となると、どこかで時間を潰して戻ってくるのが一番良さそうだな」
 スカイアに言われ、クラウスは周辺の地図を思い描く。宿を中心として広がっているのは、基本的に住宅街。道幅は太い物から細い物まで様々だ。それは、道を選べばどうにかなるだろう。
 立ち回るのならば、広い場所が良い。隠れられる場所の少ない場所が良い。ならば、公園だろうか。そこまで考えると、宿を探している途中で一つ、公園を見かけたのをクラウスは思い出した。大きくはなかったが、それなりな広さはあったはずだ。
「さっき公園を見かけたけど、行ってみるかい?」
「その公園、人はいそうか?」
「どうだろうね、時間帯にも依るだろう。昼間見かけた時に子供が走り回っているようなのんびりした公園が、夜になればその雰囲気をがらりと変えていないとは限らないよ」
 ちらりと見かけただけだ、雰囲気までは分からないと言外に伝えれば、スカイアは予想通り嫌そうな顔をした。













登録者:夢裏徨
HP:月影草
Good Day Good Departure企画