霧の楼閣・下



「それでリューさん。あなたの秘密はなんですか?」
 歩き始めて数歩も立たぬうちに、ラルフが唐突にそんなことを言い出して、リューは思わずこけそうになった。
「秘密って、何の話さ」
「先ほど酒場で男たちも言っていましたが、僕が囚われないのは、クラウスの作った護符があるからです」
 そう言いながらラルフはズボンにクリップで留められた鎖をたぐる。ポケットの中から表れたのは懐中時計。表面の見事な紋章が、仄かに柔らかな光を放っている。
「時計自体は普通のものです。力を持つのは紋章の方。これを手放せば、多少の耐性はありますからすぐにとは言いませんが、僕も他の子供たちと同様かの街の『住民』となることでしょう」
 ポケットに懐中時計を丁寧に戻しながら、ラルフはリューに再度問う。何故彼は無事でいられるのかと。
「いや、おれは本当に何も持たないよ? そもそも『かの街』って何こと?」
「え?」
 リューが問い返せば、狐につままれたような表情を見せた。背後を歩いていたクラウスが、納得したように一つ大きく頷いた。
「なるほど。リュー君、君には見えないんだね? 蜃気楼は聞いた事があるかい?」
「あぁ、蜃っていう魔物が吐く雲でできた、幻の街のことだね?」
 リューの回答を、クラウスは肯定する。
「その蜃が、リオ・ドルミールの川の中には住んでいるんだ。年に一度の繁殖期になると、彼らはこうして雲を吐く。この街は一週間ばかり霧に閉ざされるんだ」
 その辺りは僕も詳しくないんだけど、とクラウスはラルフに視線を投げ掛ける。ラルフは、分かりましたと口を開いた。
「大人や幼い子供には見えないようなのですが、丁度十代半ばから後半くらい——僕やリューさんくらいの年齢の子供は、この霧の中に街を見ます。一度見てしまえば身体を残し、魂はこの幻の街の住民となるんです」
「それがこの街の眠り病の正体なんだね。その話からすると、一週間経って霧が晴れたら子供たちは戻ってくるんだ」
「はい、しかし」
「霧が晴れない、と」
 リューは改めて周囲を見回した。
 霧はそれ程濃くはないため、薄らと太陽の光が地上に降り注いでいる。幻の街を見ようと霧を凝視してみるが、霞の向こうの街並みが透けて見えるばかりだった。
「見えそうかい?」
「ううん、全然」
 皆には見えるものが自分には見えない事に、リューは少し落胆した。が、ここで昏睡してしまっても困るだけだと、自身に言い聞かせる。
「それで、その長引いてる原因なんだけど」
 霧の街を見る事を諦めた彼は、クラウスを見、ラルフを見た。
 リューの記憶が正しければ、彼らは今、川に向かって歩いている。目的は調査か解決か、といった辺りだろう。しかしクラウスは先ほど、大体の原因は分かっていると言った。ならば、今から解決にでもしにいくのか。
「どうやらそれには、また別の魔物が絡んでいるようなんです」
 彼らは魔物の専門家ではないから、遠目に見ただけの魔物の名前までは分からないと、ラルフは言う。
 彼の話では、その魔物は大型のネコ科、チーターの様な姿をしており、強い魔力を保有しているらしい。その魔物がリオ・ドルミールの街周辺をうろついているらしく、魔力を敏感に感じ取った蜃が自分の霧の中に取り込んでしまおうとしているのか、雲を吐き続けているのではないか、というのが見解だ。
「この先に巣穴があるんですよ。先ほど仕掛けは施してきましたが……クラウス、反応はありましたか?」
 川の近くの木立の中でラルフに問われ、クラウスは手首に魔法道具を着けているのか、すっと左袖をまくる。
「まだだね。……いや、何か反応がおかしいようだ。あれ以外にも何かがあの巣にはいるのかもしれない。巣はすぐそこだったね? 僕が様子を見てくるから、君たちはここで待っていてくれないかい?」
「一人で行って大丈夫なの?」
「その為に君たちにはここで待っていてもらうんだよ」
「どういうこと?」
「僕たちには背後を守っていて欲しいと、そういうことだと思いますよ」
 一人で行ってしまうクラウスを見送りながら、表現が分かりにくいとリューは正直に思った。しかし考えてみればそうだろう、クラウスは仕掛けからの反応がおかしいと言っていたのだ。今回のターゲットである魔物が巣穴にいるとは考えにくい。ならば確かに背後にいて、万が一の場合は魔物を外で食い止めるべきなのだ。
「ラルフとクラウスって、付き合い長いんだ?」
「まぁ、そうですね。クラウスは僕が生まれたばかりの頃から知っている筈ですし」
「それは長過ぎやしない?」
 そうかもしれない、と笑ったラルフの視線が、何かを追うように動く。ラルフが何かに気付いたように、リューもまた、気付いていた。彼らの周囲を回りながらゆっくりと歩いている「何か」に。
 知らず知らずの内に彼らは背中合わせになり、リューは腰の剣に手を伸ばしていた。
 霧の向こう、うっすらと霞がかったその先に、大型ネコ科のしなやかな肢体が見える。こちらを見ながら、確実に距離を狭めてきている。こちらを敵と見なしたのか、それとも様子を見ているだけなのか、リューには判断がつかない。そしてそれは、ラルフも同じようで。
 その時、それは何故か進路を変えた。
 霞のせいで魔物が目指している「物」が見えないが、風が吹いた一瞬、小さな影が動いたのをリューは捉えた。どこか頼りなげな、どこか不安定な、歩き方。
「子供っ!」
 思わず叫んでリューは跳ぶ。距離は少し離れていたが、風の魔法を使えばその程度、何ら問題はない。
 が。
「あ」
 着地しようとしたその時、彼は見てしまった。蜃が紡ぐ、霧の町とやらを。
 魂が抜けると言っていたそのせいか、身体の感覚が遠くなる。見えるのは川岸ではなくて、レンガ造りの街並み。整然と並んだ家々の前を歩くのは、綺麗な身なりをした少年少女たちだ。
「リュー君!」
 クラウスの声とともに飛んで来た物に、リューは反応の鈍い腕を無我夢中で伸ばす。固くて丸くて冷たい、表面の滑らかな何かをその手に握った途端、視界が川岸に戻ってくる。パランスを崩した身体では上手く着地することなどできず、彼はそのまま膝をついた。
 リューの目の前にいたのは、やはり小さな子供だった。自分がどこにいるのかも恐らく分かっていないに違いない。目を丸くしながらリューを見つめるその子供に怪我はないようだった。
 そしてリューは立ち上がり様に振り返る。子供に狙いを定めた魔物が身を低くし、そして跳躍する。剣を抜くが、間に合わない。衝撃を、痛みを、覚悟した。
 しかし、魔物の爪も牙も、リューを包み込んだ白く柔らかい光によって阻まれる。衝撃に、光に、戦いた魔物が間合いを取った。
 何がリューを守ったのかだなんてそんな思考は後回しにして、魔物の頭上へとリューは跳んだ。
「これで、終わり」
 風で、重力で、重さを加え、リューは魔物のこめかみを打つ。これでは留めにならないだろうかと一瞬心配になるが、動きが止まったその一瞬に、魔物の背後にするりと現れたクラウスが、首に紐のような物を巻き付けた。
「あぁ、これで終わりだ」
 ぴくりと一度だけ痙攣し動かなくなった魔物は、そのまま力なく地面に突っ伏した。
 戦闘終了を見届けたリューは、そこでようやく左手に握ったままだった物、クラウスが放り投げてくれた物を見る。それは、クラウスが作った護符だという、ラルフの懐中時計だった。
「街はどうだったかい? 行ってしまいたかったかな?」
 どうやらクラウスは、リューがあの一瞬に蜃気楼を見た事などお見通しのようで、リューを守る為に、ラルフの護符を投げ渡してくれたらしかった。
「一日の観光ツアーなら参加してみたかったかもね」
「それは悪い事をしたね。今からでも行ってくるかい?」
 まだ遅くないよ、と彼は右手を差し出してくる。恐らく、リューがこの時計を返せば、今からでも蜃の作り出す霧の街に行ってくる事が出来ると、そういうことなのだろう。
「……いや」
 どうしようかと躊躇っているうちに、クラウスがサングラスの位置を直して空を見上げる。リューも釣られるように、明るくなって来た空を見上げた。どうやら、霧が晴れつつあるらしい。
「もう、遅いみたいだね」

 結局あの魔物は、その魔力の高さを買われ、ローゼンクランツ家に引き取られる事となった。クラウスの仕掛けが妙な反応を返した原因は、巣穴にいた魔物の子供たちだったそうで、彼らもローゼンクランツ家の監視下に置かれる事となる。
 クラウスが首輪を着けてからは大人しくなっていたのだから、あの艶やかな毛並みを撫で回してくれば良かっただろうかと、リューは少し後悔した。
「お二人、良いコンビですね」
 子供を親元に帰し、魔物の捕獲を手伝った礼と言ってローゼンクランツ家で夕飯をごちそうになり、玄関で見送ってもらっていたその時に、ラルフがぽつりと、どこか悔しそうに呟いた。
「僕はあの時、リューさんが動いた理由など分かりませんでした。まして、リューさんが蜃気楼に囚われかけているだなんて、思いもしませんでした。クラウス、良く分かりましたね?」
「うん? あぁ、あの場に子供がいるとは思わなかったけれど、リュー君が動くからには何か理由があるんだろうとは思ったよ。それに、着地寸前でバランスを崩したみたいだったからね。かの街を見て現実が見えてないから、くらいしかバランスを崩す理由が思いつかなかったんだよ」
 あっさりと告げられた理由に、リューは感心する。交わした言葉の数は少なく共にした時間も短いというのに、既にそこにはある種の信頼がある。
 ラルフは続けた。
「リューさんだって、クラウスの守護魔法の存在、分かってあったんですよね? だから自分の身を顧みずに飛び出して行けたんですよね?」
 指摘されてリューが思い当たったのは、魔物の爪と牙からリューを守るように展開した、あの白い光の事だった。
「あれ、クラウスの魔法だったんだ」
「過信されては困るけれどね。簡単な物だから、一度しか効果を発揮しない。だけど多少の効果はあっただろう?」
「うん。お陰で命拾いした。ありがとう」
 理解できないとでも言うかのように、ラルフは軽く首を振る。そして、再度確認するようにラルフは二人に問うた。羨ましげな、悔しげな、そんな、苦々しい表情で。
「組まれてみる気は、ないんですか?」
「そうだね……」
「ラルフ坊ちゃん」
 クラウスの回答は、執事によって遮られる。焦りと滲ませる執事に苦笑して、ラルフは二人に向き直った。
「すみませんが、どうやら急ぎの執務があるようなので、そろそろ僕は失礼させて頂きます。お二人とも、良い夜を」
「お休みなさい」
「うん、お休み」
「クラウス、次回立ち寄られた時こそ、僕はあなたを説得してみせますからね」
 ラルフの言葉にクラウスは微笑み、片手を挙げて挨拶を返すと、彼はリューと共にローゼンクランツ家を後にした。
「さっきの話だけど、コンビ、組んでみるかい?」
 宿へ向かう道中で、クラウスがそんなことを言い出した。夜で日光がないからなのか、サングラスを外しているクラウスの青い瞳がいたずらっぽく笑っている。
「それ、本気にしていいの、おれ?」
「じゃあ、本当にしてみようか」
 優しげな笑顔からは真意が掴めない。真意なんて、ないのかもしれない。
「旅してるって言ってたよね。次の目的地は決まってるの?」
「君に行きたい所や行かなければならない所がないのなら……そうだね、ルーピアかな」
「それは、約束か何か?」
 いや、とクラウスは短く否定する。
「約束はしていないけれど多分——待っていると思うんだ」










<言い訳>

 そんなこんなでクラウスがリュー君に合流することになりました。
 しかし、こんな合流の仕方でよいのでしょうか…秋待さん、何か問題がありましたらそれこそ遠慮なく突き返してやってください!
 私はとりあえず満足しました。流れでなんとなく理由もなくの合流。や、絶対この人だと誘い誘われなんていう合流の仕方じゃないと思ったのです。

*街の名前:リオ・ドルミール(Rio Dormir)
 前回同様スペイン語で、作中に出て来ている通り「眠る川」の意味。

*ラルフ・ローゼンクランツ(Ralf Rosenkranz)
 こちらはクラウスと揃えましてドイツ語を採用。
 名字の「ローゼンクランツ」は意訳で「ロザリオ」の意味ですが、あえて直訳の「薔薇の冠」の意味にしたいと思います(笑)

 リュー君をお借りしました、ありがとうございます。しかし彼、やっぱり影が薄い気がしてなりません(汗) え、彼視点なのに何故ですかね?(汗←私の書き方が悪い)

 ここまでお付き合いくださった皆さん、ありがとうございました!
 何か問題がありましたら、ご連絡ください。



登録者:夢裏徨
HP:月影草
Good Day Good Departure企画