ソフィアの治療を受けるのも、もう何日目になるのか。ずっと微睡んでばかりいたクラウスには、日付の感覚がなくなっていた。
 旧市街で合流したときのソフィアの反応を見る限り、大分酷い傷だったらしい。もう痛みは引いているが、未だ体中に気怠さが残っていた。
「クラウス、あんた、起きれるか?」
 声とともに手が伸びて来て上体を起こされる。開いた瞳に映る景色はどこか霞んでいたが、それでも真正面からぶつかってくる空色の視線だけははっきりと分かった。
 流れで渡された白いカップには、オレンジ色の液体が入っている。
「そろそろあんたも何か胃に入れた方が良い。そのままじゃ体力が保たんだろ」
「あぁ……そうだね。ありがとう」
 ゆっくりとカップを口元に運び、そっと中身を口に含んだ。人参に林檎、それにトマトの味がする。はちみつで甘みをつけてあるのか、飲みやすい。
「……悪かったね」
 ベッドサイドに座り、オレンジの皮を器用にナイフで剥いていたスカイアが、突然の謝罪に目を瞬かせたようだった。
「何も言わなくて、悪かったね」
 自分の過去について何も言わない事を、彼らはどう受け取っていたのだろうか。クラウスが彼らの事を信用していないと、そう思われただろうか。クラウスの口からではなく、アンジェラから聞かされてしまった事を、彼らはどう感じただろうか。
 そんなことよりももっと気になるのは、勝者と敗者という関係性だ。クラウス自身は気にしないから構わないのだが、彼らもそれを過去として割り切れるのかどうかは問題だ。下手に過去の歴史を教えてしまう事で、彼らの重しにはなりたくない。
「カサローサのことは、君たちが気に病む事じゃないよ。カサローサが繁栄を遂げていたのは過去の話なんだ。あぁいう自治都市という形態は既に時代遅れで、遅かれ早かれいつかはこの国の統治を受け入れるなり滅びるなりする時代の流れにあったんだ。それがたまたま、僕の子供時代だった。それだけの話だよ。それに、君たちはカサローサ陥落に一切関与していないだろうに」
 まだ熱に浮かされているのかも知れないと、語りながらクラウスは思った。ぼやけたままの視界同様、思考も霧に包まれているようで全くはっきりしない。
 恐らく全員揃っているのだろう部屋からは沈黙だけが返され、クラウスは苦笑せざるを得なかった。
「……旧市街は日差しが強かったが、あんたが晴れを嫌ってるのと、何か関係してるのか?」
「カサローサがまだ、ちゃんと機能していた頃は日差しも穏やかだったんだ——天候不順から始まって、魔法障壁が、人間関係が、引いては都自体が、一つずつ崩れて行くのを見ていたよ。だからそうだね、僕にとって強い日差しは崩壊の兆候と同義かな」
 安定しない天候は安定しない魔法障壁が原因だと知ってから、毎日のように空を眺めていたように思う。そして、今日は少しでも穏やかでありますようにと、柄でもなく人知れずに願ったものだ。
 そんな幼い日の記憶は、いつまで経っても色褪せない。だからこそ、体質だけの問題でなく、敏感に反応してしまうのだろう。
「それはあれか。俺たちはまだあんたに、太陽光なんかじゃ壊せないものがあるって証明できてないってことか」
「証明は十分にしてもらっているよ」
「なら、何度でも証明してみせるさ。あんたが実感するまでな」
 スカイアの力強い言葉と、一様に頷いてみせるメンバーの気配に、クラウスは微笑んだ。
「クラウスさんが故郷の話をあまりされないとは思っていましたが、まさかあんなことになっているだなんて……」
 そう、言葉を詰まらせたのはクロバだ。
「でもさ、クラウス。確かにカサローサはあんな状態かもしれないけど、それでもクラウスには帰る場所というか、受け入れてくれる人はいるんだよね? ローゼンクランツ、おれは良い家だと思ったけどな」
 どうして、と淡々とリューが指摘する通り、ローゼンクランツはクラウスを引き取る気でいた。リューの言う通り、地位も資産もあるローゼンクランツは、引き取られるとしたら申し分のない家だろう。しかし、クラウスは拒絶した。
「彼らに問題があったんじゃなくて、問題があったのは僕の方なんだ。僕はね、耐えられなかったんだよ。守る側から、守られる側になってしまうのが」
 家は断絶し、守るべき都も失った。それでも「守護者」という立場を譲れなかった点で、自身はやはりローゼンハイムなのだとクラウスは思うけれど。
「僕にも、帰る場所はあるんだよ。だけどね、帰れる場所が、帰りたい場所が多すぎて、選べないんだ」
 カサローサの事は、ずっと気にかけていた。それはローゼンハイムとして都の最後を見届けなかったからでもあるだろう。
 だが基本的に、父親がクラウスを都から逃す決断を下し、それに逆らわなかった時点で、クラウスはローゼンハイムであることを、カサローサの守護者であることを捨てたのだ。今のクラウスは、誰が何と言おうとも一介の紋章師でしかない。
 今回カサローサに来たことで、カサローサという都に対して執着がないことがはっきりしてしまった。クラウスが守りたかったのはカサローサという都の形でも土地でもなく、そこに住んでいた、親しく声をかけてくれた、人々だったのだ。
 だから今、クラウスが守りたいのはカサローサではない。都を離れてから20年の旅の間に各地で出会った人々であり、顧客であり、リューたち旅の仲間なのだ。土地の名前で言えば、ウィンドベル、リオ・ドルミール、ルーピア、イスラスール……今回の一件で、ここ、カサローサも一覧に追加されてしまった。これからも、この一覧は長くなっていく一方なのだろう。
 クラウスは旅を続けるのだろう。旅の間に出会った人々の下へ「帰る」為に。
「君たちがどう思っているかは分からないけれど、僕は人生に満足した者の勝ちだと思うよ。夢は大きく望みは高く、なんて言う人もいるけれど、現状に満足できなければただ苦しいだけじゃないかな。
 確かに、故郷であるカサローサはあんな状態で、帰るような場所では全くないし、カサローサが滅ぼされてしまったことを恨まなかったとは言わないよ。だけど、カサローサが崩壊したからこそ、僕はこうして自由に大陸中を旅していられるんだ。こうして、様々な場所に赴いて、多くの文化や歴史に触れて、沢山の人々と、君たちと、出会えたんだ。今もカサローサが健在だったのなら、あの小さな都しか知らずに今もいたんだろうね。故郷は存続していたかも知れないけれど、それが幸せだったとは思えないかな。
 君たちにカサローサのことを言わなかったのも、ここで過ごした過去よりも、君たちと共有する現在を大事にしたいから——そのくらいは、信じて欲しいものだね」
 だから、過去の歴史など気にせずに——
 背中を支える力強い腕の存在を感じながら、クラウスは目を閉じる。



 言うだけ言って再び眠りについてしまったクラウスの背中を、スカイアが支えた。クラウスに持たせたマグカップの中を覗きこんで彼が渋い顔をしたところから、クラウスはほとんど飲まなかったに違いない。
 滅ぼされた都の守護者が、滅ぼした国に何を見て来たのかは良く分からない。しかし、最初にあったのは恐らく、恨みや戸惑い、寂しさといった感情であったのだろうとリューは思う。当時まだ10歳だったとはいえ、都一つを包む大掛かりな紋章の改修に携わっていたのだ。怒りに任せて国を一つ破壊することなど、クラウスには容易だったのではないのだろうか。
 しかし、彼はそれをしなかった。
 ローゼンハイムという守護者の家のプライドがそうさせたのかもしれない。敵国とはいえカサローサと変わらないであろう人の営みに、懐かしさを覚えたのかも知れない。
 理由はどうあれ、クラウスは復讐などしなかったのだ。今だって、敵国出身であるリューたちと行動を共にし、年長者としてリードしてくれている。
 それ以上、リューたちは彼に何を望むというのか。
 これ以上、リューたちは彼に何を負わせるというのか。
「今回の一件で、一つはっきりしたことがあるんだ」
 ベッドの上で身動き一つしない、クラウスの青白い顔を見ながらリューは言う。
「クラウスだけは怒らせちゃいけないってね。皆も同意してくれるとは思うけど」
 彼の言葉に、その場に居た全員がこくこくと頷いてみせた。










<言い訳>

「お通しして」
 僕はこの、いけすかない人をさっさとやってしまいたいんだから。

 そんなクラウスの脳内台詞を妄想しつつ、クラウスの過去編・異聞録をお届けします。
 それぞれの視点は「クラウス、こう思われていたら良いな」という私の勝手な思い込みで書かせて頂きましたので、違うというお叱り・修正他ありましたらどうぞ遠慮なくがんがんとご指摘くださいませ…! 好き勝手に書いてしまってすみませんorz
 そしてフルメンバーお借りしながら、全員活躍させられなかったとか、私は一体どれだけ皆さんに平謝りすれば良いんですかね、本当に申し訳ないですorz orz orz

 リュー君・ユーヒ君・クロバちゃん・スカイアアニキ・ソフィアちゃん・ヒース君お借りしました、ありがとうございます。
 何か問題がありましたら、ご連絡ください。



登録者:夢裏徨
HP:月影草
Good Day Good Departure企画