風に煽られ



 もう、見たくもない。返してこよう。
 ショックから立ち直り、少し冷静になったわたしは、レポートを手に資料室へと向かった。
 二人は、わたしと同じだと思っていたのに。三人で一緒ならここでも大丈夫だって、信じてたのに。『羽蝶』はがんばってたから、わたしもがんばればいつかは彼女にたどり着けるって、思い込んでいた。
 まずもってのスタートラインが『羽蝶』とわたしじゃ違うだなんて、思ってもみなかったのに――
 道のりは長く、手に持ったレポートは重く、体はだるい。最悪だ。
 背後から聞こえる軽い足音。数秒後に続く衝撃。
 耐える気力はわたしにはなく、そのまま床へと倒れ込む。分厚いレポートはもちろん、手から滑り落ちた。
「何やってんのさ、『勇魚』」
 能天気な声をかけてくるのは、『覇王樹』。『羽蝶』の、片割れ。
 私は彼にどつかれたのか。数秒後にようやく理解した。
 返す言葉はわたしにはない。拾わなきゃ、という思いだけがあって、のろのろとレポートに手を伸ばす。
「つれないなー。同年代のよしみだって言うのに」
 彼はひょいと落ちたレポートを取り上げる。そして、わたしに差し出した。
「同年代って……わたしと『覇王樹』は違うっ」
「いや、本当に同年代だって。……見たんだ、このレポートの中。その様子じゃ、ただ運んでるだけじゃなさそうだね」
 にっこりと笑って、すっと目を細める。
 普段なら、彼のその豹変っぷりに驚いて、怖がったかもしれない。だけど今日は、そんな心の余裕さえもなかった。
「それで、ここに書いてあることは紛れもない真実なんだけどさ。君はそれでどうしたいの? 否定でもしてみる? 僕と『羽蝶』は普通の人間なんだって、信じてみる?」
 軽い口調で告げられたそれに、胸の奥が締められたように痛み出す。
 わたしはどうしたい?
 そんなの、わたしが聞きたい。
 こんなレポートなんて見なかったことにして、今まで通りにできるのなら、それが一番いい。
 だけど、わたしには無理だ。
「……じゃあ、本当に、PresikiaとLosariaは、『覇王樹』と『羽蝶』、なの?」
 恐る恐る上目遣いに彼を見上げれば、彼は満面の笑みで頷いた。
 ――見たくないモノまで見ちまった場合、お前は拒絶するのか、受容するのか。
 『空木』の声が、頭の中で響く。
 あの問いかけは、『羽蝶』に向けられていたはずだった。だけど、もしかしたらわたしにも同じ事を言いたかったんじゃないだろうか?
「そうだよ。だから僕たちは、常に完璧でなければならない。常に天才と言われ続けなければならない。誰も寄せ付けずに、ただ魅せ続ける。
 ヒトの記憶力も演算処理能力も超越し、ヒトの形でありながら、ヒトでないもの」
 それが僕たちだよ、と『覇王樹』は楽しそうに笑っている。
 何がそんなにおかしいんだろう。わたしには分からない。
 ――彼は、笑う、という感情を理解しているの?
「一応言っておくけどさ、基礎はヒトだからね、僕たち。能力はヒト以上かもしれないけど、それでもヒトに混じってヒトとして生きていくんだ。――いや、生きていくはずだったんだ。
 だからさ、『羽蝶』と友達でいてよ」
 反応を示さないわたしに、笑顔の中の彼の視線が、再び鋭くなる。
「それとも、あの子を本当の機械にする気?」
 うつむいて、わたしは『覇王樹』の言葉を反芻する。
 彼女を機械にする? バカを言わないで欲しい。あの子が機械的なのは、最初からじゃないか。
「……仕方ないね。周囲がそういう態度だったから、あの子もそうあるしかなかったっていうのにさ。いいよ、忘れて、全部。むしろ忘れなさい、『勇魚』」
 冷たくかつ威圧的に放たれた言葉にはっと顔を上げれば、『覇王樹』は既にわたしが落としたレポートを拾い上げ、資料室へと歩いていくところだった。
 声をかけることも、追いかけることもできなくて、わたしは壁に寄りかかる。自分の部屋に戻ればいいんだろうけど、立つことすら億劫だ。
 『覇王樹』が帰ってくる気配はない。たまに通りかかる人も、わたしを無視して通りさっていく。
 組織からすれば、わたしなんてただの子供。『覇王樹』や『羽蝶』のように特別な存在ですらない。わたしなんて、どうでもいいんだ。
 ちょっと寒くなってきて、わたしは膝を抱えた。
 冷たい。空気が。ヒトが。  みんな頭の中にあるのは、自分の研究についてだけ。感情も人情も、邪魔なんだ。ヒトとの付き合いだなんて、ただの時間つぶしに過ぎないんだ。
 また、誰かが廊下を歩いてる。
 でも、わたしになんて興味ないに違いない……――?
 くしゃり、と頭を撫でられて、驚きに顔を上げた。
「なにやってんだよ、お嬢。風邪ひくぞ?」
 わたしの顔を覗き込み、にっこりと笑って、彼はわたしの手をとった。彼の手の暖かさに、自分の体温がどれだけ下がっていたのかを思い知る。
「ほら、こんなに冷えきってるじゃねーか。ココアでも貰ってくるか?」
「『空木』……何で?」
 わたしの口から飛び出たのは、うれしさという感情に後押しされた了承ではなく、理性による疑問だった。
 彼ははぁ? と眉をひそめる。当たり前のことを聞くな、というような態度だ。
「何でって、お前、子供が大人に守られるのに、理由がいるのか? 『闇・羽』(こんなところ)にいても、お嬢は子供。俺は大人。だから俺はお前を心配する。
 ……で、立てないなら無理にでも連れていくけど?」
「いい、いいってば、立てるよっ」
 気恥ずかしさに差し出された手を思わず振り払って、わたしは立ち上がった。

 ダイニングには案の定、誰も人がいなかった。
 ここの機械苦手なんだよな、とぼやきながらも、『空木』はココアの機械のボタンを押す。そして瞬時に手を離した。
「うわ」
「どうしたの?」
 無言で彼が差し出してきたコップの中を覗き込めば、そこに入っていたのは粉だけだった。
「……お湯貰ってくる」
「あぁ、それがいい。ここの連中ってのは、自分の実験に関することならすごく口うるさいってのに、日常生活には全く役に立たねぇよなぁ……」
 それには私も同意する。研究施設に並ぶのは最新鋭の新しい機械ばかりだというのに、ダイニングだとかちょっとした休憩室だとかにあるのは、ぱっと見でも古いと分かるような機械ばかり。しかもいつも壊れる。いつものことだと、気にする人がほとんどいないのが原因かもしれない。
 結局私はココアの機械から出た粉にお湯を入れ、ミルクを足すことにした。
 彼はコーヒーを手にしていて、二人申し合わせたかのように、一番隅のテーブルにつく。
「で、お嬢はあそこでなにやってたんだ、本当に。怪我して動けなかった訳じゃないだろ?」
 ココアを啜って、彼を上目遣いに見上げる。言わなきゃダメ? と視線で聞けば、ダメとは言わねぇ、と視線で返ってくる。
「……LosariaとPreskia」
 『空木』に時間を使わせてしまっていることも申し訳なく、最終的にわたしは白状する。彼はただ、そっか、と頷いただけだった。
「……ごめんな。知りたかったんだよな。のけ者なんて、嫌だったんだよな」
 知ってほしくなかったんだ、と『空木』は疲れたような口調で続ける。
 これは彼なりの優しさだったんだ。それを、わたしが無に還してしまったんだ。好奇心に、負けて。
「あの二人だってさ、人間なんだ。頭じゃ分かってる。でも、怖いんだよ。人間でありながら、人間じゃないあの二人が。『勇魚』には、それでも友達でいてほしかったんだよ。二人を理解してほしかったんだ……」
 気まずい沈黙が、わたしたち間を流れる。
 「大人」である彼から紡がれる本心に、なんと言っていいのか分からない。
「……『空木』。あの二人はまだ、実験材料なの?」
「あぁ。言い方は悪いが、誰もが注目しているという点においては、その言い回しが一番正しいだろうな。パソコンの記憶力と、人間の発想力を併せ持つ。これからどんな天才に育っていくのか――興味がないわけがないだろう?」
 彼の話を聞きながら、わたしは顔をしかめた。
 彼の言っていることが分からない訳じゃない。なのに……何て言えばいいんだろう。声は聞こえているはずなのに、内容が頭に入ってこない。どうしたんだろう。頭がすごくぼんやりとしている。熱でも出ただろうか。
「そういや、総指令が近々理扉に出張するらしい。また頭の良さそうな子を連れてくるんだろうな。『勇魚』にも友達、出来るかもしれんぞ?」
 ぼうっとしているわたしの頭を、彼は優しく撫でて笑う。
「トモダチ? できるといいな……」
 わたしも彼に笑い返し――
「お休み、『勇魚』。次目覚める時には今日の事、忘れてろよ」
 ――意識はそこで途切れた。

「さすがだね、『空木』。『勇魚』を幼い頃から手懐けてることはある」
「おいおい、そういう言い方はないだろ?」
 いつからいたのか、どこからともなく『覇王樹』が姿を見せる。彼に続いたのは『羽蝶』だ。
 『空木』は薬の影響で完全に眠りについてしまった『勇魚』を抱き上げる。このまま寝かせておいてもいいが、風邪をひかれてしまっては困る。
「僕は褒めてるのに。でも『勇魚』も『勇魚』だね。薬の味くらい分からないのかな。それとも、気にしないほど君のことを信頼しているのか」
 『空木』と『覇王樹』は年が二十以上は離れている。だというのに、『空木』のことを「君」と呼んでも全く違和感がないのは、彼が持つ雰囲気のせいだろう。弱冠十五才にして、『覇王樹』は人の上に立つことを知っている。研究者というよりは、指導者になるべくして生まれてきたような存在だ。
「そこまで気を回している余裕があったら、俺の方が驚きだね。子供ってのは、会う人全員を無条件で信じてればいいんだよ。それで、『羽蝶』の方はいいのか?」
「あぁ。終わった」
 『羽蝶』には『覇王樹』のようなカリスマ性はない。だからか、感情を見せることのない彼女を警戒する人間は多い。ただ『勇魚』は別で、『羽蝶』を信じきっていた。
 いつか彼女も『覇王樹』のように人の心を掴み、上手に煽動していくようになるだろう。確証はないが、『空木』は確信していた。
 『覇王樹』と『羽蝶』の二人を見下ろしながら、彼は内心冷や冷やしていた。どうにもこうにもこの二人の相手は、慣れることがない。
「お早いことで。で、『羽蝶』。この間の伝言の返答は?」
「拒絶も受容もしない。事実を認識するだけ」
「そうか。じゃあ質問を変えよう。お前は何を求めている?」
「完璧なる脳のコピー。思考とは何であるのか。それは人の手で、機械で再現できるものなのか。――詰まるところ、AIだよ。『空木』」
 『羽蝶』に問いかけたはずなのに、淡々と答えるのは『覇王樹』。
 ようやく『空木』は理解した。『覇王樹』が工学を、『羽蝶』が生化学を専攻した理由を。彼らは最初から、それぞれに特化することで、それそれの不得意分野を補い合うつもりだったのだ。
「だが、結果ならソコにあるだろ?」
「残念ながら、思考できるようになる前の段階のデータがない。そこが一番欲しいのに」
「そっか、あの二人は……そういうことか」
 研究が「打ちきられた」理由。彼らが組織の外にいた理由。もっとも必要であるデータが「ない」理由。
 壊れたように笑いながら廊下を歩いていく『空木』を、『覇王樹』と『羽蝶』の二人は無言で見送った。



「『勇魚』はやっぱり頭いいー! こんなのあたし、わかんないよ」
「それほどでもないよ。私は頭いい部類には入らないって」
「それ謙遜? 過ぎる謙遜は嫌味だよ?」
 歩きながら『斑猫(はんみょう)』が見ているノートは綺麗にまとめられていて、あぁ女の子だな、と私は他人事のように考えていた。
 彼女は五年前、組織に引き抜かれた子だ。当時、私は『羽蝶』とパートナーを組んでいたが、それが有耶無耶になり、新しく入ってきた彼女と組み直したんだ。
  ――そう。頭がいい、と言われて私の脳裏を掠めるのは、『羽蝶』の顔ばかり。高々五年前のことだというのに、詳細が思い出せない。あの時、彼女はなんの研究をやっていたんだったか。パートナーでなくなった理由は、恐らく私の頭脳が彼女のに遠く及ばなかったからだと思うが。
「さすがだなぁ。『勇魚』はいつからここにいるんだっけ?」
「十四年くらい前……になるのかな? 小学校入ってすぐか、そのくらい」
「そんな幼いときに引っこ抜かれるなんて、やっぱり『勇魚』は天才だって!」
 そうかな、と私は曖昧な笑みを返した。
 私は天才なんかじゃない。天才というのは、あの二人のことを言うんだ。
 私は秀才なんかじゃない。どうせ、必要なだけの努力を出来ないから。
 自分では分かっているのに、彼女の前で否定することを、私は許されていなかった。彼女を貶めたくないから。
 ――いつまで私は耐えていられるだろう? 望むことのない、この賞賛に。
 他愛のない会話をしながら、廊下の角に差し掛かる。
 突如飛び込んできた小さな影を、私は避けきれなかった。
 ふわふわとした毛の感触と、体重の軽さに、一瞬猫かとも思った。だけどそれは、数秒遅れて聞こえてきた幼い女の子の声によって否定される。
「ごめんなさいっ」
「Heather。だからあれほど廊下は走っちゃ駄目って」
 Heatherと呼ばれた女の子の声に続くのは、呑気な男の声。『覇王樹』だ。
 彼よりもぶつかってきた子の方が気になって、私は見下ろす。見た目からして、四才くらいか。ここにいるのには不適切なその年齢に、かっと頭に血が上る。
「『覇王樹』っ。こんな、こんな幼い子までここに連れてきたって言うのっ!?」
「見事に思い違いしてくれたね」
 彼は私の目の前まで歩いてくると、真正面から見下ろしてきた。……昔は同じくらいの身長だったのに、いつのまにこんなに高くなったんだろう。
 『覇王樹』はどこまでも冷静で、笑顔を顔に貼りつけたまま。――彼の笑顔は、『羽蝶』の無表情さと同等くらいにやっかいだ。まったく感情を読ませない。
「大体、『羽蝶』がここに来たのだって、四才くらいの時の話じゃないか。年齢としては同じだよ。それと、Heatherはここで生まれたんだ。連れてこられたわけじゃない」
 Heatherを、彼はひょいと持ち上げる。私と同じ目線になった彼女は、目を涙に潤ませて、ごめんなさい、と呟いた。
 何で謝られているのかよく分からずに『覇王樹』を見るが、彼は表情すらも変えてくれなかった。当のHeatherを見ても、何故か身を竦ませるばかり。
「『勇魚』が怖い顔してるから、怖がってるじゃん」
 『斑猫』に指摘されて、ようやく理解すると、私はごめんね、とHeatherに笑いかけた。
「こっちこそ、ごめん。大丈夫だった?」
「うん!」
 私が謝ると、Heatherは屈託なく笑う。その笑顔は安心しきっていて、見ている私の方が泣きたくなった。あんな純粋な子までもが、ここの色に染められていくのか。
 『覇王樹』に下ろしてもらったHeatherは、またぱたぱたと走っていく。彼はおかまいないようで、見事な放任っぷりを見せてくれた。
 二人が去っていくのを見送りながら、こんな幼い子が、とまた考えかけるが、今度は思考がふと止まる。
「Heatherってことは、あの子、サンプル?」
「……そうらしいね」
 『覇王樹』だって、さっき彼女はここで生まれたのだと言っていた。間違いない。でも誰のだろう。第一、工学部の彼が、人型のサンプルを連れていることがおかしい。彼がロボットの研究をしている、という話も聞いたことはないし……そうすると、彼に関係した誰かのサンプルだろうか。
「そっか、『羽蝶』のか」
「あのMagical Scientistの? ふーん、逃げたって言うのに、サンプルは残しといてもらえるんだ? さっすが、魔術に一番近い科学者は、扱いが違うねー」
 ここに本人はいないけれど、きっと本人が知ったら傷つくだろうことを平気で『斑猫』は言ってのける。否定した方がいいんだろうけれど、私には否定できるだけの勇気がなかった。
 それに……『羽蝶』には傷つくだけの感情があるのか、それすらも分からない。
「そう、だね。私たちのだったら、とっくに処分されてるよ。……で、ごめん、逃げたって、何の話?」
「あれ、『勇魚』知らないの? 何日か前にここから抜け出してそのまんま見つからないんだって。いつまで逃げてるつもりなのかな。天才の名前が泣くよね。それに、ここで研究させてもらえるって、すっごい名誉なことだよ? なのに何が嫌かなぁ」
 くすくすと意地悪げに笑う彼女に、私も合わせて頷く。でも、逃げたくなる気持ちも分かるかもしれない。だって、私たちは自分で望んでここにいるわけじゃないから。
「っていうかわかんないな。Magical Scientistは何で女の子のサンプルに植物名つけてるわけ? しかもその彼女だけが『闇・羽』の羽の字をコードネームに冠してるし」
「まぁ、『羽蝶』は何でか昔から、総指令のお気に入りだったから」
 『斑猫』に返事をしつつ、視線を感じて『覇王樹』が去っていった方を見る。もういないと思っていた『覇王樹』はまだそこにいて、にこりと私に微笑みかけると、廊下の角を曲がっていった。
 彼の笑顔に、私は何故か罪悪感を感じた。
 だけど私は悪くない、だって『羽蝶』は裏切り者だから……――




暗黒の雲
月影草