日常の果て



「あ、ミズカおはよー」
 橙の声が聞こえなかったのか、瑞華はそのまま橙の前を通り過ぎた。
「え、ミズカ?」
 挨拶をされれば必ず返すのが瑞華だ。
 その瑞華が返事をしなかったことに橙は少なからず驚いていた。
「あ、はい」
 瑞華もやっと呼ばれたことに気付いたのか立ち止まって振り返った。
「……だからおはよう」
「あ、はい……おはようございます」
「……どしたの、ミズカ」
「どうも……していませんが」
 数秒遅れで答える瑞華に橙は違和感を覚え、瑞華の答えに嘘だ、と確信していた。
 瑞華の視線はいつもと同じように真っ直ぐに橙を見つめていたが、今日の瑞華の視線からは意志が感じられない。
 ぼんやりとしている訳ではない。が、視線も定まっているわけではない。
 眼に見えない何かを、自分の背後の気配を探っているような緊迫した雰囲気が瑞華からは感じられた。
「ま、いーけど。んじゃ、後で」
「はい」
 瑞華はまたすたすたと去っていく。にこりともせずに。
 やっぱり何かある、と橙は思った。
(ま、いいけど。どうせあたしには関係ないんだろうし)


「大丈夫。舞華のほうは私が何とかしてあげるから」
 『羽蝶』は珍しく自分の部屋で携帯を使って話していた。
「ごめんね。私には、ヘザーを守ってあげられない」
『いえ、私なんて構っていただかなくても結構です。
 ……私は、サンプルでしかない。
 私はどうやっても人にはなれないんです』
 だから、と続けようとするヘザーを『羽蝶』は遮る。聞いていられない、と言うように。
「だから何だって言うのよ。サンプルでしかない? ふざないで。
 あなたには意思がある。感情がある。知性もある。
 確かに出生は人工的なものだったかもしれない。
 それでも、私はヘザーの事、妹みたいに思ってるから。自分で自分を蔑まないで」
 ヘザーは小声でありがとうと呟いた。
『……あ、ごめんなさい。もう行かないと授業に遅れちゃうから……』
「引き止めちゃってごめんね。じゃあ」
 通話終了のボタンを押して初めて『羽蝶』は寂しげな表情で溜息をついた。
「どんなに大人びて見えようと、ヘザーはまだ子供。
 ヘザーはまだ保護者が必要な年齢なのに、ね……」
 ヘザーはもう、死から逃れられない。
 組織の外の世界をヘザーが見られたことが、せめてもの救いだろうか。


「でさ、橙はどう思ーよ、今日のミズカ」
 瞳がにやにやと笑いながら橙に聞いてきた。
「橙だって気付いてるんでしょ? 今日のミズカ、いつもと違うって」
「気付いちゃいるけどさ……」
 瞳のその言い方に不快感を覚え橙は答えるまでもないと言葉を濁す。
「あれ、オトモダチじゃなかったの?」
 瞳はそういってけらけらと笑う。
 それが癪に障る橙は完全無視を決め込んだ。
「じゃ、知ってるわけ? あの優等生が今日は上の空な理由」
 知らないし、知っているわけもないと橙は一人毒づく。
 瞳はそんな橙の態度を気にした風でもなく喋り続ける。
「あたしさぁ、ミズカの奴自殺とか考えてるんじゃないかって思うわけよ。昨日の今日でしょ?
 それにぃ、優等生が授業そっちのけで考える事なんてその位だろーしさ」
 橙はまだ何か言い続けている瞳を置いて図書室へと急いだ。
 もし瑞華がまだ学校にいるとすれば図書室しかない。


 瑞華は突然後ろを振り返った。それは学校からの帰り道の途中だった。
 音もなく、紅が宙に舞う。
「……っ」
 突然左肩に走った激痛に瑞華は体のバランスを失い、地面に崩れ落ちる。
 そんな様子とは裏腹に、瑞華の声はしっかりとしていた。
「……何のようですか?」
 銃を片手に出てきた男は楽しそうに、そして嬉しそうに笑う。
「何の用? 分かってるんじゃないの、Heather」
「……」
 瑞華は何も言わない。そんな瑞華をみて男は続ける。
「それとも何、この二年間で全部忘れちゃった?
 それはないはずだけどな。サンプルHeatherはあの二人の自信作。
 天才と呼ばれる人たちの中でさえ更なる天才振りを発揮する。
 それがHeather」
「一体何を……」
 出血の為か、初めて感じる恐怖の為か。瑞華の声は少しかすれ、震えていた。
「まだ知らない振り? やめなよ、諦めな。
 Heatherは『鷓鴣』が開発していた薬の摂取はしていない。だから記憶喪失になっているはずがないんだ」
 撃たれた左肩を庇いながら瑞華、否、Heatherは左腕を地面について上半身をなんとか起こした。
「……今更、何の用が私に?」
「何って処分だよ。流出したサンプルのね。
 後、流出させた本人ももちろん処分されるけど」
 小学生が「今日は鬼ごっこをして遊んだの」と親に言う、そんな口調だった。
「でも、わざわざ『覇王樹』が?」
「最後に話してみたくなってさ。
 人工物がどれだけ人に近づけたのかなって」
 純粋な好奇心だよ、と『覇王樹』は言う。
 Heatherは微笑を崩さず、『覇王樹』も笑顔のままだった。
「何か不満でもある?」
「……私がここにいるからって……誰が普通の人じゃないと思いますか? それなのに私を殺す理由と言うのは……」
 『覇王樹』は小馬鹿にしたように片眉を跳ね上げる。
「へぇ。一体いつからサンプルは人間になったのかな。それに、Heatherの場合は同じものを作れるし。
 だからHeatherのオリジナルを残しておく必要なんかないんだよ。分かった?」
「……全く同じものは決して作れない。それは『覇王樹』もよくご存知の筈」
「それがHeatherはできるんだな」
 『覇王樹』はHeatherの返事を待たずに続ける。
「だってさ、あの二人だよ?
 Heatherがどんな環境下に置かれてたかなんて全て記録が残ってる。
 それに、やれって言われれば完璧にやり遂げてしまうあの二人の性格を忘れてない?」
 手に持ち遊んでいた銃を『覇王樹』は構えなおす。
「それに、これが研究所の決まりだからね。逆らえないよ、誰一人として」
 再び紅が宙を舞い、『覇王樹』は音もなく去っていった。


「『羽蝶』、『羽蝶』?」
 『勇魚』は『羽蝶』の部屋の前に立ち、溜息をついた。
 先程からずっと探しているのに『羽蝶』はどこにも見当たらない。
 研究所にも、資料室にも、自室にも、『覇王樹』の部屋にもいないとなれば残るは一つ。
「……物好き。死に走ってる訳じゃあるまいし」
 『鷓鴣』を助けに行ってしまったのだろう。


 ヘザーは薄っすらと眼を開く。
「ヘザー、大丈夫?
 ……ってあんまり大丈夫じゃないのは見た目で分かってるけど……」
「『羽蝶』……」
 ヘザーのかすれた声ではそれだけ言うのが精一杯だった。
「舞華なら任せて。勝算があるから」
 よかった、と唇だけを動かし、ヘザーはそっと瞼を閉じた。
 『羽蝶』の少しひんやりとした手が、ヘザーには心地よく、安心感を与えていた。
「……舞華、思い出してくれるよね……」
 ヘザーの規則正しい息を確認し、『羽蝶』は祈るような面持ちでそう呟いた。
 ようやく遠くから救急車の音が聞こえてきた。


「誰が居ないんだ?」
「えっと……滝里さんです」
 授業が始まる前、教師の問いかけにクラスの中の誰かが答えた。
「滝里か。じゃ、授業を始める」
「センセー。何で滝里休みなのぉ?」
 そう恐れ気なく聞いたのは瞳だった。
「今日ずっと授業出てないしぃ。何があったのさ」
「俺は知らん。電話にも誰も出ないらしいしな」
 さらりと教師が言った一言に、クラスの全員がはっとなった。
「……もしかして……」
「……まさか……」
「……ホント、だったとか……」
「……あのミズカ、がねぇ……」
 静かだった教室が一気にざわめきに包まれる。
「静かにしろっ」
「じゃあさぁ、センセーは気にならないの?」
 にやにやと橙に「ほら言ったとおりでしょ」と言うかのように目配せしながら瞳は教師に質問し続ける。
「何がだ」
「だってぇ、ミズカ自殺するんじゃないかってぇ噂もあったしさぁ」
 教師の一瞬の沈黙。
「お前らには関係のないことだろ?」
「関係ありますっ」
 つい橙は声を荒げて立ち上がる。
(あー、あたしらしくな)
 と思いながらも、橙はなぜか今瑞華を弁護する立場にあった。
「滝里さんとはずっと仲良くしてもらってました。その滝里さんが何かで悩んでいるのなら私、力になってあげたい。
 私にとって滝里さんが自殺するとかしないとかそういう話は関係ないで済ませられる問題じゃありません」
 そうだそうだ、とクラスメートも同意を示してくる。
「今は化学だっ。授業に集中しろっ」
 橙にはもう返す言葉がなく、ただ黙って授業を聞くしかなかった。


「さっきの橙、すっごいかっこ良かったっ!」
 休み時間に入り教室から出るとすぐに和世がそんな事を言ってきた。橙は何も言えずただ沈黙する。
「やっぱ滝里の友達って俺思った」
「尊敬したよぉ〜」
 他のクラスメートも次々と褒めてくるが、橙は居心地の悪さを感じるばかりだった。
「別に、あたしは……」
「おーい仙川」
 橙の言い訳をしようとする声を遮って教師の呼ぶ声が聞こえる。
「はい?」
 橙が反射的に振り返って返事をすると、A5サイズの封筒を片手にこちらに向かってくる教師の姿があった。
「こんなんが届いてるぞ」
「誰から?」
 周りに居たクラスメートが興味津々に聞いてくる。
 送り主の名を確認しようと封筒をひっくり返して橙は絶句した。
「……ミズカ、から……?」
「え?」
 興奮した空気は一気に冷め、雰囲気が緊迫する。
「……な、何が届いたの?」
「早く……開けてみなよ」
「ゆ、遺言とか言わねぇよな……」
 男子のその一言で再び皆沈黙する。
 もし本当だったら、という恐怖を全員が感じていた。
 しばらく橙も封筒を外から眺めているだけだったが、覚悟を決めて恐る恐る封筒に手をかけた。
「……開けるよ」
 自分宛なのだから同意を求めなくてもいいだろうに、橙は誰にともなく聞いていた。
 眼の端で周りの人が小さく頷くのを確認し、橙は初めて封筒を開いた。
 出てきたのは手紙ではなく、小さな画面のようなものだった。

 青白い顔。
 真っ白な部屋。

「あ……」
 一瞬流れ込んできたそのイメージに、橙はそれを取り落としそうになる。
 数人の生徒が廊下に立ったままの橙たちを邪魔そうに避けながら通っていく。
 遠くでチャイムの音もする。
 だが、橙にとってはそんなものよりもこっちの方が重要だった。
 それに橙の周りを囲っている生徒は誰一人として動かない。皆、真剣な表情で見守っていた。
「……動かしてみたら?」
「……うん」
 橙は震える手でその画面をひっくり返してみたりしてやっと見つけた電源スイッチらしきボタンを押す。
 画面は一瞬明るくなり……そのまま消えてしまった。
「き、消えちゃったっ」
「こ、壊れてるのっ!?」
「そ、そうみたい……」
 生徒たちは皆安心したような残念なような表情でその小さな画面を見つめた。
 その時は誰も、それが人工知能と呼ばれるもので、ただ電源がつかなかったふりをしているだなんて思いもしなかった。


「君が舞華?」
「は?」
 どうやったらその画面の電源が点くだろうかということに気を取られていた橙は、突然問われたその質問にすぐに反応する事ができなかった。
「舞華でしょ。違うの?」
「違う」
 学校内で見たことすらないその男の何とも失礼で自分がいつでも全てにおいて正しいというかのような口調に苛立ちながら橙は短く否定した。
「嘘つかないでよ。じゃ、その手に持っているものは何さ」
「嘘なんかついてない。これは今さっきミズカから受け取っただけ」
 男の子供のような口調に、橙は寒気と恐怖を感じていた。
 男は橙の返答に眉をひそめ、あぁ、と呟いた。
「そういえばHeatherはそんな名前を使ってたんだっけ?」
 男はそう言いながら橙の手からそれを取り上げる。
「返してよっ」
 そんな橙の様子を気にした風でもなく男はそれをいじり続けた。
「……偽物、か」
 どこをどういじってもそれは動く気配を見せなかったらしい。男は橙に突き返した。
 橙は動けず、受け取らなかった。
 そして男は小さな画面を持っていた左手を下ろし、右手をポケットの中に突っ込んだ。
「だけどね、それだけじゃ君が舞華じゃないって証拠にはならない」
 ポケットから出された手には銃が。
 息を呑む音が聞こえる。
 誰かは気を失ったようだった。
 それなのに、橙は妙に落ち着いていて。
「待っ……」
 橙が止めようとする前に男の手が反動で少し跳ね上がる。
 橙は次の瞬間誰かの手によって突き飛ばされていた。
「……間に合ったようだな、『覇王樹』」
 突然現れた女の人はどうやら弾をかわしきれなかったらしい。そしてその女の人こそが橙を突き飛ばした本人のようだった。
 女の人は白衣の右肩を紅に染めながら、しかし大して気にした様子もなく、『覇王樹』に一枚の紙を差し出す。
「仙川橙は白。『鷓鴣』じゃない」
 『覇王樹』は受け取った紙を眺めながら呟く。
「養子縁組……本名澤山橙……」
「そう。彼女は車の事故で両親と自らの記憶を失った。
 仙川博美はそんな彼女を引き取る事を決定、今に至ると言うわけだ」
 女の人は淡々とその紙の内容を説明する。
 その内容に一番驚いていたのは他ならぬ橙だった。
「……橙ってそうだったんだ……。だからお姉さんに会った事もないって……」
「ごめん。あたし全然知らなかった」
 と囁いてくるクラスメートに。
「あたしも実は初めて聞いた……。確かに転校する前の記憶ってあんまりないけど……」
 と橙は返す。
「だから彼女を処分する理由はないはずだ」
「だけどさ、『羽蝶』」
 不機嫌な子供のような口調で『覇王樹』は言う。
「少なくとも橙はHeatherと関わってる。生かしては置けないよ」
「『覇王樹』。どうせ彼女は何も知らない。ヘザーが口が堅いのはご存知の通り。
 それに、ただでさえ反乱がおきるか起きないかのところで抑えているのが現状。反乱分子の口実を増やすのは得策じゃない」
 『覇王樹』はふぅと溜息をついた。
「『羽蝶』。結局君って言うのはどっちの側についてるのさ」
 そして『覇王樹』はゆっくりと銃を下ろし、動じない『羽蝶』を睨みつけて小さな画面を手渡すと去っていった。
「仙川さん?」
 荒い足音が聞こえなくなると同時にまた静かになってしまった廊下で『羽蝶』が口を開く。
「これはヘザーがあなたに託したもの。だから持っていて」
 『羽蝶』はそれを橙に手渡そうと差し出してくる。
「……何ですか、それ。それにはどんな意味があるんですか」
 出しかけた手を引っ込めて橙は聞く。
「それにあなたは誰? さっきの人だって……。何であたしを殺そうとしたのよっ」
「これ、私は時霊と呼んでいたわ。でも今はヘザーと呼んだほうが正しいんじゃないかしら。理由は、すぐに分かるわ。
 私は中央研で研究をしているわ。『覇王樹』は中央研の総司令官という立場に居る」
 そこで『羽蝶』は躊躇った。
「これ以上は今は言わない方がいいと思うの。何かあったら時霊から蒼穹に連絡を入れて。蒼穹は携帯代わりにいつも連れているから。
 それと、滝里さんはあなたのこと、待っているよ。
 ……ちなみにさっきの過去はでっちあげ。仙川さんの本当の過去ではないから、本気にしないでね」
 それだけ言い残すと『羽蝶』も『覇王樹』と同じように階段を下っていった。


「橙、お母さんもう寝るから。橙も早く寝なさいよ」
「……うん」
 家に帰っても橙は事実を母である博美から聞くことが出来ずに一人悶々としていた。
 『羽蝶』。中央研。橙の過去。そしてHeather―瑞華。
 パズルのピースは余りにも多くが失われていて、謎解きしようにも全く足りない。
 扉のしまる音がして再び静かになった。
 『羽蝶』が時霊と言っていた小さな画面は結局何か分からずに机の上に放置されている。
 瑞華の家に電話はしたが、誰も出る気配はなかった。
 『羽蝶』が最後に言った瑞華が待っている、というのはどういう意味なのだろうかと考え続け、結局結論に至ることなく疲れて橙は机に突っ伏している訳なのである。
「ミズカ……。一体何なんだよ……」


 やはり夢の中で「橙」は白衣を着て実験室の中に立っていた。
 今日目の前に在るのはビーカーでもフラスコでもガスバーナーでもない。一本の注射器と幾つもの飼育ケース。
 飼育ケースの中に入っている実験用マウスの大きさはばらばらだった。
「何をやっているんですか?」
 そう聞いてきたのは瑞華。
 前回の夢の中に出てきた時よりも成長してはいるが、まだ実験室の中で働くような年齢ではない。
「ほらこれ、『羽蝶』から引き継いだ実験」
「あぁ……。結局『羽蝶』は『鷓鴣』に引き渡したんですね」
 瑞華は平然と「橙」の事を『鷓鴣』と呼んでいて、「橙」も気にした様子もなく『鷓鴣』という呼びかけに答えていた。
「うん。やっとね。
 未だになんで引き渡したくなかったのか分からないけど……」
「『鷓鴣』はどうして『羽蝶』の実験を引き継ごうと?
 私が聞いた話では『羽蝶』は元々不老の薬を作るのは目的ではなかったらしいですし……」
 橙は何故自分があんなわけの分からない奴の実験を引き継いでいるんだ、と夢に突っ込みを入れる。
「不老は人類の夢だよ。いつまでも老いずにいたいなんて誰もが思ってる」
 瑞華は分からない、と首を横に振った。
「それでも不老……薬によってもたらされた不老ならそれは仮の、物理的な不老にすぎない。
 病気にかからない、というわけでもないですし……」
「そっか。分かんないか。
 仕方ないかもね。人が老いていくのを見たことないでしょ?」
 瑞華は寂しそうに「そうですね」とだけ言って部屋から出て行った。
 橙は再び飼育ケースを見る。
 ノートの記録では全てほぼ同じサイズだったと言うのに、薬の投与から一週間もしないでこれだ。
「テロメアの切断、除去しかしてないはずなのに……」
 夢の中で「橙」がそう呟くと同時に場所は変わり、橙の家に橙はいた。
 橙は一本の注射器を手にしている。
「……ごめんね、ヘザー」
 橙は小さく呟き、その注射器を自分の腕に……。


「……っ!?」
 橙は飛び起きた。どうやら机の上に突っ伏したまま寝てしまっていたようだった。
「あれは……ただの夢じゃない」
 ヘザーという名も、『鷓鴣』と言う名も、確かに橙は知っていた。それは何故か。
「……あれは、あたしの過去……」
 ウィルスによるテロメアの切断と除去。
 言うのはたやすいがテロメアの働きを見ればそれが副作用をもたらす事は一目瞭然だった。
 DNAの両端にあるテロメアはただ細胞分裂の回数の制限のためにあるわけではない。あれは二十三対四十六本ある染色体同士がくっつかないように存在しているのだ。
 それを考えてみればテロメアを除去した後に染色体同士がくっつき正常に働かなくなってしまった細胞が細胞自殺(アポトーシス)を起こすのは必須である。体が縮むのも当たり前だ。
 そして、それを証明しているのが橙自身だった。
 仙川舞華は自分の姉だと教えられたが、違う。橙自身が舞華なのだ。それでは会ったことが全くなくても当然だろう。
 ヘザーは『羽蝶』と『勇魚』による人造人間らしいが、橙、否、『鷓鴣』にとってはそんな事実よりも研究仲間、と言うことのほうが大事だった。
 造られたヘザーは何においても完璧で文句を言うと言う事など知らなかった。
 ヘザーが右目を怪我した時だって、ヘザーが先に何か一言言ってくれれば失明せずに済んだのではないかと思うと同時に、自分の注意力のなさ自分自身をせめるばかりだった。
 橙は机の上に放置されていた画面、時霊に手を伸ばす。
 どうせ点かないだろうと電源スイッチを押すと、意外にも時霊は動いた。
「貴方のお名前は?」
「……舞華」
 躊躇いながらそう口にする。
「舞華さん、ですね」
「……うん」
 時霊から返される無機質な応答が、瑞華に、ヘザーにもう橙は会えないと宣言しているようで、橙の目から涙が溢れた。
「……ヘザーに、会いたい……」
 そんな橙の呟きに、時霊は反応した。


 少女はすぐにでも意識が戻らなければ危ない状態で病院に運ばれてきた。
 両親、親戚、友人、知人の類は未だ見つからない。
 そして非常に危険な状態にありながらも彼女は何かを待ち続けるように変化なく眠り続けた。
「変化は?」
「何も。いいのか悪いのか分からんが」
「少なくとも死に近づいてないって事だけが救いだな」
「あぁ」
 手の施しようがないほどの重傷なその少女に対し、医師たちは希望を探す事しか、出来ない。

 夜中の病院に突然の訪問者が現れ急に騒がしくなった。
「お願いっ。ヘザーに会わせてっ」
 静かな病院の中にその女の子の声が高く響いた。
「ヘザーが死んじゃう前に、ヘザーに会いたいの。お願いっ」
「何処の部屋にいるか知ってるの?」
 同じ言葉ばかり繰り返すその女の子に、一人の看護士がそう尋ねた。
「302号室っ」
 その場に居合わせた病院関係者は顔を見合わせた。
 あの少女の部屋だった。

 ずっと少女に付き添っていた看護士が眠ったままの少女に話しかける。
「あなたの名前はヘザーっていうの?」
 やはり反応はない。
「舞華って名乗る子が来てるんだけど、会ってみたい?」
 脳波が、揺れた。

 青白い顔。
 真っ白な部屋。
 それが、第一印象だった。

 舞華と名乗ったその女の子は病室に入って眠り続けている少女を一目見るなり泣き出した。
「ヘザー、ごめんね、私……。ヘザー……」
 ヘザーと呼ばれた少女は舞華が泣き続ける中、静かに息を引き取った。




暗黒の雲
月影草