日常はいつまでも変わることなく毎日同じように続いていくものだと信じていた。
 でも、日常が絶対だ何て、誰が決められるだろう。



日常の果て



 どこからか微かに音が聞こえてきた。
「……携帯、鳴っていますよ」
 テーブルについていた少女は向かい側に座っていた女の人にそう言った。
「舞華……いえ、橙からじゃないですか?」
 落ち着いた声でそう付け加え、持っていたティーカップを口元に運んだ。
「駄目ね、鞄に入れちゃうと。音が小さくて全然気付かないわ」
 女の人はそう言いながら床に置かれた鞄から携帯を取り出した。携帯はあの独特の音でクラシック音楽を奏でている。
 少女は小さく苦笑した。
「その音でクラシック音楽って、本当に雰囲気崩れますよね」
 そう少女に言われ女の人も苦笑する。
「分かってはいるんだけどね。これで慣れちゃったから今更変えれないのよ」
 そうかもしれませんね、と少女は頷いた。
「もしもし」
『ね、きーてよ。今日さぁ、ミズカがさぁ……』
 途切れ途切れ聞こえてくる電話の相手の声を聴くと、少女は何も言わずに静かに席を立った。
 止めようとする女の人を無言で止め、ベランダに出たようだった。
「……瑞華ちゃんとは上手くいってないの?」
『ミズカと?付き合える奴居るの?』
 電話口から聞こえてきた声は真剣で。
 その後女の人は少し話し、「後は帰ってから聞くから」とまだ言い足りなさそうな相手を止め、電話を切った。
 少女はまだ戻ってこない。
 気を使わせてしまった事を悪く思いながら女の人もベランダに出る。
「ヘザーちゃん……うちの子の事、気にしないでもらえる?」
「気にはしていません。……舞華だって好きでそうなっている訳じゃないから」
 柵に寄りかかっていたヘザーは左肩越しに振り返り微笑んだ。
 空は暗くなり始め、冷たい夜の風がふんわりとヘザーの束ねていない髪を揺らした。
「私、まだ半信半疑なんです」
 そう言いながらヘザーは再び視線を空に向ける。
「橙と舞華が同一人物だなんて……」
 女の人はまたごめんなさいとかすれた声で呟き、ヘザーはそれにいいえ、と返した。
「これは私たち二人が選んだ事ですから。お願いですのでお気になさらず」
 そう言って微笑むヘザーに、女の人はそっと眼を伏せた。
「……何故あなたは、文句を言うという事を知らないの」
「どちらかが我慢しなければならないのなら、私が」
 そう言うヘザーの瞳は、外見の幼さにはそぐわないほど大人びていた。


「おはよー、ミズカ」
「おはようございます」
 朝。いつものごとく図書室に来た橙は教科書が詰まった鞄を派手な音を立てて床に置き、学校のパソコンにログインする。
「今日も朝から何やってんのさ」
 パソコンがのろのろと起動している間やる事もなくくるくると椅子を回転させながら、橙は忙しそうにキーボードを打っている瑞華に言う。
「今度提出のレポートです」
「ふーん」
 橙はやる気のない返事をしつつ、ようやく立ち上がりつつあるパソコンのマウスに手を伸ばす。
「真面目だねー、優等生ってぇ奴は」
「いえ。私は皆さんより時間がかかるのが分かっていますので早く始めるだけですよ」
 そう言って瑞華は淡く微笑む。
 人によっては皮肉や嫌味に聞こえてしまうだろうこの台詞も、瑞華に言わせるとどことなく可愛らしい印象を与えられる。
「なんでもいいけど」
 橙は別にそのレポートに手を付けるわけでもなく、まだ始めてすらいないのだが、提出の前日にやればいいだろうと思っていた。
 とりあえず橙はメールをチェックする。五通くらいきていたが関係なさそうだった為眼も通さずに削除。
 そのままやることなくパソコンを終了させた。
 橙はやる気もなさそうに机の上に頬杖をつくと、暫く瑞華の様子を眺めていた。
「そー言えばさ、今日の化学ってなにやんの?」
「化学、ですか?」
「うん。今日一時間目でしょ?」
 瑞華はそこで初めて左に座る橙に目を向けた。
「今日の一時間目は歴史の筈ですが……」
「はぁ?」
 橙は何を言ってるんだ、というように顔を顰めた。
「何言ってんのよ。今日は木曜日でしょ? 木曜は化学が一時間目じゃない。
 それとも何、いつの間にかまたクラス変えちゃったわけ?」
 そう橙にまくしたてられ、瑞華はまいったな、と苦笑する。
「いえ、今日は火曜日ですので化学は一番最後になります」
「まじっ」
 橙は椅子からがたんと派手な音を立てて立ち上がるとそのまま
「ざけんじゃねーっ。そーゆー事はもっと早く言いやがれっ」
 と叫びながらロッカーへと走っていった。
 瑞華はそんな橙を追うわけでもなく優雅にパソコンを終了させ鞄を担ぎプリントをまとめて手に持った。
 廊下にあるスピーカーから授業五分前を告げるチャイムが聞こえてくる。
 また今日もいつもと同じような日になるのだろうと思いながら、瑞華も廊下のざわめきの中に加わった。


「仙川っ。お前一体これで何回目だっ」
 重い鞄を抱えてようやく教室にたどり着いたとき橙は突然教師から怒鳴られた。
「えーっと、二十三回目ぐらいじゃないかと思われます」
 棒読みで教師にそう告げ、橙は扉近くの席に着いた。
「んなもん覚えるなら年代の一つでも覚えてみろ」
 嫌味にも先日橙が受けた小テストを橙の目の前でひらひらとさせる教師。
(……悪いのくらい分かってるよ)
 心の中でそう毒づきながらばしっとひったくるようにテストを受け取った。
「追試。勉強するように」
 むっとなり橙は瑞華に助けを求めようと教室中を見回した。
「あれ、ミズカは?」
 今朝学校に来ていたのは知っているから、それで瑞華がクラスにいないというのはおかしい。
 突然の急病で倒れたのだろうかと不謹慎な方向に想像力を駆使していると、橙は教師に硬い教科書で頭をはたかれた。
 橙は反射的に手を頭にやる。
「お前な、他人の心配より先に自分のことを考えろ」
 橙は面倒になったのか嫌気が差したのか、今回は反論しなかった。
 教師は黒板に戻りチョークを手に取ると、授業に戻る前に一言、と橙に向かって口を開く。
「少しは姉貴を見習ったらどうだ」
 一瞬何を言われたのか分からずぽかんとした橙だったが、理解すると笑い出した。
 その後教師が何を言ってもその笑いが止まる事はなかった。


「どーしちゃったのさ、橙」
 クラスの後、教科書をばさばさと鞄に橙が放り込んでいると和世が話しかけてきた。
「どーしちゃったってのは?」
 まだおさまらない笑いを必死になって堪えつつ橙は逆に聞き返した。
「突然笑い出すから橙が狂っちゃったのかと心配なんてものをしちゃったりしてるんだけど」
「非常に大きな余計なお世話」
「それは分かってるけどさ」
 ずばずばとした相変わらずの橙の物言いに、和世は苦笑する。
「知りたいなら教えてあげる」
 鞄を持ち上げ橙は言う。
「姉貴を見習えなんて言われたってさ、会った事すらないのにどうやんだよ、なんて思ったらおかしくってさ」
 和世の方を向いてにやりと笑う。
「どうやったらさ、見習えると思う? うちの姉貴」
 橙は和世も笑って、おもしろがってくれると思っていた。
 が、和世は硬い表情のまま。笑みも哀しそうに口元を歪めただけだった。
「……かわいそう」
「かわいそう? 誰が?」
「橙が」
「は?」
 橙がそう聞き返しても和世は暫く黙っていた。
「あたしが? 何で?」
「だって、だって自分のお姉さんだよ? 会った事すらないなんて……。自分の血が繋がってるお姉さんに?
 そんなの、ないよ……。橙は寂しくないの?」
「さみしくないのって……」
 橙には和世が何故そんな事を言い出すのかが分からなかった。あまりの分からなさに、唖然としてしまうほど。
「……そんなこと言われてもさ、一回も会った事ないから実感ないよ? 姉妹が居るって実感。
 小さい頃はずっと一人っ子だって信じてたぐらいだし。
 居ない方が普通だったから突然『私があなたの姉よ』とか言われてもあたし困るし」
 廊下に出ると二人は人の波にもまれた。
 「でも、でも……」とまだ何かを言おうとしている和世に橙は
「じゃ、また後でね」
 と手をひらひらと振って次のクラスへと向かった。


「『覇王樹』っ」
 ノックの音が聞こえるとすぐに部屋の主の返事を待つことなく扉は開かれた。
「『覇王樹』なら外出中だ」
 椅子に足を組んで座っているその人物は持っているレポートのような紙の束から眼を上げることなく、愛想すらないままに事実だけをそう淡々と述べた。
「外出中……って珍しいわね。この部屋から出れないんじゃないかと思ってたのに」
 白衣を着て今さっき入ってきた彼女は手の中にある紙の束を弄びつつ相手を笑わせようと皮肉を込めて言ってみる。
 相手の反応は予想通り、皆無だったが。
「で、何処に行ったのよ。
 総司令直々ってことはそれだけ重要な何かが起こったわけ?」
「『覇王樹』にとっては重要だったんだろう」
 紙の表面をすぅっとなぞり、どこか懐かしむかのように眼を細めた。
「必要最低限しか教えてやるかって言う非常に『闇・羽』内外で役に立ちそうな技術を披露してもらってる所で悪いんだけど」
 白衣の彼女はそこまで一息に言うと、大きく息をつく。
 そして相手をしっかりと見据え、はっきりとした命令口調で続けた。
「教えなさい。『覇王樹』は何をしに行ったの、『羽蝶』」
 『羽蝶』はようやく紙から視線を上げ、じぃっと彼女の顔を見つめた。
 彼女はその視線から自分が何を考えているのかを読もうとする意志を感じ不快になるが、これは『闇・羽』なのだ、仕方あるまい、と自身に言い聞かせる。
 それと同時に、読まれないことを望むのは無駄だと知っている為、思いっきり教えやがれと心の中で彼女は主張した。
 これは彼女と『羽蝶』の今の関係だからこそできる事である。
 『羽蝶』は分かったと言うように目を閉じ、簡潔に『覇王樹』が何をやっているのかをまとめた。
「逃亡者の抹殺と、流出したサンプルの処分」
 『羽蝶』の意志を彼女は読むことができないが、その時の『羽蝶』はどこか淋しげに見えた。それと同時に、そのような態度を取られているということは自分は未だに許される事なく信用も信頼もされていないのだろうと思うと、彼女が今までに『羽蝶』に言ってしまった事、取ってしまった態度がどれだけ『羽蝶』を傷つけていたのだろう、と彼女は罪の意識を感じていた。


 結局、その後の数時間に渡って橙が瑞華と顔をあわせることはなかった。
 そして、ようやく一緒になれたのは化学の授業での事。
 最近になって橙はどちらかといえば瑞華を鬱陶しく感じるようになっているので、気にかける理由などないのだが、それでも瑞華の姿を探してしまうのは小学校の時からの癖と言えよう。
「ねぇー、ミズカぁー」
「はい?」
 瑞華は隣に座っていた女子生徒に声を掛けられて反応する。
「プリント見せて。てか写させて」
 その女子生徒は簡単にそう自分の用件だけを述べた。
 教室は決して静かではないが、彼女の声は高く、無闇に良く響く。
(……やっぱり馬鹿? 写させてって思いっきり教師に聞こえてんじゃん)
 と橙は悪態をつく。
 隣からすっと橙は紙を渡された。そちらの方を橙が見やると、隣に座っていた男子生徒はにやりと笑った。
 読め、と言うことらしい。
 自分はプリントなんか写させてやらんぞと心に決め、橙はその紙を開く。
 書かれていたのはたったの一言。
「どう思う? 瑞華の行動」
 はっとなって橙は瑞華を見、教師を見た。
 教師は聞こえていただろうに、何もしようとはせず平然と授業を進めている。
 橙は瑞華に視線を戻した。瑞華は困ったようにしながらも拒否しているようだ。
 そして気付く。瑞華に写させろと言ったのはこの学校で一番の問題児という噂の生徒、瞳。
 教師の反応は皆無。
 何もできないのだろうが、何もする気がない、というのも事実だろう。
「えぇっ。いいじゃんケチっ」
 甲高い声が耳障りだった。瞳はそのままの調子と声の高さで文句を言い続ける。
 さすがに耐えかねたのだろう。教師がようやく、うんざりしたように止めに入った。
「いい加減にしろ。
 滝里も固いこと言わないで見せてやれ」
「……どうして見せてあげる必要があるんですか」
 数秒の沈黙の後、瑞華はそんな事を言い出した。
「どうしてってそりゃぁ……」
 教師は一瞬言葉に詰まり
「……助け合いの精神だ」
 教室はしーんと静まり返っていた。
 瞳は勝ち誇ったような笑みを浮かべている。
 それもそのはず。
 教師は決して瞳に逆らわない。そうすればここで問題とされるのは瑞華の方だ。
(はめられたな、ありゃ。あんたはどうすんの、ミズカ)
 特に庇うわけでもなく、橙も傍観する。
「助け合いの精神とは、カンニングを援助する、と言うことですか?」
 その瑞華の一言に、教師は怒り任せに怒鳴った。
「どうしてそこまで話が飛ぶんだっ」
「……宿題はテストと同じく自分の力でやるものです。
 それなのに他人のを写す事が許されると言うのなら……」
 真面目に冷静に説明し始めた瑞華とは対照に、教師の顔は真っ赤に染まっていた。
「いい加減にしろっ」
 瑞華は黙り込む。
「これは教師の命令だ。今すぐ見せてやるか、……この教室から出て行け」
 瑞華は表情すら変えず淡々と教科書を抱えて教室から出て行く。
 扉のところで一度だけ振り返った。
「教師である、大人であるあなたが、生徒の言いなりになどなっていてどうなさるおつもりですか」
 やめておけばいいものを、その一言で教師の怒りは最高潮に達してしまい、その後は授業にならなかった。
 橙はそんな教師の事を馬鹿だと思う。一番の原因である瞳ではなくクラス全体がとばっちりを受ける理不尽さ。
 橙はふぅっと軽く溜息をついて教科書をまとめ席を立った。
 たとえ建前だけの友情だとしてもこうなった以上探しに行くしかあるまい。
「仙川っ。お前まで何処に行くんだっ」
「え、授業はもう終わりでしょう、先生。
 今のところ先生の小言より友情の方が大事なんで」
 橙は愛想笑いだけして教師に反論をさせる間を与えずに教室から出た。
「……あんな奴のために、ねぇ……」
 瞳の声が妙に良く響いて。
 なぜか橙にははっきりと聞き取る事が出来た。


 図書室の一番奥の一角。
 そこには中学でありながら高校、いや、大学レベルの本が並んだ棚がある。
 絶対に誰も来ないと言いきれる場所。そこに一つだけ置いてある椅子は瑞華の特等席だった。
 瑞華は腰掛け一息つくと胸のポケットから手帳を取り出し開く。挟まっていたのは黄ばんだ新聞の切抜きだった。
 瑞華はそれを広げた。
『情報求む。
昨日東春国立中央研究所よりとある実験のサンプルが流出したとの事。同時に研究員の一人であるコードネーム『鷓鴣』が行方をくらました。
同研究所、及び政府は『鷓鴣』がサンプルを持ち出した可能性が高いとし、『鷓鴣』の行方を追っている。
『鷓鴣』は二十一歳の女性で……』
 二年前の日付が書かれたその記事が、未だに解決を待っている事を瑞華は知っている。
 何故なら研究員はここにいるし、サンプルもここにあるから。


 橙は図書室に来ていた。
 瑞華なら絶対にここにいると言い切れるし、自信もあった。
 入り口から見回して見える範囲に瑞華が居ない事を確認した橙は奥へと足を進めようとして司書の先生に呼び止められた。
「仙川さん、お姉さんお元気?」
「……は?」
 最近妙に姉の存在を突きつけられるなと橙は思った。
「確か中央研って言ってたわよね」
「あぁ、そんな話でしたね」
 司書の先生は持っていた新聞を橙に見せた。
 かなりくしゃくしゃになっている所からして何かを包むのに使われていたのだろう。
「二年前の記事なんだけどね、何か聞いていない? 捕まったとか捕まってないとか」
「姉からは何も聞いていません」
 記事に眼を通しながら橙は答える。
 記事自体は橙の興味のあるものではなかった。だが、『鷓鴣』というコードネームと『Heather』というサンプルの名前は橙の記憶にあった。


「で、その流出したサンプルと逃亡者って?
 誰とどれのこと?」
 『羽蝶』はばさりと持っていた書類を机の上に置いた。
 一番上に書かれているのはHeatherという名前。
「……懐かしいわね。でも何で今更そんな物を?」
「彼女が育った環境を知れば、彼女が何を考えているか分かるかもしれない、と」
 そう詰まらなさそうに言う『羽蝶』の口調から、それは『羽蝶』の意志でやっている事ではない事が伺えた。
「まだ捕まってなかったなんて知らなかったわ。
 それと、『覇王樹』がまだ諦めてなかったって言うのも」
 『羽蝶』は返事をせず、またそのレポートのページを繰り出した。
「……あの『覇王樹』が諦めるわけがないだろう、『勇魚』」
 その『羽蝶』の一言に『勇魚』と呼ばれた研究員は苦笑せざるを得なかった。
「『羽蝶』が言うとさすが、実感こもってるわね。
 で、『覇王樹』の見込みは? 捕まりそうって?」
 『羽蝶』は短く否定した。
「え?」
 『勇魚』はその返答に不意を突かれた。
「Heatherは戻してもらえない。Heatherは……」
 そして『羽蝶』はそのままレポートのページを繰り続け、最後のページを開くと『勇魚』に見せた。
「これが、上層部の結論だよ」
 そのページにはサンプルHeatherを処分する旨がかかれ、総司令官である『覇王樹』の印が捺されていた。
「待ってよっ。そんなの、私は聞いていないっ」
「聞いていないのはこちらも同じだ、『勇魚』」
 そう言って『羽蝶』は『公孫樹』を呼んだ。
「『公孫樹』、後を頼む」
 数分して部屋に来た『公孫樹』にそう言って『羽蝶』は『勇魚』を促し部屋を出る。
「『勇魚』……『覇王樹』が行ってしまった今、止めることは、上層部の意思を変える事はもう不可能。
 だからね、私は最後にヘザーに意志を聞いたの」
 『羽蝶』の口調の変化。それは『勇魚』に対し友人として打ち明けている事を示している。
「Heatherと連絡が取れるの?」
「……まぁ、ね。
 ヘザーは言ったわ。『舞華をどうしても守りたい』ってね」
 今更ながらHeatherと連絡を取り合っていたことを打ち明けて来る意味はなんであろうか、と『勇魚』は他人事のように考えていた。
「待って。舞華……『鷓鴣』も近くに居るの?」
 そう、と『羽蝶』は平然と肯定してくる。
「舞華の行方は舞華が抜け出したすぐ後にはもう分かっていた」
「でもその時に『覇王樹』は動かなかったわ。
 ……泳がしたの? 『鷓鴣』に必ずHeatherが近寄るだろうと予測して?」
 『羽蝶』はそうなるね、と肯定だけして黙ってしまった。
「……私たちがHeatherなんて作らなければ『鷓鴣』は……」
 『勇魚』の否定的な呟きに、『羽蝶』はただ寂しげに眼を細めた。


『……どう思う? あたし今までミズカって優等生なんだとばっかり思ってたけど、優等生は先生に口答えしないよね』
「そんなこと……言うような事じゃないでしょ」
『何で? ミズカが聞いてるわけじゃないんだしさ』
 表情を変えずにヘザーは運んできた紅茶を女の人の前に置いた。
『あ、塾始まっちゃうから続きは家帰ってからね』
 と、電話は一方的に切られたようだった。
「……大した事じゃないですよ」
 携帯をしまおうとしている女の人にヘザーは言う。
「え?」
「顔に書いてあります。どうして口答えなんかしたんだって」
 ヘザーは微笑み、女の人は苦笑した。
「博美さんに心配されるような事は本当に何も……」
「ヘザーちゃん、一つ聞いていいかしら」
 博美はそう前置きし、ヘザーは無言で博美を促した。
「ヘザーちゃん、もしかして舞華の電話の声、聞こえてるの?」
「……えぇ」
 数秒の空白の後ヘザーは肯定し、すみません、と謝った。
「いやだ、謝らないでよ、ヘザーちゃん。
 ……だからヘザーちゃん毎回電話の時席外すようにしてくれていたのね。ありがとう。
 それにしても余程耳がいいのね」
ヘザーは困ったように笑ってみせる。
「……ただ、眼が悪いのでそれを補うのに……」
「え?」
 博美はその返事に驚いた。
「ヘザーちゃん、コンタクトつけてた?」
「あ、いえ、視力が悪いわけじゃなくて……
 右目、失明しているから……」
「いつから? どうしたのよ?」
 突然慌てだす博美に、ヘザーは「随分前の事ですから」と応じ、何故失明したのかを説明しようとはしなかった。


 夢の中で「橙」は白衣を着、ペンとノートを持って理科室のような、けれどもう少し狭い部屋の中に立っていた。
 目の前の机の上にはガスバーナー。薬品が入ったフラスコが火に掛けられていた。
 「橙」はどうやらその薬品が沸騰するのを待っているようで、まだ沸騰する気配を全く見せないそのフラスコをつまらなさそうに眺めていた。
 その部屋にはもう一人白衣を来た少女、否、女の子と言った方がまだ正しいだろう、がいて。橙はぼんやりと何故そんな幼い子が実験室にいるのだろうかと考えていた。
 一通りの作業を終えたらしく、白衣の女の子が「橙」に話しかけてくる。
「何をやっているんですか?」
「あぁ、この間作ったあの薬品を……」
「加熱?」
 女の子が突然慌てだす。
「そう……」
 女の子は「橙」に向かって走り出し、何かが爆発する音が聞こえ、気付けば「橙」は床に倒されていた。
「ごめんなさい。先に言っておけば良かったですね」
 女の子が「橙」を左手で助け起こしながら自分の罪を告白するようにためらいながら打ち明けてくる。
「あの薬品は一気に沸騰するから……。フラスコの口はあの薬品を沸騰させるのには小さすぎるの。ビーカーとかじゃないと体積の膨張にガラスが耐えられなくて今みたいに爆発するから……」
 そう説明しながら女の子はガスバーナーを止め、ガラスの破片を片付け始める。
 片付けが終わってお礼を女の子に言った所で初めて橙は女の子の顔をまともに見た。
 女の子の右目は出血し、血は涙のように頬を伝っていた。
 しかし、それ以上に橙を驚かせたのは女の子の顔。
 その女の子は瑞華だった。




暗黒の雲
月影草