「いいご身分ね」
 紅葉が教室に入ろうとするなり、そんな言葉を叩き付けられた。
「どこに行っていたかは知らないけど、あの二人と一緒だったんですって?」
「あの二人?」
 和子は、首を傾げた紅葉を鼻で嘲笑う。
「決まってるじゃない。あんたがお近づきになりたがってた二人よ」
 ふと思い浮かんだ疑問を、自分の首を絞めると分かっていてながらも、紅葉は和子に訊かずにはいられなかった。
「もしかしてさ、白川さんも二人とお友達になりたいの?」
「ば……馬鹿なこと言わないで頂戴っ。そんなことある訳……」
 かつんと、何か物音がした。
 小さいけれど、存在感があったその物音は、和子を止めるのに十分だった。
 かつん
 その音は足音にも似ていた。だけど、高すぎる。
 かつん
 もう一度、同じ音。
「何なの、この音」
 何処から聞こえてくるのか、何が原因なのかがさっぱり分からない物音にいらつきながら和子が言う。
「……私に聞かれても……」
 かつん
 また同じ音。
 紅葉と和子は辺りを見回した。何処から聞こえてもおかしくなさそうな、けれども気になるその物音は原因を探し当てるのに苦労する。
 紅葉が目の端に捕らえたのは、廊下の端に座り込んでいた人影で、その人は紅葉と目が合うとにやりと笑った。
「あの人じゃない?」
 その人の何かを投げる仕草の数秒後に、またかつんという音。
「全く、人騒がせな」
 そう言って二人が一安心したのも束の間の事。
「伏せてっ!」
 廊下に突然響いたのは玉桜の声。
 かつんと響いた音はぱりんという何かが壊れる音に変わり、ついでにばちっという火花の散る音までもが聞こえた。
 慌てて伏せた紅葉の和子の上にぱらぱらと音を立てて何かが降りそそぐ。
 横を、誰かが音もなく走っていく気配がした。
「……大丈夫?」
 静かになった廊下で紅葉が恐る恐る顔を上げると、少し暗くなった廊下に立っていたのは玉桜だった。
「一体、何が……」
 やっと言えたそのセリフは、紅葉自身にも分かるほどにかすれていて、震えていた。
 和子も隣で身を起こしていて、床に散らばった何かをそっと注意深くつまみ上げていた。
「ガラス。一体、どこから……」
「蛍光灯です」
 そんな簡潔な返事は、玉桜とは反対の方向から聞こえた。
「雅沙羅。さっきの……」
「すみません、逃げられました」
 紅葉は何も言えずに浅い呼吸を繰り返しながら、ただ上を見上げた。確かに蛍光灯が割れていると、ぼんやりしながらできるのは、その程度の事実確認だけだった。
「冗談じゃないわっ。私たち死んでたかもしれないのに、どうしてそうやって平然と逃がすのよっ、この人殺しっ」
 ヒステリックな和子の声に、紅葉にも分かる程あからさまに雅沙羅はその表情を凍り付かせた。
「愉快犯かもしれませんし……」
「だからって死なないとも限らないでしょ……っ!」
 ざわざわと集まり始めた人の中に教師の姿を見つけると、彼らに任せるように雅沙羅は自分のクラスへと戻ってしまった。それを横目に玉桜は和子たちの側にしゃがみこむ。
「あぁ言ってるけど、雅沙羅は動いてくれる筈だから……すぐに、解決するよ」
「神さん?」
 玉桜は自分の頭上から聞こえてきた声に、彼女ははい、と応える。
「何があったの」
 そこに立っていたのは瑞穂だった。

「なるほど……」
 面談用の小さな部屋で玉桜がした簡単に説明に、瑞穂は暫し考え込む。多分ではあるが、和子と紅葉の二人は巻き込まれただけだろうというのが、彼女の結論だった。
「白川さんと高柳さんはもう行っていいわよ」
「じゃあ失礼します」
 個室には玉桜と瑞穂だけが残されると、瑞穂は静かに質問を重ねた。
「で、あなたは何を知っているの」
「さっき話した事、が大体ですけど……」
 玉桜は質問の意図を捉えかねているらしく、不思議そうな顔をして首を傾げた。
「あれだけじゃない筈よ。神さん……いえ、桜」
「……」
「桜なんでしょ? 高校の時に、一緒だった……」
「……何でばれたかな。やっぱり一番最初に間違って瑞穂って呼んだ、あれ?」
「そっちは気付かなかったわね……」
 瑞穂はそれを思い出そうとして考え込みかけ、違う、と自分に言い聞かせるように首を振った。
「何でまだ高校なんかにいるとかなんで姿が変わらないとか、聞きたいことは沢山あるけど、今一番重要なことはこれね。今回のこの事件、原因を知っているの?」
「え、えぇっと、一応……」
「で、原因は?」
 気まずそうに笑う玉桜は、放っておけば誤魔化して逃げてしまいそうで、瑞穂は更に追及する。
「じ、実は私……」
「は?」
 瑞穂は何をやらかしたんだ、という疑惑の目で玉桜を見る。
「あの時、瑞穂と一緒に高校にいた時のあれ、適当に処理しとけって言われたんだけど、失敗しちゃって……」
「……どじ」
「うぅ……だから私ちゃんとここにいるのに……」
 玉桜は、遠慮も配慮もない瑞穂の言葉に泣き真似をして見せた。
「いるだけでどうするのよ。何かが起こる前に止めてみせなさいよね」
「……んな無茶な……」
 溜息混じりに玉桜は時刻を確認する。六限目も後半に差し掛かっていた。
「もう一つ訊いて良い? 雅沙羅っていう子は、片割れ?」
 えっと玉桜は目を丸くする。視線を宙に泳がせる辺り、瑞穂の勘は当たっているらしい。
「じゃあ、その子も関係しているんでしょ?」
 彼女の答を待たずに続けると、更に目を丸くして玉桜は苦笑する。
「どうしてそう自信ありげに……」
「自信があるもの」
 堂々と言いきった瑞穂に観念したのか、玉桜は両手を挙げた。
「そこまで分てるんじゃあ、私が付け足すことなんてないって。とにかく今回は雅沙羅と二人で気をつけてるから、大丈夫だろうとしか言えないよ」
「今回はヘマしないのよ?」
「分かってるから! とにかく、今のところ私が言えるのはこれだけだらか、そろそろ帰っていい?」
「そうね……私も行かないと」
 どす、だとか、かきーんだとかいう物騒な音を二人が聞いたのは、二人して立ち上がった、丁度その時だった。

「……家庭科室とはまた危ない場所を選びましたね……」
 飛んでくる包丁を驚きもせずにかわしながら、雅沙羅は苦笑混じりに呟く。包丁は後ろの壁にどすっと音を立てて突き刺さった。
 家庭科室にいるのは三人。窓側の教室後方にいる冷静な雅沙羅と、彼女の近くで座り込んだ、一房の髪が切り落とされてしまっている紅葉。そして廊下側の扉近くで、飛んできた包丁に運悪く当たってしまったのか腕から少量の血を流している和子だ。
 包丁は、誰もいない黒板近くから飛んできている。
「そこで平然としてないでどうにかしなさいっ」
「そうですね……凶器はなくなりそうにないですし……」
 どすっと音がして一本の包丁が紅葉のすぐ脇に突き刺さった。紅葉は小さく悲鳴を上げる。
 そこでがらっと開いた扉に、誰が入ってきたのかなど確認もせず、宙に浮かぶ包丁を見据えたまま雅沙羅は言った。
「白川さんを頼んで良いですか?」
「あぁ、うん、頼まれた」
 入ってきた玉桜は玉桜で状況確認などせず、雅沙羅に言われた通り、へたりこんでいる和子に手を伸ばした。
「そちらの要求は何でしょう」
 静かな雅沙羅の問いかけに、答えるかのようにゆっくりと包丁は引き抜かれると、誰もいない筈の宙から声がした。
『死んでみろ。反逆者め』
 玉桜同様に、和子に手を貸そうとしていた瑞穂はその単語を反復する。
「……反逆者? 反逆者って何の話よ」
「……それはお答えできません。本人に直接訊いてください」
 玉桜は目を伏せ、早く行きましょうと瑞穂と和子の二人を促した。
「私が死んだら、その子はどうなりますか?」
 雅沙羅はあくまでも冷静に、紅葉の横、何もない空間に問いかけた。
 呆然と成り行きを見守っていた紅葉は、全く同じことがあったのを思い出していた。状況どころか台詞も、そして声までもが紅葉の記憶と一致する。
『こんな小娘必要ない。解放してやる』
「駄目っ。諒闇さん、死んじゃ嫌っ! 私はこれ以上私の為に人に死んで欲しくないっ」
 そう叫んだ紅葉の目は、いつの間にか涙で一杯になっていた。
 玉桜は躊躇いながらも扉を閉めると、雅沙羅は宙に向かって何かを呟く。そして彼女は、座り込んだ紅葉と視線を合わせるように膝を折った。
「……覚えていたのですか。まだあんなに幼かったのに」
「え?」
 紅葉は雅沙羅のその一言に唖然とした。
 そのセリフは雅沙羅があの、紅葉の記憶が正しければ十年以上前の、あの場面に居合わせた事を示している。幼かった、という言い回しからして、雅沙羅はその時少なくとも子供ではなかった筈だ。
 一体何が起こっているのだろうかと、紅葉は細く、今にも途切れてしまいそうな記憶の糸を必死になって辿る。
 やっとの事で思い出した記憶の中の一場面に存在しているそのお姉さんと、雅沙羅と優しい笑顔が重なった。
「貴殿が忠誠を誓うのは」
 雅沙羅のいつもより更に堅い言葉が、紅葉を引き戻した。
『天皇陛下ただお一人』
「貴殿が敵と認識するのは」
『神武の末娘。天皇陛下に忠誠を誓いながら、刃を向けし者』
 まるで謎掛けのような雅沙羅の言葉だが、その返答にも躊躇いはない。
「神武の血は、半世紀ほど前に途絶えました。貴殿が忠誠を誓った天皇陛下も、もう崩御されておられます」
『それは真であるか』
 愕然とした声と共に、浮かんでいた包丁がからんと下へ落ちる。
「どうか貴殿も向かわれてください。貴殿の主の元へ」
『あぁ、そうだな。あの方はきっと待っておられる……』
 すまなかった、という小さな囁きと、頭を撫でる感触を残してその声は消えた。
 黙祷するように、雅沙羅は暫く顔を伏せていた。



 その場にいたのは二人。軍服を着た軍人のおじさんと、私服のお姉さん。
 あたしは軍人さんに捕まえられていて……のど元に刀も当てられていたから怖くて、すごく怖くて動くに動けなかった。……本当に怖かったんだから。殺されちゃうのかって。
 お姉さんの方は、この人が取り乱すことなんかないんじゃないかって思えるぐらい冷静に軍人さんを見つめていた。そして、ゆっくりと口を開いてこう言ったんだ。
「そちらの要求は何でしょう」
 って。そしたら小さな瓶をお姉さんに投げて、軍人さんはこう即答した。
「死んでみろ。反逆者め」
「……はんぎゃくしゃ?」
 そう反復したあたしの前で、受け取った小瓶を手に、お姉さんはこう訊いたんだ。
「私が死んだら、その子はどうなりますか?」
「こんな小娘必要ない。解放してやる」
 機械的なその答えに、お姉さんはやっぱりって思ったんだと思う。
「ならば、私が取るべき行動は一つですね。その子の自由と引き換えです」
 最後までやさしい顔でお姉さんは小瓶の中身をあおって、そのまま倒れ伏した。
「……馬鹿めが」
 軍人さんはそう言ってそのままきびすを返し、あたしを残して去っていった。
 あたしは何も出来ず、倒れ伏したままのお姉さんを見つめていた。
「……死んじゃった、の……?」
 近寄ってみる。動かない。
 手に触れてみる。……氷のように冷たかった。
「……やだ……死んじゃ、やだよ……」
 いつの間にかあたしの頬は涙にぬれていて。
 いつの間にかあたしは誰かに抱かれていた。
「大丈夫。安心して」
 顔を上げると、さっき倒れていた筈のお姉さんが優しくあたしの頭を撫でていた。
 その後、あたしはお姉さんにだっこされて家まで送ってもらった。
「あのね、あたしね、もみじっていうの」
「紅葉。綺麗なお名前ですね」
「おねーさんは?」
「私? ……アサラ」
 アサラと名乗ったお姉さんの、優しい笑顔が記憶に焼き付いた。



 瑞穂は気まぐれに自宅の本棚を整理していた。大体の本は何度も読み返している為、暗唱までは出来ないがあらすじだったら述べる事が出来る。
 そんな中で一冊、黒い表紙で題名のない本を見つけた。
「……なんだったかしら、これ」
 引っぱり出して表紙と裏表紙を見るが、やはり何も書いていなかったため、彼女は仕方なく表紙を開いた。
「……ブラックリスト……」
 そういえば、と瑞穂は思い返す。父親がどこからか持ってきて見ておくようにといったものだ。ここに載っている人には何があっても近寄るなと。大した興味がない瑞穂は、一度見ただけでしまってしまったのだが。
 瑞穂は弄ぶようにぱらぱらとページをめくり、通り過ぎてしまったページに一瞬見えた見覚えのある顔を見る為に少し戻る。
「あ……」
 そのページに載っていたのは数日前に会った生徒の顔。
『諒闇雅沙羅
 天皇の崩御を願うもの』
 顔写真の横につけられた説明を見て、瑞穂ははっとなる。
「……諒闇……。意味まで、考えてなかったわ……」
 あの時の聞こえた「反逆者」という言葉が、耳に蘇る。
 けれど彼女が反逆者であるなど、瑞穂には信じられなかった。




Eternal Life
月影草