束縛からの解放



「死んでみろ、反逆者め」
「……はんぎゃくしゃ……?」
「私が死んだら、その子はどうなりますか?」
「こんな小娘必要ない。解放してやる」
「ならば、私が取るべき行動は一つですね」



 紅葉が廊下で擦違ったのは二人の女子生徒だった。
 一人は神 玉桜。いつでも明るくて、生徒会役員でもやっているんだったか、結構有名な人だ。同じクラスだが、話した事はあまりない。
 もう一人の名前を紅葉は知らないけれど、一瞬聴こえた彼女の声をどこかで聞いたことがあるような気がして首を傾げた。同い年の筈なのにかなり大人びた雰囲気で格好いいと思うと同時に、安心感を覚える。しかし、違うクラスで名前すら知らないのだから、聞いたことのあるはずがないと紅葉は思う。
 立ち止まってぼんやりと去っていく二人の後姿を紅葉が眺めていれば、嫌味な声が彼女を我に返した。
「そんなところに突っ立って何をやっているのかと思えば」
 紅葉が振り返れば、彼女のクラスの学級委員が嘲笑いながら腕を組み、壁に寄りかかっていた。もちろん、側には一人の男子を従えて。
「あの二人とお友達にでもなりたいの? 無理よ無理。諦めなさい。あんたみたいな馬鹿な奴に、あの人が構ってくれるわけないじゃないの」
 神さんの方は人がいいから突き放すような真似はしないでしょうけど、と嫌みったらしく付け加えた。
 白川和子。何でこの人が毎回毎回学級委員に選ばれるのだろう、と紅葉はいつも思う。
 最近になって至った結論はこれだ。きっと皆怖くて彼女に票を入れるように強制されているのだろう。ただ、実際がどうであるかは紅葉には知りようがないが。
「あの人って頭いいの?」
 和子は驚きで目を丸くし更なる嘲りの色を浮かべた為に、すぐに紅葉は和子にそう漏らしてしまったことを反省した。
「そんなことも知らないなんて、やっぱり馬鹿ね。この学年でB組にトップが集められてるのは知ってるでしょ。そのB組の中でもトップを走ってるのが彼女、諒闇雅沙羅」
 私は例外でA組にいるけど、と自分が頭がいい事を見せ付けるのを忘れない辺り和子らしい。
「……諒闇雅沙羅……」
 噂だけならば紅葉も聞いたことがあった。
 B組の中で群を抜き、問答無用で学年トップの成績を弾き出し続ける天才で、その完璧主義な性格と穏やかな物腰から、先生・生徒問わず絶対的な信頼を集めているのだとか。ただ、あまりにも完璧すぎる頭脳と性格の良さから、近寄りがたさを感じる生徒も多い。
 そんなすごい人に会ってしまったと、紅葉は雅沙羅の顔を思い浮かべてみる。
 普段からあまり物覚えのよくない紅葉は、一瞬見ただけでは頭の中に顔や声を思い浮かべる事は出来ないというのに、雅沙羅だけは容易に思い出すことが出来た。
 やっぱり誰かに似ているんだろうかと紅葉が悩んでいれば、どつかれた。
「いたっ」
 紅葉は思わず声をあげ、視線を上げると、そこには和子がいつも連れている男子がいた。
「そんなところで悩んで立ち止まらない。迷惑でしょ」
 刺々しい言葉を最後の最後まで紅葉に言い放って和子は教室の中に入っていく。
 唖然としていた紅葉が少し周りを見回すと、そこは教室の出入り口の真正面で確かに邪魔だろうと納得はする。だがもう少し言いようがあるんじゃないか、と思いながら紅葉は階段へと向かった。

「……瑞穂」
 何時からそこに人がいたのか、ぼんやりとしていた瑞穂は全く気付かなかった。
 声を掛けられた方を見上げれば、調度その女子学生の背後から太陽が射していて眩しい。瑞穂は目を細めながらも、微笑んで彼女を促す。
「座ったら?」
 彼女は頷き、瑞穂の横に腰を下ろした。
 名前を知らない少女だった。この学校で教師になって数年が経つが、瑞穂だって全校生徒を知っているわけではないから、名前を知らないことに疑問は感じなかった。
「先生はいつもここにいるんですか?」
 瑞穂はその女子生徒の質問に苦笑する。
「いつも、ではさすがにないわ。仕事もあるからここにずっと居る訳にもいかないし。雨の日は基本的に来てないしね」
「じゃあ、理由を聞いてもいいですか。先生がここに来ている訳を」
 瑞穂は真っ青な空を、どこまでも果てしなく続く大空を見上げた。
「……なんかね、懐かしいの。理由は覚えてないけど、大事な場所だったんじゃないかって」
「大事な、場所……?」
 瑞穂に先を促すように、女子生徒はそう反復する。
「あれは私が高校の時じゃないかしら。何でか屋上に来ていて……でも何で来てたのか思い出せないのよ」
 座ったばかりだというのに女子生徒は立ち上がる。スカートの裾がふわりと揺れた。
「思い出せるといいですね。懐かしいと思えるのなら、悪い思い出じゃないから。……誰かの受け売りですけど」
 にっこりと笑ってスカートの裾を翻しながら階段を駆け下りていく彼女を見やりながら、瑞穂は一人呟いた。
「悪い思い出じゃない、か……。なら、何で思い出せないのかしら」
 瑞穂の口から漏れ出したその呟きは、風に流され消えていった。

「あ……」
 紅葉は図書室で窓際の端の椅子に腰掛け足を組んで本を読んでいる長身の影を見つけ、駆け寄った。
 しかし、日焼けした紙の小難しそうな布張りハードカバーの本を、一心不乱に読んでいる雅沙羅の集中を乱すのは気が引けて、紅葉は立ち尽くす。
 紅葉がどう声をかけようかと悩んでいれば、彼女の気配に気付いた雅沙羅が顔を上げ、にこりと笑った。
「どうされました?」
 彼女の笑顔と声に、覚えていると直感した紅葉は、どきりとして飛び上がる。
「えぇっと、ううん、何でもないの。ごめんね、読書の邪魔して。えっと、私に構わず続けてっ」
 ただ促されただけだというのに、紅葉はうわずった声で謝った。そんな彼女の様子に、雅沙羅は困ったような笑みを浮かべる。
「私は構わないのですが……では、お名前だけでも」
「私ね、高柳紅葉っていうの!」
 名前を訊かれたことに浮かれていた紅葉は、高柳紅葉、と口の中で繰り返した雅沙羅が一瞬、記憶を照らし合わせるかのように目を細めたのに気付かなかった。
「諒闇雅沙羅? その子と付き合うの、止めることを勧めるけど?」
 和気あいあいとした雰囲気に水を差すように、冷ややかな声をかけてきたのは和子だった。彼女はやはり、男子を従えている。
 やっぱり友達にはなれないんだろうかと、ばくばくと高鳴る心拍を訊きながら、紅葉は雅沙羅と和子の顔を交互に見遣る。そんな彼女と目が合った瞬間、雅沙羅は微笑んだのだ。その表情の意味を取りかねていると、雅沙羅は口を開いた。
「紅葉。綺麗なお名前ですね」
 その一言に、世界中の時が止まったかのようだった。
 次の瞬間、紅葉は名前を褒められた嬉しさに、和子は自分を無視された怒りに顔を赤らめる。
 と突然、雅沙羅は本を脇に抱えて席を立ってしまった。
「すみません、どなたかが呼んであるようなので、失礼させて頂きますね」
「待ちなさいよ、そんな見え見えの嘘なんか吐いてっ!」
 和子はヒステリクに叫ぶが、申し訳なさそうな顔で出て行った雅沙羅が嘘をついているように、紅葉には思えなかった。
「生意気。頭いいからって何やっても許されるとでも思い込んでるわけじゃあるまいし」
 まだなにやら雅沙羅についてぶつぶつとと文句を言っている和子をその場に残し、紅葉はそそくさとその場を去った。

 午後、和子の機嫌は更に悪かったのはもちろんの事ながら、和子を無視した雅沙羅のせいである。
 皆がこれ以上機嫌を損ねないように、と和子を避ける中、命知らずにも話しかけた人がいた。
「白川さん、どうしたの? そんなに怒っちゃって。ストレス溜めると身体にも精神にも良くないよ?」
「神さん、言葉には気をつけたほうがいいんじゃない?」
「いや、私はただ単に白川さんの身と精神の健康の心配をしてるだけなんだけど……」
「余計なお世話って言葉、覚えておきなさいっ」
 和子ににらまれても玉桜は動揺することなく、困ったような笑みを浮かべるだけだった。
「余計なお世話って知ってるし、わかってもいるんだけどほら、心配せずにはいられないって奴?」
「そういうのが余計なお世話だって言ってるのよっ」
 そう怒鳴られるとようやく、玉桜は微かに顔を顰めた。恐らく和子の声が耳に響いて痛かったのだろう。
「えっと、まあとりあえず落ち着いて。何で白川さんはそんなに怒ってるの?」
 落ち着いてだなんて焼け石に水どころか火に油を注いでいるようなもんじゃないかと紅葉は思わなくもない。それでもあえて首を突っ込むのは面倒を引き起こすだけなので開きかかった口を彼女は閉じなおした。
「……」
「何? ごめん、聞こえなかった」
「だから諒闇雅沙羅だって言ってるのよっ。耳遠いんじゃないのっ」
 諒闇雅沙羅、と言う名前を聞いた途端、まるで面白いいたずらを思いついた子供のように、玉桜の瞳がきらりと光る。
「あ、やっぱりさっき雅沙羅と話してたの、白川さんだった? ごめん、ちょっと急用があったから借りたよ」
「借りた? 諒闇雅沙羅を?」
「うん。生徒会の会計がなんか合わなくてね。雅沙羅に確認してもらうと早いからつい」
 悪びれもせず舌を出す玉桜に、さすがの和子も毒気を抜かれたようだった。
「ふぅん。誰かが呼んでたのは嘘じゃなかったのね。てっきり逃げたのかと思ったのに」
「ごめん、急いでたんだ。だから怒らないであげてね」
 あくまでも信じそうにない和子に、玉桜は軽く肩をすくめる。
 そんな会話を聞きながら、紅葉は雅沙羅への憧れを強めていた。

 紅葉は雅沙羅と話したくてうずうずしながらも、会えば緊張で声も出ず、逃げるようにして避け続けていた、そんなある日のこと。今からとある先生喋りに行くという玉桜の誘いを受け、紅葉は初めて屋上に踏み込んだ。
 平然と「お久しぶりです」とか言って挨拶している玉桜を、紅葉はつつく。
「何で諒闇さんがいるの」
「何でって……仲悪かったっけ?」
 逆に真面目な顔で訊かれ、なんと返して良いかも分からずに紅葉は戸惑った。
「いや、そういうわけじゃないけど……」
「なら問題ないね」
「……だから……というか、神さん、なんで誘ってくれたの?」
 なんとマイペースな人なんだろうか、と紅葉は思う。雅沙羅はどこか、子供を見守る母親のような眼差しを見せていた。
「何でって……暇そうだったから?」
「それで、私がその暇潰し要員なのね?」
 そう、どこか憮然とした表情で口を挟んだのは、先に屋上に来て玉桜を待っていた先生だった。
「いやだなぁ、そんなことは言ってませんよ」
 と、玉桜はころころと笑う。
 のんびりとした雰囲気の中、雅沙羅と話している緊張が解けた紅葉は、彼女らの豊富な知識に驚かされながらも楽しい時間をすごした。
 本当はもっと話していたかったのだが、チャイムの音が無情にも響き渡り、授業再開を告げる。
「それじゃあ失礼します、先生」
 玉桜は鮮やかに笑って裾を翻し、雅沙羅も軽く会釈して続いた。
「うわ、待ってよ二人ともっ。神さんっ、諒闇さんっ」
「玉桜っ。桜でいいって言わなかったっけっ?」
「聞いてないよっ」
 紅葉もそう返しながら慌てて走っていく。
 一人残された先生は、今さっき聞いたばかりの名前を反復する。
「桜……神玉桜……」
 その名が、思い出された遠い昔の友人の名前を一致し、先生――瑞穂はすぅっと目を細めた。
「……まさか、ね」

「えーっと……あ……アクア……だったかしら」
 記憶の底から名前を引っ張り出す。
 日記なんてつける意味なんかないと思っていたが、今は日記を何故つけていなかったのだろうと自己嫌悪に陥っている。しかし後悔しても無駄で、今は自分の記憶だけが頼りだ。
「これで二人……」
 そう呟くと、瑞穂は意識の底の方からおいでと招かれている気がした。その声に身をゆだねると意識が闇に飲まれるような感覚に包まれ、次に瑞穂が見たのはあの四人だった。
「お久しぶりです、瑞穂」
「えっと……マ……」
「マラティアです」
 そう言ってマラティアはにっこりと笑った。それは、「昔」から変わっていないようだ。
「てめぇ、名前すら忘れやがったのかよ。薄情な奴」
 この口の悪さはアクアだと瑞穂は勝手に決め付けるが、それが本当だと彼女が知るのはまた暫く後のことだ。
「名前は……後で思い出しておく。それでいいね?」
 断定する瑞穂に、えぇ、とマラティアは頷き、アクアは嫌そうな顔をする。
「ねぇ。神玉桜。あの子は誰?」
「誰っててめぇ、自分の友達だったやつのことまで忘れちまったのかよ。本気で薄情だな、てめぇって奴は。ってかよ、友達だったんだからてめぇのほうが良く知っててったりまえだろ?」
「……その言い方は、ないんじゃ……」
「黙ってろっ」
 アクアの叱責に、少年は身をすくませた。
「ご、ごめんなさい……」
 一方的ないい争いともいえないような虐めを横目に見ながら無視して、瑞穂はマラティアに問う。
「あの子だよね。髪の毛はおかっぱで、目は大きめ少したれ目の。ぽちゃっとした感じで……」
「私たちの名前は覚えてないくせに、よくそんな詳しい事まで覚えてらっしゃるわね」
 高飛車の声。さっきまでずっと黙っていた女の子だ。
「神玉桜はそんな子だったんだね?」
 高飛車なその反応に確信しつつ、瑞穂は念を押す。あまりの瑞穂の真剣さに、アクアも気圧されうろたえた。
「えぇ。そんな子でした」
「さっき屋上でいた子と……」
 先の言葉を肯定したマラティアは、瑞穂が何を聞こうとしているのかを瞬時に悟り、無言で頷いて更なる肯定の意を示す。
「……どういうこと?」
 瑞穂は暫し考えて口を開く。
「……私は、神玉桜の容姿を覚えていたわけじゃないの。さっき屋上で会ってきたの。年恰好すら変わっていない、神玉桜を」




Eternal Life
月影草