血塗れの記憶



「そなたの大事な神武雅沙羅が、反乱軍に盗られた。取り返したいか」
「もちろんっ」
「ならば手を貸せ」
「……え」
 徐に告げられた「真相」に勢い良く反応した結だったが、続いた言葉には戸惑ったようだった。そんな結の反応を喜んでか、にやりと雅沙羅に嗤いかけて‥‥は続ける。
「案ずるでない。やるべきことは簡単だ。諒闇雅沙羅を、殺せ」
 あっさりと告げられた言葉は余りにも残酷で、後ろで悲鳴を上げかけた女官が、慌てて自分の口を塞ぐのが雅沙羅には見えた。
「あ、あさら……を、ころす……の?」
「違う。諒闇雅沙羅だ。そなたが知っている神武雅沙羅と名前も姿も同じだが、ひるむな。容赦なく殺せ」
 「雅沙羅」という名は珍しいから、同名の別人がいるとは思えない。自分に「諒闇雅沙羅」を演じて結に殺されろと言うのかと、雅沙羅はどこか他人事のように考える。
「いやだよ、いや。そんな、雅沙羅を殺すなんて……できっこないっ」
 予想通りの反応を示した結には満足したようだったが、何の反応をも返さない雅沙羅の態度は気に障ったらしく、‥‥は不快そうに顔をしかめた。
「諒闇雅沙羅は人に非ず。あいつは人を殺す対象としか見ない、化け物だ。そんな化け物を相手にするのはさぞかし不安だろう。だから私がお前に新しい名をやる。今日からお前は神玉桜だ。恐れるな、現人神である私の加護がある」
 しんぎょくさくら、と掠れた声で呟き続ける結の声が遠ざかっていく。どうやら近くに控えていた者によって、無理やり連れ去られたらしい。
 神玉桜、と雅沙羅も口の中で呟いた。
 ‥‥は名前から、結を縛り付けるつもりでいるらしい。「神」と「桜」の両方を名前として冠するなど、一般人からすれば恐れ多いこと。それはすなわち、それだけ陛下の力が強く干渉してくるということ。
 ある意味、良かったのかもしれないと彼女は思う。これからの世、陛下から賜った名前は結を守るだろう。
 がらりと控えの間の襖を開いて目の前に立った人影に、雅沙羅は目を伏せ、女官は頭を下げた。
「理解に苦しむな。何故感情が乱れない。あれはそなたが大切にしていたと言う子供ではないのか。まぁいい。楽しみにしておけ、諒闇雅沙羅。桜はそなたを殺しに来る」
 愉悦に歪んだ笑みだけを残し、‥‥は雅沙羅と女官、二人の反応を気にする風でもなく部屋から立ち去った。
 外つ国から日本という国を守るためには、彼の強さは必要であろうが、今の彼は暴君に過ぎない。彼は恐らくそれを分かった上で、全ての罪と責任を幕府に押し付け、自身の地位と権力を確立するつもりなのだろう。
「お、お許しくださいませ、神武様……っ! 陛下も、本気ではあられないでしょうから……」
 ‥‥の足音が聞こえなくなると、女官は主人である‥‥の非礼を詫びてきた。最善策を考えるのに忙しく、何故謝られているのか一瞬理解できなかった雅沙羅はすぐに笑顔になると、彼女と向き合った。
「あのお方は本気です。一度楯突いた私を、お許しくださりはしないでしょうね」
 全てを受け止めた上で静かに分析する彼女に、女官は分からない、と泣きそうな顔で首を横に振る。
「何故あなたは……憎まれないのですか」
「憎む理由がございません」
 何故、と問いかけてくる女官に、雅沙羅は小首を傾げた。そして逆に問い返す。どこに怒る理由があるのですか、と。
「理由は恐らく、あの方も被害者だから、でしょうね。あの方は自身の権力を見せ付けることでしか、自身の存在の意味を見出せないだけなのですよ」
 そうですか、と呟く女官は目を伏せた。立ち去ろうとする雅沙羅に、掠れた声で彼女は問いかける。
「……辛くはないのですか」
 雅沙羅は廊下へ続く襖に手をかけて一呼吸おいてから、口を開く。
「あの子……結こそ、辛い思いをしていると思いますよ。あの子は、私の無事を確認できないから」
 女官ににっこりと微笑んで雅沙羅は部屋を後にし、女官は雅沙羅の心の強さに敬意を示し、頭を下げた。


 新政府軍に結を返してもらおうと、彼女は何度も掛け合ったか、色よい返事をもらうことはなかった。
 幼い子供は扱いやすい。洗脳すれば簡単に人を殺すようにもなる。同時に、大人は子供を殺すことを躊躇う。それを踏まえて考えても、狂気に犯されていない新政府軍の武士たちは結返還を異常なほど堅く拒み続けた。
 そこには恐らく、‥‥に植えつけられた恐怖があるのだろう。殺人人形として結の活躍を望んでいるわけではなく、結を手放したと‥‥に知れたらどうなるのか、身をもって知っているのだ。
 唯一陛下に逆らえる立場にある雅沙羅でさえ、彼との対立を避けたのだ。それを、身分も違う彼らに楯突けというのは酷だろう。
 彼女は同様に断られることを覚悟して幕府軍側に交渉し、あっさりと承諾の返事を得た。
「自分たちも幼い子を殺すのは忍びないから」
「ありがとうございます……! あの……私、弓なら自信がありますから、なんとか……」
 そう申し出た雅沙羅に、話を聞いていた彼はきょとんとした。
「いや……そんな巫女様の手を煩わすわけにも……」
「ですが、私だけ見ているだなんて、そんなこと出来ません。結が政府軍にいるのも私の責任ですし……」
 彼は困ったように眉を顰め――即座に断らないところからするに、人員も足りていないのだろう――腕を組んで考え込んだ挙句、お願いしようかな、と呟いた。彼にとっても苦渋の判断だったことは、その苦い笑みから明白だった。
「敵兵の足止めをしてくだされば結構です。あ、前線に行って欲しいというわけではなくて、近くの木の上とかから相手の足でも狙ってもらえれば」
「え」
「そんな、巫女様に人を殺せなんて言いませんよ」
 こんな事態を招いてしまった雅沙羅に対する配慮に、彼女は恐縮するばかりであった。



 どこで、何を間違えてしまったのだろう。
 雅沙羅は目立たない服に身を包み、木の枝に腰掛けて、実践用の弓を手に持つ自分の状況を見ては、内心で溜息をついた。彼女の後ろには幕府軍が控え、前には新政府軍が待機しているこの状況は、さすがに予期していなかったし、あって欲しくもなかった。
 遠くから響き渡る太鼓の音に、雅沙羅の意識は引き戻される。彼女は軽く首を横に振って心を乱す雑念を振り払うと、弓を強く握りなおす。
 左手に弓を持ち、右手で矢を番えた雅沙羅だが、矢を放つ前に弓を下ろし、左右を入れ替えた。元々、彼女は左利きだ。矯正されて普段の生活に右手でも支障はないのだが、弓ではやや精度が下がる。
 再び弓を番えなおすと、矢を放った。どうか、一人でも多く生きて帰られますようにと願いながら。

 一体何本の矢を放ったのか。我に返った時、雅沙羅の目の前には地で染められた紅の原が広がっていた。風が吹いても拭いきれない程強い鉄の香りに、彼女は眩暈を覚える。
 これが、戦争。「敵」と名づけられた人間を、ただ殺す為だけに人は狂気の中に身を躍らせるのだ。それとも、自分が殺されなければ死んでしまう、という恐怖が人間の精神を狂わせるのか。
「どちらにしても、やっていることは、同じ……」
 軽く溜息をつくと、彼女は幹に立てかけられた矢筒に手を伸ばす。相当量あったはずの矢は、一本たりとも残っていなかった。
 一体、何人の人を自分は傷つけてしまったのか。
 一体、何人の人を傷つければ気が済むのか。
「……わたしは」
 ――誰も、傷つけたくないのに。
「おーい、雅沙羅、大丈夫か。降りてこいよ」
 見下ろせば見慣れた仲間の顔があり、彼女は軽々と枝から飛び降りた。
「うわ、無茶はするなよ。大丈夫か、怪我はないか」
 彼女は無言で首を横に振り、平気であることを示す。それは良かったと笑う彼の顔を直視できずに、雅沙羅は虚ろな視線を戦場だった場所に向けた。
「一人にしていただいても良いでしょうか?」
「いいが……早く戻って来いよ。大将が心配する。最近は物騒だしな」
 快く一人にしてくれた彼を見送って、雅沙羅は唇を噛んだ。彼の名前すらも思い出せない。

 血に染まった原に渦巻いている感情は、恐怖だった。人を殺すことを、人に殺されることを、そこにいた誰もが恐れたのだろう。
 人を救うべき巫女でありながら人を傷つけることを選んだ自分は何なのかと自問し、雅沙羅は目を伏せた。しかし、今更考えたところでもう遅いと自分に言い聞かせると、歩を進める。
 当てもなくただ歩いているわけではない。樹上に座っていた雅沙羅は、幼い結の姿こそ見つけられなかったが、幾つかの見慣れた姿を見た。
 元皇太子殿下の- - 。
 商人の息子である雪風。
 刀職人の森下。
 宮大工の柳原の姿を見なかったことから察するに、村としてこの戦には中立の立場を取っているのだろう。森下がいるのは、娘である結のことで唆されたからか。
 少なくとも柳原家がこの場にいないことに雅沙羅はほっとした。村や子供たちを安心して任せていられる、というのもあるが、実践用の弓など引いているところを見られたくなかったからだ。
 - - と雪風の二人は戦い慣れしているのか自分の身を危険にさらすような戦い方はしておらず、二人なら大丈夫だと雅沙羅に思わせた。
 問題は森下である。戦場の狂気に流されたのかかなりの無茶をして突っ走っていたようだった。その後で姿を見た記憶がないこともあり、その後どうしたのか心配でたまらなかったのだ。
 歩けど歩けど見つからず、もしかしたら無事に帰ったのかもしれないと彼女は思い始めたところで、左肩から血を流し、地面にうずくまっている兵士が目に止まる。
「……森下殿。大丈夫、ですか?」
 控えめに声をかけて、そっと怪我の様子を見た。
 細かい傷を沢山負っているようだが、一番目立つ左肩の怪我でさえも致命傷ではない。だが出血が止まらないようだから、このまま放っておけば確実に死んでしまうだろうし、一人ではもう歩けないのかもしれない。
 彼は、雅沙羅の姿を認めるなり睨みつけ、乱暴にその手を振り払った。
「娘を、俺の娘を返せっ。化け物が……!」
「……そうですよね、失礼致しました」
 突きつけられた言葉に彼女は息を飲むが、否定などできない。自分さえ行動をおこさなければ、自分も清舞の家族と一緒に殺されていたのなら、幼く純粋な女の子を戦場になど立たせなくて済んだのだ。
「巫女でありながら生き神様に逆らうとはどういう事だっ。巫女ってぇのは、神武の家系ってぇのは、その程度のもんなのかっ!?」
 森下の言葉がぐさり、ぐさりと雅沙羅に突き刺さる。彼の罵倒が止まりその身体から力が抜けるまで、返す言葉もなく、雅沙羅はただ隣に座っていた。




Eternal Life
月影草