崩壊へ軋む歯車



「あ、雅沙羅だっ」
「雅沙羅ーっ」
「雅沙羅が、帰ってきたよーっ」
 村の中を駆け回っていた子供たちが道を歩く雅沙羅に気付き、村の方に呼びかけながら駆け寄ってきた。雅沙羅は成長した子供たちに、変わらぬ笑みで答えた。
「ひどいよっ。何も言わないで行っちゃうなんて。すっごくさびしかったんだから」
 怒ったように頬を膨らませる結も例外ではなく、雅沙羅がいなかった二年間に身長も伸びて、健やかに成長しているようだった。
「ごめんなさい」
「……いいけどね。帰ってきてくれたし。お帰りなさいっ」
 すっかり機嫌を良くして抱きついてくる結に、雅沙羅はそっと「ただいま」と囁いた。
 子供たちの声で集まってきた村人たちは雅沙羅に近寄ろうとせず、怯えたような、哀れむような、悼むような表情で遠巻きにしている。
 何かあったのだろうか、と雅沙羅が考えていると、人混みを掻き分けて出てきたのは千秋だった。千秋は雅沙羅に何も言わず、何も言わせずに土下座する。村人たちも千秋に倣うように頭を下げた。
 子供たちは大人たちの雰囲気に怯えたように、「後でね」と雅沙羅に声をかけて方々に散っていった。
 滅多に出てこない千秋の父までもが現れて、当然というように雅沙羅に頭を下げていることは、村に戻ってきた雅沙羅を更に戸惑わせる。
「顔をあげてください」
 雅沙羅の一言で村人は顔を上げるが、瞳は伏せられたままだった。柳原親子は頭を上げる素振りすら見せない。
「柳原様、私は……」
「神武様、我々には、謝罪の言葉もない」
 堅苦しい柳原家当主の言葉。千秋が震えているのも見て取れ、村全体の重苦しい雰囲気に、雅沙羅は閉口した。
「ごめんね、雅沙羅っ。あたし、守れなかった……っ」
 悲鳴に近い声で告げられた懺悔に、姿の見えない清舞の一族に、雅沙羅は僅かながらに状況を理解した。

「……新しく即位された陛下の、御命令ですか」
 小さくも新しい霊標十七本の前で、雅沙羅は一言一言を噛み締めるように呟いた。名を刻まれることのなかった霊標は全て、清舞一族と音桐のものだと言う。
 短く黙祷する雅沙羅の横で、千秋は必死に言葉を紡いだ。
「だから雅沙羅……雅沙羅が無事だったのは本当に嬉しい。だから……」
 千秋が雅沙羅に、姓を変えるべきだと勧めていることは、雅沙羅にはっきりと伝わった。それなのに、雅沙羅は首を横に振る。
「だけど、雅沙羅っ。雅沙羅も……殺されちゃうかもしれないんだよ!?」
「……いつ、殿下は替わられましたか」
 千秋がはっと雅沙羅の顔を見ても、雅沙羅はじっと霊標を見つめるばかりだった。
 雅沙羅が思い返すのは、殿下に会った日々のこと。雅沙羅の中で皇太子殿下には、淡く儚気に咲き誇る花王と印象がある。それは、いつも桜の咲く時期に会っていたからでもあるが、殿下が綺麗な花を手折ることが出来ないほど優しかったからでもある。人であろうと花であろうと傷つけることを嫌がった彼が、自ら虐殺命令を出すとは、雅沙羅には想像も出来なかった。
「私が知っている皇太子殿下は、優しいお方でした。大切に育てられたのでしょうね。あのお方は何かを傷つけることも、何かに傷つけられることもご存知ではないでしょう」
「まさか、信じるって言うんじゃないでしょうね!? 雅沙羅、神武なんていう、清舞なんていう、由緒正しい血筋を根絶やしにできるのは、唯一その上に立つ陛下なのよ、分かってるの!?」
「……ありがとうございます。ですが、千秋は勘違いをされている」
 痛々し気に歪んだ千秋の表情をまともに見ることができずに雅沙羅は顔を伏せるが、言葉は自然と彼女の口から流れ出した。胸がずきずきと痛むのは、自らの言動で傷つくだろう千秋への罪悪感だろうか。
「私たち神武は、それでもこの神社を、この国を、守らねばならないのです。たとえそれが、現陛下に楯突く行為であったとしても、です」
「でも、でも……」
 言うべき言葉を見つけられずに、千秋は口ごもる。
 沈黙した二人の前に立つ、名もない霊標の数は十七本。
 本家である清舞の名を持つものが、雅沙羅が村を発った時に十六人いた。それに音桐を含めて十七人。
「確かめたいことができました。千秋、今一度この村のことをお願いしても良いですか?」
「どこに行くつもりなの?」
「陛下と少しばかりお話を。あちらも、こちらも代替わりいたしましたので、ご挨拶に伺うかと」
「行かないでっ」
 千秋は一言叫ぶなり、雅沙羅にしがみついて泣きじゃくり始めた。
 千秋が泣くとは珍しい。もしや、と雅沙羅が思っていると、案の定千秋は清舞一族虐殺の場に居合わせてしまったらしく、どれだけ悲惨な状況だったのかをぽつりぽつりと語る。
 一族の殺害は、訪れた陛下の一行によって白昼堂々と行われたこと。普段静かな一族なのに、妙に騒がしいと思って様子を見に行った千秋は、真っ赤に染まった現場に居合わせてしまうことになる。
 誰も彼も、元の姿が分からないくらいに引き裂かれていたにもかかわらず、皆揃って穏やかな表情をしていたのだと。
 痛かっただろうに。苦しかっただろうに。怖かっただろうにと、千秋は言う。あの状況で笑っていられた、清舞一族の気が知れないと。
 全てを千秋は見ていたというのに、彼女には止める事すらできなかったどころか、千秋が何も出来ないであろうことを見越してか、陛下は千秋を一瞥しただけで殺すわけでもなく平然と、立ち去ったのだと。
 千秋が取り乱して柳原家当主の元へ行かなければ、事は露見すらしなかったかもしれない。
「行っちゃだめだよ、雅沙羅っ。雅沙羅まで死んじゃったら、神武も清舞もいなくなったら、この村は……っ」
「清舞は、滅びていませんよね?」
 穏やかな雅沙羅の言葉に、千秋はぴくりと身体を強ばらせた。
 村は、柳原家は、一つだけ雅沙羅に隠していたことがある。それが、これだ。
「小百合お姉さまは昨年、子をお産みになられましたね。その子の霊標がないようです。戸籍に登録されてあれば、陛下が見逃すはずもありませんから、その子は、いえ、その子たちは、戸籍に登録できなかった子たちなのでしょう。一般に忌み子とされている双子でしょうか? ならば、本家以外の場所で隠して育てられていてもおかしくはないですよね。そして本家にいなかったが為に、この子たちは助かった」
 俯き、唇を噛んでいた千秋が、観念したようにこくりと一つ頷いた。
「……雅沙羅の頭のよさ、今ほど恨んだことはないよ。何を言っても、行くんでしょ……?」
「私は元皇太子殿下の、- - 様の身の潔白を信じています」
 快晴の空の下、既に葉を落とした木々の合間を吹く風が、千秋には妙に寒く感じられた。

 時は飛ぶように過ぎ、雅沙羅が村に戻ってきてから早くも二ヶ月が経つ。
 せめて新年の儀式までは、と雅沙羅はまだ村にいるが、年明けは数日後に迫ってきていた。
 雅沙羅の日課は二十二社参りに発つ前と変わらず、午前の稽古に続いて、午後からは子供たちに変わらない優しい態度で接していた。しかし、神社と清舞家を両方を一人で管理するようになった為か、毎日大して眠っていないのだろう、雅沙羅の顔には疲れが窺えた。
 神社の管理に携わっていたのは、本家筋である清舞と神武だけだが、谷口など分家筋も多い。清舞家の管理なら分家に任せればいいのだろうに雅沙羅が一人で切り盛りしているのは、助かった分家筋が陛下の標的になってしまうことを恐れてのことだろう。
「雅沙羅、一人で本当に大丈夫なの? ちゃんと寝てる? ちゃんと食べてるの?」
 さすがに見かねた千秋が、真剣な表情で雅沙羅に声をかけたのは夕刻。子供たちをそれぞれの家に帰した後だった。
「心配には及びませんよ、千秋。新年に向けての準備で忙しくしているのは確かですが」
 雅沙羅がにっこりと告げると、千秋はきょとんとして雅沙羅が言ったことを口の中で数回反復し、大きな声で笑い始めた。今までの不安は無意味であったとでも言うかのように、そして全ての心配を笑い飛ばすかのように。
「そっか、そうだよね。神社だもん。新年は一大行事だもんね。忙しくて当たり前か。ごめんごめん、ちょっと神経質になりすぎた」
 久しぶりに大笑いしている千秋を見て、雅沙羅もくすくすと笑いを漏らす。一通り笑って落ち着くと千秋は、
「じゃあ、あたしも帰るね。神社の手伝いはさすがに分かんないや。あ、でも何か手伝って欲しいことあったら言ってよ。すぐ飛んでくるから」
と、雅沙羅に手を振って帰っていく。
 雅沙羅は笑顔で手を振り返し、気分が軽くなったらしい千秋を見送った。
 千秋の姿が見えなくなると、雅沙羅も神社へと続く階段を登り始める。
 神社周辺の空気は以前と比較して格段と冷たくなった。神社を守る音桐が、よく出入りしていた清舞家が、いなくなっただけでここまでの変貌を神社が遂げるなど、誰が予期していただろう。
 雅沙羅は、誰にも気付かれないくらいの小さな溜息をついた。
 本当に、千秋は鋭いと思う。
 確かに雅沙羅が忙しいのは新年の準備の為でもあるのだが、同時にやっている別のことが、雅沙羅にはあった。そしてそれが、彼女を疲弊させている原因でもある。 
 神社に戻るなり、雅沙羅は普段着から正式な巫女服へと着替える。手元に用意されているのは鈴。
 空気も床も、冷たく凍えきった幣殿に立った雅沙羅が、これから舞うのは鎮魂舞。
 雅沙羅が村に戻ってきて二ヶ月。清舞家が殺害されて半年程。鈴の音を鳴らすたびにざわつく霊たちを静めるため、鎮魂舞を舞うのは雅沙羅の日課となっていた。
 雅沙羅が帰ってきたときには既に清舞家は綺麗に片付けられ、掃除もされて血の香りすら、部屋からはしなかった。一族がどんな殺され方をしたのか、部屋を見ただけでの彼女には知る由もない。だが、村人も口を閉ざし続けていることから、千秋の話から、かなり凄惨な状況だったのだろうことが窺い知れた。
 それなのに。千秋の話では皆穏やかな表情だったらしいし、何もない清舞の家に入ったときに、雅沙羅が感じたのは恨みや憎しみから来る冷たさではなく、労わりや心配から来る温かさだった。
 清舞一族は、殺されるときですら心穏やかだったというのか。殺されても構わなかったのか。最初は雅沙羅もそう思って愕然とした。だが、少し考えてみればそれは当たり前であることに彼女は気付いてしまった。
 あの人は、こうすることでしか、自分の存在を誇示できなかったのだから。
 鈴を握り直すと、雅沙羅は深く深呼吸する。しゃらんと鳴った鈴の音に、空気が、恨まれて死した人の霊が、ざわついた。
 ただでさえ寒い稽古場の室温が、更に下がったように感じられるのは、それだけ負の感情が渦巻いているということだろう。場を支配しているのは、死に対する恐怖や怒り、そして悲しみ。
「恨み、悲しみ、憎しみ、全て私が引き受けましょう。あなた方が、穏やかに休めるように」
 静かに宣言した雅沙羅は、もう一度鈴をしゃらんと鳴らすと、舞い始めた。
 霊たちのざわめきは収まらない。逆に何かを言わんとするかのように強まっていくその場の空気に、雅沙羅の感情は流されそうになる。この場に音桐がいたのなら、叱責が飛んだことであろう。巫女たるもの、常に冷静さを保てなくてどうするの、と。
 雅沙羅は、霊の言葉が聞こえない自分に不甲斐なさを感じ、唇を強く噛んだ。
 霊の想いが震え、多少落ち着いたのは鎮魂舞のお陰というよりは、霊が雅沙羅を想っているからだとしか思えない。
 鈴の音だけが凛と響き渡る、暗い部屋の中で雅沙羅はそっと呟いた。
「双子が忌み子であるのだと、一体誰が決めたのでしょう」
 金色の菊の紋章が外からの光を受けて、雅沙羅の左胸に燦然と輝いた。




Eternal Life
月影草