花王に捧ぐ



「十時の方向、新玉桜!」
 雅沙羅と密やかな花見をした、次の日のことだった。今日も今日とて走り回っていた戦場で、後藤が後ろから僕を追い抜きつつ、そう声をかけて行ったのは。
 はっと言われた方向に視線を向ければ、確かにそこには女の子が立っている。
 幼い見た目にはそぐわない虚ろな表情に、僕はぞっとした。印象が違いすぎて一瞬分からなかったが、その子は雅沙羅に一番良く懐いていた村の子供ではないか。面識はないが、彼女にじゃれついているのを遠目に見かけたことがあるように思う。
 彼女がまだ子供だからか。それともその異様な雰囲気からか。誰もが新玉桜を避けている。新玉桜にその道を譲っている。
 ふと、近くに居た大柄な男と視線が交差した。
 彼はすぐに別の方向を向いてしまったが、よくよく見ていれば彼は新玉桜を追いかけている、否、守っているようであった。間近に貼り付いている訳ではないが、必ず新玉桜に手が届く範囲にいるようである。
 彼は、誰であろうかと、思考が逸れたその瞬間。
「……っ!」
 右脇腹に衝撃を受け、落馬する。どん、と背中を打った衝撃に、息が詰まる。
 熱い。
 思わず押さえた手に、ぬるりとした感触がある。
「- - 様っ!」
 そう、僕の名を呼んだのは古河か、後藤か。それとも、他の誰かか。
 ぐるりと視界が回転して、気がつけば頬を風が撫ぜる。近くに居た誰かが、僕を馬に乗せてくれたらしい。そして、恐らくは幕府軍の陣営に戻る所なのであろう。
 良かった、雅沙羅に報告ができる。
 そんな思いばかりが、頭の中を駆け巡る。
「神武殿! 神武殿はおられるかっ!」
 遠くから、焦ったような声が聞こえる。
 寒い。眠い。けれど、雅沙羅と、話さなければ。重い目蓋をどうにかして開いても、なんだか視界が白っぽい。
「はい、ここに」
 耳に届いた馴染みのある声の方に、顔を向ける。はっきりとは見えないけれど、白と赤の対比くらいは分かった。雅沙羅だ。
「古河殿、どうぞそのまま奥にお進みください。私は薬草を取って参ります」
「あさら……」
「- - 様、もう少し、もう少しだけ頑張られてください」
「あさら、待って、あさら」
 離れて行こうとする彼女に、必死に手を伸ばす。掠れていたけれど、僕の声はどうにか彼女に届いたらしい。
「おい、薬草と水を!」
「は、はい!」
 古河が、近くに居た別の誰かに声をかけた。戸惑っていたようだが、雅沙羅は軽く頭を下げ、僕に寄り添ってくれた。
「結、見かけた。大柄な男、近くに、いて」
 されるがままになりながら、僕は必死に言葉を紡ぐ。
「結、守ってた。多分」
 鎧を脱がされたのか、ひんやりとした空気に素肌が触れ、身体が震える。額を、頬を、雅沙羅が優しく撫でてくれると途端に暖かくなり、震えはすぐに収まった。
「それは、雪風殿のことでしょうか?」
「名前、わからない」
 血を拭ってくれているのであろう雅沙羅の手を、どうにかして捕まえる。動いては駄目だと、雅沙羅ならば言うかと思ったが、意外にもすんなりと応じてくれた。
「結、ごめん、僕、見ただけ」
「- - 様、ありがとうございます。彼が、雪風殿が付いていてくださるのならば、あの子は大丈夫です。ですから今は、ご自身のことを考えられてください」
 ぎゅっと右手は僕の手を握ったまま、左手で彼女は器用に薬草の準備をしているらしい。まだ辛うじて効いている嗅覚が、薬の匂いを嗅ぎ取った。
「あさら。灯(ほたる)と、花王、また見よう」
「えぇ、去年、灯殿とも約束しましたしね」
「あさら。じんむは、途絶えない?」
「それを、あなたが望まれるのなら」
「……ありが、と」
 僕は意識を睡魔に委ね――

 気付いた時、僕は満開の桜をただ見上げていた。
 この桜の木々には見覚えがある。毎年毎年、雅沙羅と灯(ほたる)の三人で見に来ていた、宮近くの桜だ。しかし――僕の記憶では側に居てくれた筈の雅沙羅はおらず、どころかあの戦争が終了し、宮に戻ってきた覚えはない。どうして自分がここにいて、こうして桜を見上げているのか、僕には全く分からなかった。
「- - 様」
 ぽつりと名前を呼ばれ、声のした方向を見遣る。そこに居たのは灯だった。
 あぁ、もしかすると戦争だなんていうのは悪い夢で、僕はいつもと同じように彼女と桜を見に来たのかも知れない。雅沙羅もきっと、近くに居るんだろう。
「……」
 灯に呼びかけようとしたが、声が出ない。彼女も僕に気付かなかったのか、そのまま僕の目の前を通り過ぎた。
 見えた彼女の表情に、僕は眉をひそめる。いつも快活に明るく笑っていた彼女は何故か、思い詰めたような顔をしていたのだ。僕がここでぼうっとしている間に、雅沙羅に何かがあったのだろうか?
 灯を追いかけようと足を一歩踏み出しかけ、けれど、動けなかった。どんなに必死に歩き出してみようとしても、何故か足は言うことを聞かない。
 灯は戻って来ない。
 声も出ない。
 暫く藻掻いていると、灯が走って戻ってくる。いや、取り乱した様子で走って宮へと帰って行く。
 何があったのか。更に焦りは増す。
 身体はやはり、動かない。
 ふらりと、現れた長身の影の主は雅沙羅。
 茶色の地味な服装と疲れきったような表情は、今まで見たこともない。おぼつかない足取りで僕の方へとやってきた彼女に、その理由を尋ねるのははばかられた。
 彼女は、緩慢な動きで僕の背後の木に手をつき、寄りかかって目を閉じる。
「……- - 様」
 腹を押さえた手が、紅に滑るのが見えた。
『雅沙羅っ!?』
 聞こえたのか、目を開けた雅沙羅が、その視線を宙に彷徨わせた。けれど、灯と同じで僕の存在には気付かなかったらしく、自嘲の笑みを浮かべると、ふらりと木から離れた。
 そして彼女は歩き出す。灯が走って行った方向ではなく、道から外れた森の中へと。
『雅沙羅、どこに行くんだ。雅沙羅!』
 僕には彼女が、死に場所を探しているようにしか見えない。喩え彼女がそれを望もうとも、それだけはさせてはならないと思った。彼女を死なせることだけは、あってはならない。
 頼りない足取りで、どこへともなく歩いて行く雅沙羅を、僕は必死になって追いかけた。途中、ぐらりと傾いた彼女を支えようと手を伸ばし、
『……え?』
 彼女の身体が、僕の手をすり抜けた。
 いや、すり抜けたのは僕の手の方だ。雅沙羅は近くの木にもたれかかり、そのままずるずると腰を下ろした。そんな彼女の目の前で立ち尽くし、僕は手を開いたり握ったりしてみた。そして、自分の身体を見下ろしてみる。それは、半透明で。
『あぁ……そっか』
 ようやく、納得した。
 手当をしてくれた雅沙羅の記憶。それが、僕のヒトとしての最後の記憶なんだろう。やっぱり、僕は助からなかったらしい。桜を見上げていたのは、雅沙羅がそこに埋葬してくれたからか。
 死んだらヒトはカミになるというのが神道の教えだけれども、それは僕に、彼女を救えるだけの力をもたらしてくれるんだろうか?
 浮かんで来た疑問を、僕はすぐに打ち消した。
 ただ死ぬだけで、ヒトとしての生を終えるだけでそれだけの力を得るというのなら、僕は今の雅沙羅を救えるだろう。けれど生憎、彼女に触れられもしない僕には、彼女を救う為の手段すらも思いつかなかった。誰か人を呼ぼうにも、僕の声が聞こえる、僕の姿が見える人間など、恐らく存在しない。
 雅沙羅の隣に膝をつき、彼女の顔を覗き込んだ。顔は蒼白で血の気はなく、ただ、浅い息を繰り返している。体力的に、彼女が限界に近づいていることは明白だった。
 でも、彼女はまだ死んでいない。彼女はまだ、生きている。
 どうやったら雅沙羅を助けられるだろうか。どうやったら、誰かに助けを求められるだろうか。生きている人間に、どうやったら気付いてもらえるだろうか。
 ぎゅっと手を握りしめて必死に考えていれば、ぱきりと、小枝を踏んだような音がした。
 はっと顔を上げてみれば、人がいる。白と赤の巫女装束は、遠目にもはっきりと分かる。
 呼びかけなければならないのに、どうにかして見つけてもらわなければならないのに、街道から遠く離れたこんな山奥に奇跡的に現れたその巫女を、見つめていることしかできなかった。
 そして彼女は。
「……誰か、いるのかい?」
 僕の視線に、気付いたらしかった。
 彼女の言葉に、僕は唖然として近付いてくる彼女の顔を見上げた。
「あー……あんたの姿は見えてるけど、声までは聞こえないんだ。ごめんよ」
 幽霊の姿が見える、旅の巫女。
 そういえば、そんな巫女がいるとの噂を聞いたような気がするけれど、まさか丁度この瞬間に会えるとは、なんという偶然だろう。
「それで? ……あぁ」
 ぐったりと木の根元にその身を預けている雅沙羅を見、彼女は察したようだった。
「あんたは、あたしにこの子を助けて欲しい。そういうことかい?」
 目線を合わせて訊ねられ、僕はこくこくと何度も頷いた。
「あんたもだけど、この子も相当慕われてるねぇ。だからすぐに死ぬことはないよ、安心しな。ただ……この子の精神の方が保つかどうか、そっちの方が問題だね。
 彼女に生きていて欲しいのなら、しっかり押さえておくことだよ」
『押さえて……?』
 彼女の言っていることが良く飲み込めずに、僕は首を傾げた。
 慕われているから死なない。けれど精神が保たない? 押さえておく? それは一体、どういう意味なのだろうか? まるで、死んでしまいそうな、現世から離れてしまいそうな雅沙羅の魂を、しっかりと繋ぎ止めておけと言っているように聞こえる。ヒトの生死というものは、他人が干渉できるものなのだろうか?
 僕が頭を悩ませている横で、巫女の彼女は雅沙羅の横に膝をついた。
「あんた、大丈夫かい? 聞こえるかい?」
 彼女は、雅沙羅にそっと声をかける。雅沙羅は、反応しない。彼女の表情が、僅かに曇る。
「あんた、応えられるかい?」
 ぴくりと、小さく雅沙羅のまつげが動く。
『雅沙羅……! 良かった……』
 嬉しさに飛び上がりそうになったのを見たのか、巫女の彼女が相好を崩した。はっとした僕に笑いかけ、彼女は続けた。
「あんた、まだ生きてみようって、思えるかい?」
「……まだ、結が……」
 掠れた声で雅沙羅は返し、再び目を閉じる。
「そうかい、まだやることがあるのかい。ならもうちょっとだけ、頑張ってみるかい?」
 雅沙羅は無言で小さく頷いた。そしてゆっくりと彼女は目を開き……僕を見ると、驚いたように目を見開いた。
「- - 様……? どうして……」
『え……? 僕のこと、見えるの?」
「見えるのも何も、- - 様……?」
 僕の言葉に返事をした雅沙羅は、混乱した様子で隣にいた巫女の顔を見る。
「あんたは、彼の言葉も聞こえるんだね?」
 彼女の言葉が飲み込めない様子で雅沙羅は一つ瞬きをし、僕の顔を見た。巫女の彼女が、言葉を付け加える。
「彼と知り合いだったんだね? 申し訳ないけれど、彼はもう死んでるよ」
 え、と彼女が驚きに目を見開き、僕を見た。僕は躊躇いながらも、小さく頷いて肯定することしかできなかった。




Eternal Life
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