過去の終幕



 元旦当日。袴の裾を鈴のついた紐でくくると雅沙羅は立ち上がり、鏡台に置かれたかんざしを手に取った。
 元旦の剣舞で纏うのは華やか且つ動きやすい、神武神社における正装だ。装束に関しては清舞の資料に記述があったらしく、今日の日の為に仕立て直されたのだという。
『雅沙羅。入っていいかい?』
「どうぞ」
 音もなく入ってきた人物は、鏡に映らない。彼は、雅沙羅の前に回った。
『それが神武の正装なのか。初めて見る』
「私も実際に着るのは二度目です」
 その二度目も、ないものだとばかり思っていた。
 改めて鏡に映る自分の姿を見ると、後ろ髪をまとめ上げ、雅沙羅はかんざしを押し込んだ。普段は後ろで一つに括っているために、髪をあげてしまうとどうにも落ち着かなかった。
「久しぶりなのと、実は本番は今回が二回目なので、失敗しても笑わないでくださいね?」
『君なら大丈夫だよ』
「ありがとうございます」
 疑いのない華鏡の言葉に、雅沙羅は相好を崩した。
 舞の練習に思ったほど時間が取れなかった為に、今年は雅沙羅が清舞雅沙羅の代理で出ることにした。だから恐らく、来年はもうない。
「雅沙羅さん?」
「どうぞ、入られてください」
 障子を開けて入ってきたのは、清舞 雅沙羅だった。巫女服に着替えた彼女は舞に使う刀を握りしめたまま、「まぁ」と感嘆の声を上げる。
「本職の人が着ると、そんなに華やかで凛々しくなるのね! 来年も雅沙羅さんにお願いしようかしら」
「いえ、私は昔の人間なので、そろそろ引退させていただきたいと……」
 引退にはまだ早いんじゃないかしら、と呟きながらも、清舞 雅沙羅は刀を差し出した。
「今年は、よろしくお願いします。ばっちりビデオにも撮らせてもらったし、一年間かけて練習するわ」
「清舞さんならば大丈夫ですよ。今年はただ、時間が足りなかっただけです。私がこちらに来るの、遅かったですからね」
 にこりと笑うと、受け取った刀を両手で水平に持ったまま、雅沙羅はその重さを噛み締めた。
「柳原がこの地に住まう人々を守る家ならば、神武・清舞の両家はこの土地を守る家です。この地を守る為であれば、刀を振るうことも辞しません。
 新年の剣舞は平安祈願であり、戒めです。刀は人を殺める為でも、人を傷つける為でもなく、大切なものを守る為だけにあるのだと。なので、剣舞の前には感じてください。この刀と、それに付随する責任の重みを」
「あ、はい」
 呆気にとられながらも清舞 雅沙羅が頷いたのを確認すると、雅沙羅は刀を下ろし、彼女に会釈した。
「それでは、行ってまいります」
 部屋から出ると、周囲から「頑張って」と声をかけられた気がして、雅沙羅は口元に笑みを浮かべた。


「桜、桜ってば」
 押しかけた人の熱気で落ち着かずに桜がきょろきょろとしていれば、はしゃいだ声の千秋に呼ばれ、彼女の顔を見た。
「ほら、清舞さんだよ」
 言われて慌てて幣殿を見れば、巫女の正装にその身を包んだ清舞 雅沙羅が、ちょうど裏手から出てきたところだった。どこかに鈴をつけているのか、ちりんちりんと澄んだ音がする。彼女に続いて廊下を渡ってきた華鏡は幣殿には入らず、足を止めた。
 神社で行われるのだから神聖なものであるはずなのに、何故か嫌な予感がして桜の手は汗でべっとりしていた。そういえば、この間見かけた幽霊の存在に、雅沙羅は気づいているのだろうか?
 もし幣殿に出てきたのが清舞 雅沙羅であるのならば、雅沙羅本人はどこであろうかと桜は視線を彷徨わせた。そして気付く。装束につけられた菊の紋は、全ての花びらが揃っていることに。
 雅沙羅は持っていた刀を一度神前に掲げて礼をし、そして持っていた刀をすらりと抜く。よく磨かれた刀が構えられた時、桜には見えてしまった。
 彼女の目の前に、同じように刀を構えた「男」がいるのを。
「っ!?」
 出かかった悲鳴を、桜は慌てて自分の口を塞ぎ、抑える。横目で見た千秋は今から始まる「舞台」への期待を一心に見つめており、彼女が桜の様子に気付いた気配はなかった。
 舞台上の雅沙羅の態度は変わらないが、男の霊との間に緊迫した空気が流れる。
 唖然としていた華鏡だったが、彼は二人を止めようと間に入ろうとして、逆に一歩右に出た雅沙羅に止められた。
 やはり幣殿にいるのは雅沙羅なのだと、遅まきながら桜は確信する。
 彼女は目の前にいる霊に気付いており、華鏡が後ろに控えていることも知っている。知っていながら、彼女は霊との「共演」を選んだのだ。
 いつの間にか雪風も舞台に上がってはいたが、雅沙羅に手を出すなと視線で告げられ、邪魔にならないように下がっていることしか出来ない。
 雅沙羅と男の霊を包む黒い気――負の感情だ――がますます濃くなる中、彼女は彼に向かって頷く。彼も彼女に頷き返し――
 ――二人は、刀を交えていた。
 雅沙羅の見事な剣捌きに、人々は歓声を上げる。霊が見えない普通の人からすれば、これはそう、新年に行われるイベントの一環に過ぎず、雅沙羅も演技をしているとしか思っていないのだ。
 剣技の激しさは増す一方で、見ている人に息をつかせることすら、許さない。
 浅く息を繰り返す桜の目の前で、雅沙羅は、一瞬の躊躇いを見せた男の霊を、切り裂いた。


 あの男の霊は雅沙羅の実の父親で、華鏡によって雅沙羅が道を踏み誤ったと思い込み、華鏡に対して怒っていたらしいと、雅沙羅は華鏡に告げた。雅沙羅は華鏡を守ろうと彼に刀を向け、父親である彼もそれに応じたのだと。
 せめて引き分けだったのなら、と雪風は言った。華鏡もそれに同意する。
 最終的に「理解」された雅沙羅は、勝利を「譲られた」のだ。唯一の救いと言えば、彼が満足して浄化されたことくらいだろう。
 無理にでも止める方法は、いくらでもあっただろうに、傍観してしまった自身が華鏡には憎かった。
 見慣れているはずのいつもは堂々とした雅沙羅の姿が、今は頼りなく、華奢で、今にも折れてしまいそうな印象を与える。かけるべき言葉が見つからずに、華鏡は唇を噛み締めた。
 どこか気だるそうに壁に寄りかかった雅沙羅は、黙ったまま佇む彼を見上げた。
「私の役目も、もう終わりですね」
『え? 雅沙羅、待って、それ、どういう……』
「神武の名も継いでいただけましたし、結にも思い出していただけました。これで、全ての約束は果たされたわけです」
 いつも通りの穏やかな声に最期を感じ、華鏡は目を潤ませながら彼女の横に膝をついた。
『でも、桜は、結は、君は』
 言いたいことがまとまらない彼の頰に触れるように差し伸ばされた手は、恐らく温かいのだろうと思う。彼女の手に、彼女に触れられるようになるのだろうかと期待する反面、現状が続いて欲しいとも願ってしまう。
「全て、元に戻るだけですから心配なさらないでください」
『元に戻るって、元って、なに? ちょっと待って、とにかく、桜を!』
 桜はまだ境内に残っていたはずだと、彼は飛び出した。

『桜っ!!』
 雅沙羅が出て来るのを千秋と待っていれば、滅多に聞かない大声で名を呼ばれ、はっと彼女は顔を上げた。
 縁側からこちらに向かって走って来る華鏡に、横に突っ立っていた雪風も「なんだぁ、あんなに慌てて」と零す。
『桜ぁ、早くっ! 雅沙羅が……っ!』
 着物の袖でごしごしと目元をこすりながら涙ながらに懇願する彼にただならない気配を感じ、千秋に一言断ろうとした瞬間。

 消えた。

 華鏡も、雪風も。

「いやだ、待って、雅沙羅っ!?」
「ちょっと、桜!?」
 慌てた千秋の声を背に、桜は靴を脱ぎ散らかして縁側を走り、華鏡が出てきた辺りの障子を勢いよく音を立てて開け放つ。
 鏡台の置かれた部屋の中では雅沙羅が、穏やかな表情で横たわっていた。




Eternal Life
月影草