終焉の舞台



 どこから見つけ出して来たのか、千秋が差し出したのは、まだ幼かった頃によく遊んでくれていた、いくつか年上の少女と撮った一枚だった。
 あの戦争が終わってから、ずっと探し続けていた人だ。
 事情を知らない千秋と勝の前で「覚えている」などと言ってしまったのはまずかっただろうかと思いつつも、桜は早まる鼓動を抑えきれずに、恐る恐る写真を手にする。
 少女の顔は、どう見ても澄ました顔でお茶を啜っている、雅沙羅本人だった。
 もしかしたら自分は、とんでもない間違いを犯していたのではないのだろうか。視線だけを上げて雅沙羅の表情を窺えば、彼女はにこりと微笑んで桜から写真を受け取り、懐かしそうな顔で眺めた。
「千秋が血相を変えてこちらにいらした時には何事かと思いましたが、これのことでしたか。よく残っていましたね」
 おっとりとした彼女の口調に、今回ばかりは三人が三人ともに固唾を飲んだ。
 写真から顔を上げると彼女は桜を見、桜は口ごもりながらも「お姉ちゃん?」と小さく、自信なく返す。
「今日、桜を掃除の名目でここに呼んだのも、本当はこれの話をする為でした。
 はい、お察しの通り、私の本名は神武雅沙羅で、こちらの神社の跡取りです。彼女の本名は森下結で、この写真に写っているのは、私たち二人です」
 一つ頷いてあっさりと告げる彼女に、詫びる言葉も出ない。


 清舞家の庭園を散策していた華鏡は、大柄な影を見つけて小首を傾げた。
『あれ、今日は桜と一緒じゃないんだ?』
『ん? まぁな。お前こそ雅沙羅と一緒じゃねぇのか』
『え? う、うん……実はまだ、神社には足を伸ばせてないんだ……その、先代の神武がいそうな気がして』
『先代ぃ?』
 華鏡のしどろもどろな態度に、先代はどんな人だっただろうかと考えてみるものの、一言二言程度しか言葉を交わさなかったのを思い出す。確かに、しつけなどには厳しそうな人だったような気もする。
『でも、何んなびくびくしてんだよ。先代の神武だったら、可愛がってもらったとか、そんなのねぇの?』
『可愛がって……? う、うん、そうかも。うん、多分そう』
 余程怖い思い出でもあるのか、華鏡の視線が泳ぐ。そして記憶を遡るのはやめたのか、軽く頭を振ると、彼は話題を変えた。
『雪風はもう行ってみた? 建て替えられてたみたいだったけど』
『そだな。新しくなってるから、ただの神社にしか見えねぇな。強いて言えばさ、あそこに行くと無性に帰りたくなるんだけど』
 腕を組んで言葉を探す雪風を見上げ、華鏡は続きを待った。
『俺、宗教信じてねぇけど、あそこの神社にはなんかいるぜ。人を見守ってる存在みたいな奴。霊じゃねぇみたいだから、俺も感知できねぇし、雅沙羅の奴にも見えねえって話。何なんだろうな。いつかは俺もあそこに行くんだって……』
『祖霊か? 祖霊のことを言っているのか? 祖霊がいるというのなら、納得だ。これだけ閉鎖された空間でありながら、空気に澱みがない。
 流石は神武の守ってきた土地だ。いや、それとも神武がいるからこそ、祖霊がいるのか……』
 突如楽しげに喋り出す華鏡を前に、雪風は唖然としていた。華鏡は雅沙羅と同じく、口数が多くない。それでも、こんなに一気にまくし立てることがあるのかと、我が目を疑ったのだ。
『お前といい雅沙羅といい、勝手に納得しやがって。ソレイって何だ、ソレイって』
『人の魂は死ぬと浄化され、祖霊となる。神道が神として崇めるモノの一つだ。神道の教えに輪廻転生はない。魂は神になって、自分の子孫を見守ることになる。――もっとも、人としての記憶や人格は、失われるが』
 分かんねぇ、と言いながら、雪風は頭を掻く。
『それって、成仏?』
『……似たようなものかな。仏教はよく分らないけれど。
 死んだら、この世界で浴びた穢れは払われる。普通は誰の助けもいらない。だけど、強い感情を持ったまま死んだ場合、一人じゃ穢れを払えない。そこで手助けをするのも、神武の役目だと聞いている』
 雪風はもはや理解することを諦めたらしく、適当に相槌を打った。
『んで、お前はいつ行くんだよ』
『そうだね……元旦の舞は見に行くつもりだよ。雅沙羅だといいな、見てみたい』
『元旦こそ先代来てんじゃねぇの?』
『あ……』
 嬉しそうな笑顔を一瞬にして曇らせた華鏡に、雪風は思わず吹き出した。
『お前、どんだけ先代苦手なんだよ。そういやさ、清舞の人間が幽霊化して残る可能性ってあるか?』
 雪風が突然振った話題には華鏡も戸惑ったらしく、彼は僅かに眉間にしわを寄せた。
『清舞が? 清舞は神武と似てるから……残るとは思えないけど』
『うーん、そうか。じゃ、別人かもしんねぇな。ありがとよ』
 手をひらひらと振りながら踵を返す雪風を、華鏡は見送った。
 雪風は一体何を思って聞いてきただろうかと、華鏡は思う。この町には、あの男の子と自分たちくらいしか、そもそも幽霊など存在しないものを。



 学校が冬休みに入ると、雅沙羅たちは元旦に向けて本格的な稽古を始めたようで、神社から笛の音がよく聞こえてくるようになった。そしてそれを賽銭箱の隣で足をふらふらさせながら聞いているのが、桜の日課だ。
 幣殿から聞こえてくる笛の音は、朧げな記憶にある音よりも柔らかいような、そんな気がした。
 桜がぼーっとしていれば、老婆が頼りない足取りで現れ、賽銭箱の前で手を合わせた。そして数度お辞儀をすると、桜に微笑みかけた。
「嬉しいねぇ」
「はい?」
 声をかけられると思っていなかった桜は、慌てて背筋を伸ばす。
「ここはねぇ、天皇様をお祀りする、由緒正しい神社だったんだよ。清舞が谷口に隠されていたように、きっと神武もどこかでひっそりと生き延びたんだろうねぇ、ありがたいねぇ」
「はぁ……」
 その為に雅沙羅は「生かされ」続けた。そんな可能性もあるのかもしれないと、桜は頭の片隅で考えていた。
「寒いっ! なんか今年、やたら冷えるなぁ、この神社」
 老婆とすれ違うように千秋が現れ、桜は目を白黒された。彼女の言動も、突然すぎて意味が取れない。
「いつも、コートもいらないくらいに暖かいんだよ、ここ。でも今年はなんだか風が冷たくって」
 寒そうに手を擦り合わせながら言葉を付け足して、千秋は桜の隣に座った。幣殿から聞こえる笛の音と、足音だけが響いた。
「……ごめんね。あたしが突っ走ったから、二人の関係壊しちゃったみたい」
「そんなこと、ないよ」
 自信もなくただ反射的に返して、桜は頬杖をついた。
 もし千秋があの写真を持ち出して来なければ、雅沙羅の桜の関係は変わらずにいたのだろうか? しかし、雅沙羅の話だけで信じられた自信は、桜にはない。敬愛する姉と、戦争で争った相手が、実は同一人物だったなど。
 そして今でも鮮明に思い出せるのは、彼女を刺した時の、あの生々しい感覚だ。あの二人が同一人物であるのなら、彼女が刺した相手は彼女一人しかいない。
 あまりに単純明快な答に、桜は身震いした。
「雅沙羅も感心してたけど、良く分かったね」
「柳原 千秋ってさぁ、いなかった? 雅沙羅の友達に」
「……いたかなぁ」
「あんたは雅沙羅にくっつきすぎって、ぼやいてたよ?
 その柳原 千秋が残した日記がうちの蔵にあってね。それ、ずっと読んでたんだ。その上にあの写真と、転校生が雅沙羅でしょ? まぁ、桜のことは勝に指摘されるまで気付かなかったけど」
「あー、そっか。千秋、古典得意だもんね」
「逆逆。読んでたから古典得意になった」
 そういうものか、と桜は相槌を打った。
 途切れた笛の音に、ここで神武の名を継承したら、雅沙羅の役目も終わりなのだろうかなどと、ぼんやりと考える。
 その時幣殿の戸が開き、千秋も桜も顔を上げた。立っていた人物の巫女装束には、花びらが一枚欠けた菊の紋章が縫い付けられていた。
「あれ、うるさかった? ごっめーん」
「ううん、今日はもう終わりにするところだったの」
「え? でも」
 今のステップは、大分乱れていただろうに。
 奥にいた雅沙羅――彼女が掲げた紋章は、全ての花びらが揃っていた――が、しーっと唇に人差し指を当てたのが見えて、桜は慌てて口をつぐんだ。
 本番である元旦までは一週間を切っており、この調子では間に合わないように思われた。間に合わなかったら、どうするのだろうか、雅沙羅が代打で出るのだろうかと思うと、清舞 雅沙羅には申し訳ないが、胸が高鳴った。




Eternal Life
月影草