「起きられますか」
 僕はそんなアルトの声を夢現の中で聴いていた。
 どうやら、夢ではないらしいと脳がようやく認識し覚醒し始める。ゆっくりと目を開くと目の前には諒闇が居た。彼女に助け起こされた僕が辺りを見回すとそこはまだ屋上で、神と先生もまだ一緒だった。
 諒闇は少し待っていていただけますかと先生に断ると、神を連れて僕たちから少し離れた。
「……僕は、一体……」
 自分でも聞く相手が違うことくらい分かっていたが、今聞ける相手は先生しか居ない。
「幽霊に殴られたんですって」
「幽霊に殴られた?」
「そうだとしか、少なくとも桜は言わなかったわ」
 先生は訳が分からない、というように首を横に振るが、僕は何となく納得してしまっていた。
 幽霊であれば、大体の辻褄があってしまうのだ。先程だって僕の背後に誰もいなかったことを知っているし、何かが飛来したわけでもない。諒闇の恋人らしき少年も幽霊だとすれば、諒闇があまり彼の方に視線を向けなかったのも、大方周囲の人間におかしな目で見られないためだろう。
 何故僕には見えるのか、理由は不明だが。
 僕が諒闇と神の方を見ると、そこには彼女たちを含め四人の人が居た。男……いや、あの時見かけたあの少年が諒闇に何か囁き、もう一人がこちらの視線に気付いたかのように振り返る。
 僕は咄嗟に思った。「見られた、まずい」と。こっちは幽霊に殴られたというのに、諒闇も神も、その幽霊の仲間だったとは!
「神っ。諒闇っ。そいつら、何なんだよっ」

 突然、視界がぐるりと回転する。
 どんよりと曇った空。
 深紅に染まった、大地。
 周りには沢山の人が、大地同様の深紅に染まって倒れており、その紅の色が血の色だと僕が気付くのに、さほど時間はかからなかった。
「……っ」
 左肩に激痛を感じ、僕は耐え切れずに地面に膝をつく。手を当てると、何ともいえないぬめりとした感触があった。
 そこに通りかかったのは緋色袴の巫女。
 彼女は手に長い弓を持ったが、僕を傷つけるつもりはないらしい。
 その代わりに僕に手を差し出してきた。
「………………?」
 何かを僕に対して言ったようだったが、聞き取れない。
 差し出された手を、「僕」は乱暴に振り払う。

「……やめてくださいっ」

 諒闇の珍しく取り乱したその声に、僕の意識は血に染まった野原から、学校の屋上へと引き戻された。
 だがその前に一瞬だけ、巫女の顔を見ることができた。信じられないがあれは、どう見ても諒闇だった。
「……諒闇」
「気を強く持たれてください。取り込まれてしまいます」
「雅沙羅……? どう、したの、本当に」
 案外諒闇は落ち着いた声で話しかけてきたものだから、先程の取り乱したような声は空耳だったのかとも思ったが、神の戸惑いを見るにやはり本人のものだったらしい。
 神の問いには返答せずに、諒闇はちらりと着物の少年に目配せをした。

 一瞬後、僕は再びあの紅の野原に立っていた。
「娘を、俺の娘を返せっ。化物が……っ」

 それだけ叫ぶと、僕はまた屋上に引き戻される。黒い影が僕から出てくるのが、微かにだが見えた。
 先生はもう既に何が起こっているのか理解できないと高見の見物を決め込んだらしく、それでも僕が叫んだ言葉にしっかりと顔を顰めていた。
 チャイムが鳴り響く。予鈴だろうか。その音は、毎日聞き飽きるほどに聞いているはずなのに、今回ばかりはどこか不吉な鐘の音のように聞こえた。
『雅沙羅。で、こいつはどうする』
 雪風といったか、はいつの間にか後ろでに縛られて座っているもう一人を指し示して言う。
「……誰?」
 物珍しそうに座っている奴の顔を見ていた神が、そいつの顔を見て眉をひそめた。見覚えはあるのに、誰なのか思い出せない。そんな感じだ。
『お前、覚えてねぇのかよ』
「雪風」
『だけどな、雅沙羅』
「……雪風」
 諒闇が再び名を呼ぶと、雪風は不満そうにしながらも口を閉ざした。彼女は縛られている男の前に膝をつくと、同じ目線になる。
「顔を上げてください」
 彼女の言葉に男はちらりと一瞬だけ視線を上げ諒闇を見ると、すぐにまた視線を逸らしてしまった。
「……私の事を覚えてありますか?」
『あぁ、覚えているともっ! 貴様、よくもあんな裏切るような真似ができたもんだなっ』
「冤罪だっ」
 凄まじい剣幕で怒鳴り出したその男に、僕は叫び返した。
 僕は諒闇のことは良く知らないが、先程見た諒闇の、脆く、儚いからこその美しさを見れば、手に取るように分かる。諒闇には人は殺せないし、人を傷つけることすら出来ない筈だ。そんな事をするくらいなら自分が死ぬことを、選ぶだろう。
『何故そのようなことが言えるっ』
「さっきお前と同調した時に見たよっ。あんたの娘だか誰だか知らないけど、何が起こったのかも知らないけど、諒闇は悪くないっ」
 そんな僕と男のやりとりを見つめていた諒闇は表情を和らげると、神を示した。
「結でしたら、今は私の保護下に」
 示された先を追い、神を見た男は「生きていたのか」とかすれた声で呟き、目を細めると満足げに微笑んだ。
『誤解していたとはいえ、私が行ってきた数々の非礼をお許しください、神武様』
「……私は……」
 諒闇のその時の表情は、血に塗れた野原で見たあの表情と全く同じ、今にも泣き出してしまいそうな表情だった。
『結を保護して頂いたこと、感謝いたします』
「それでも、彼女を危険に晒したのは私です。その責は負うつもりです」
 その言葉とともに彼女の儚さは消え、代わりにその笑顔には揺ぎ無い決意と信念が伺えた。
『私は刀鍛冶。神武様が望まれればいつでも、貴方の剣となりましょう』
 そう言って諒闇を見つめると、彼は首を傾げた。
『しかし、貴方の罪は……』
 男の声は学校のチャイムの音によって掻き消され、チャイムは教会の弔いの鐘のように鳴り続ける。男は鐘の音に闇へと送り届けられるかのように、消えていった。

「……一つ、聞いていいか」
 終わりましたと諒闇が簡潔に告げ、先生は先に階段を降りて行く。諒闇がその後に続く前に僕が声をかけると、彼女は何も言わずに振り返った。
「誰だったか僕は覚えていないけど、『一人殺せば殺人犯だが、百万人殺せば英雄だ』って言った人が居る。二人は、これについてどう思う?」
 神は答え方を相談するかのように、意見を求めて諒闇を見、諒闇は小さく頷いて彼女を促した。
「……じゃあ、私は殺人犯にも英雄にもなれない、中途半端な存在なんだね」
 神の答えは暗に、彼女が人を、少なくとも二人、殺したことがあると言っている。
「……諒闇」
「愚問です。殺人犯であろうと英雄であろうと、それではどちらも人殺しに過ぎません。殺人犯と英雄の差は殺した人数ではなく、両者の違いは当時の時代背景による人々の思い込みだけです」
 神は諒闇のきっぱりとした物言いに、居心地悪そうに視線を逸らした。


 その後、諒闇はすぐに転校してしまった。彼女の目的であった幽霊の成仏は果たされたから、もうこの学校に用はないということらしい。
 あれ程仲がいいように見えた神ですら、諒闇がどこに行ってしまったのかは知らないし分からないと言い、華鏡には黙秘権を行使されてしまった。
「どういう訳か分からないけど、中村君は幽霊を見ることが出来る。特殊能力みたいなものでね」
 自分のことを知るくらいいいんじゃないかという理由から、神はぽつりぽつりと何が起こっていたのかを話してくれた。
「中村君が一番最初に見たのは華鏡。普段は雅沙羅と行動してるんだけど……」
『……』
 どうして神たちと行動を共にしているのかと僕たち三人が視線で問いかけても、彼は口を割らなかった。さっきから黙秘権ばかり行使されている。
「華鏡と諒闇は……その、恋人なのか?」
 一番気になっていたことを確認してみれば、案の定華鏡は顔を真っ赤に染め、ぱたぱたと否定するように手を振った。そんな様子に、神と雪風の二人はにやにやと笑う。
「やっぱ雅沙羅と華鏡の二人は、公認だよねぇ」
『ってぇかお前ら、隠す気もねぇだろ』
 助けを求めるように僕に視線を向けた彼に親指を立ててみせたら、彼は顔を真っ赤にしたまま俯いてしまった。というかむしろ、もう既にゴールインしているんじゃないかと思えてならない。
 ところで、と真面目な顔をして神が話題を変えてくる。
「中村君、あの幽霊と融合していた時、何を見たの?」
「え?」
 僕は思わず聞き返す。
 諒闇は自分も見ているかのように反応してきたから、てっきりあれを見たのは諒闇、神、僕の三人だと思い込んでいたが、彼女にも見えていなかったらしい。
「私は、何も知らないの。彼が誰であったのかとか、何で雅沙羅は最後まで私に手出しをさせようとしなかったのかとか、本当に何も。教えて。中村君は……彼は、何を中村君に見せたの?」
 雪風は今回は黙ったままで、口出しするつもりはないようだった。諒闇が教えさせようとしないし、自分から教えようともしないから、神が真実を知るのにはいい機会だとでも思っているのかもしれない。
「僕は、真っ赤に染まった野原に立っていたんだ。そしたら突然背後から左肩をやられて……」
 僕は言いながら右手を左肩に当てる。あの時感じた血のぬめりの感触が、蘇った。
「そしたら弓を持った巫女……多分諒闇が通りかかって、僕に何かを言いながら手を差し伸べてきた。僕はその手を振り払って、一瞬だけ見えたんだ。あいつ、平静を装ってたけど、心の中じゃ泣いてやがった」
「そんなことが……でも、本当なんだろうね、きっと。幽霊の記憶に、誤りはないから」
「それは」
 有り得ない。それでも、僕は確信していた。
「神も諒闇も、戦争を経験したということか? しかもあれは国内で起きた戦争……一番最後のはどう考えても戊辰戦争だ。二人とも、一体何者なんだ?」
 僕は桜を見、桜は僕を見る。桜はふっと視線を逸らして口元を歪めた。
「……だから、頭がいい人って嫌いだな。雅沙羅も中村君も、私が全部言わなくたって全部知って、分かってるんだもん」
 僕は嘘だと、否定して欲しかった。けれど桜の肯定に、心のどこか奥底でほっとして安心した自分が居た。
 きっと、この現実離れした一連の出来事に深く関わっている二人も、現実離れした存在だと知って逆に安心、納得したのであろう。
「じゃあ、この百年、ずっとその姿のままなのか?」
 神は何も言わなかったが、それが肯定であることは僕には分かっていた。そしてそれはきっと、諒闇も同じなのだろう。
 けれど、どうして。
 幽霊を成仏させて回ることと、「生き」続けていることは関係しているんだろうか。
 それ以上に……これからどうする、どうなるんだろう?
「……許してもらえるまで、かな」
 僕の思いに応えるかのように神はそっと呟いた。
 誰に許してもらえるまでなのかは僕には分からないが、自分の意思ではなく、他人に生かされ続けているということだけははっきりとした。
「これからどうなるかなんて知らないよ。自分の過去だって、まともに覚えてないのにさ」
 神はそう言ってすぅっと目を細めた。屋上で消えて行ったあの幽霊の顔が重なった。

 遅くなってしまったから、といって華鏡がどういう心遣いかは知らないが、僕を家まで送ってくれた。
「神は、桜は……」
『桜なら大丈夫だよ。雪風がついているから』
 僕が言った意味を分かっているだろうに、華鏡は本気とも冗談とも取れるような発言をする。
「そういう意味じゃなくってっ」
 思わず声を荒げてしまい、僕は周囲を見回す。既に日の暮れた住宅街の道には、幸運なことに誰も居ない。
『心配するべきなのは桜じゃない。桜には、雅沙羅がいるから』
「え?」
 淡々と続けられた言葉に、僕は驚き聞き返す。
『気を遣ってやらないといけないのは雅沙羅の方なんだよ。いつも穏やかに笑っているから、気付かれにくいけど……』
 華鏡を振り返り、僕は言葉を失った。彼の顔は前髪のよって隠されていて見ることは出来なかったが、それでも華鏡の言葉から分かる。彼も、辛いんだ。
『僕はずっと雅沙羅の傍に居てきたけど、桜と一緒でほとんど何も知らないんだ。さっきの話だって、初耳だったよ……雪風は知ってたみたい』
「あんた、恋人なんだろ?」
『え、いや、それは……』
 華鏡は恥ずかしそうに顔を伏せると、にやにやと笑う僕を涙目で睨みつけた。
「少なくとも諒闇は、あんたといて幸せそうだったよ。僕こそ諒闇のことは知らないけど、信じてやって欲しいな」
 うん、と素直に、はにかみながら彼は頷いた。これは、神と雪風の二人がからかいたくなるのも分かる。数度こくこくと頷くと、彼はようやく顔を上げた。
 ……この顔、誰かに似ている。
『少し気が楽になったよ、ありがとう』
「どういたしまして」
 誰に似ているのだろうかと華鏡の顔をまじまじと見つめないようにしながら考えこんでいると、彼は少し躊躇ってから口を開いた。
『一つ、教えてあげる。確かにあの二人は罪を犯したのかもしれないけど、あの二人にその罪に対する責任はないんだ』
 僕に聞き返す間を与えず、華鏡は諒闇のところに行くと言って消えてしまった。


 僕が日本史の教科書の中に華鏡と良く似た人物を見つけたとき、僕も神も既に高校を卒業して離れ離れになっていた。




Eternal Life
月影草