闇の鐘



 高校からの帰り道、ふと前を見れば同じ高校の生徒が、同じ様に帰路についていた。
 すらりとした長身。綺麗に伸ばされた長い黒髪は、白い紐で後ろ一つに括られている。そんな後ろ姿には見覚えがあった。
 穏やかな物腰と誰に対しても丁寧な態度、そして頭の良さには定評があるB組の諒闇雅沙羅。「諒闇」という名字に良い顔をしない堅物の教師・保護者も多いが、彼女を憧れの眼差しで見つめる生徒が多いことも、また事実だ。
 そういや同じ方向だったかと思いつつも、特に親しい仲でもないので追いかけることもせずに、距離を保ったまま後ろを歩く。彼女は彼女で寄り道することなく真っ直ぐ帰宅するようで、振り返ることなく歩き続けた。
 そんな彼女が道路を渡る時に少し足を止めると、どこからともなく同い年くらいの小柄な少年が現れた。和服に身を包み、どこか浮世離れした雰囲気の彼は、後ろから見ていても分かる程にはにかみながら、嬉しそうに諒闇に話しかける。その様子はまるで、恋人のそれだ。諒闇自身にも浮世離れしたところがあるから、二人並んでも違和感などないどころか、むしろお似合いである。
 休み時間に、諒闇に浮いた話はないのかと、たまにそんな話題になることがある。だが、誰に対しても優しい笑顔を向ける彼女に恋人がいるなど想像もできず、結果、誰もが高嶺の花として手を出せずにいたわけなのだが、よもやそんな彼女に本当に恋人がいたとは。
 諒闇の、時折ちらりと少年に向けられる視線。そして一瞬だけ彼に向けられた微笑みに僕は思わずどきりとして、丁度よく突っ立っていた郵便ポストの陰に隠れた。もし諒闇が少しでも近くにいたのなら、この胸の高鳴りが聞こえてしまうかもしれない。そんな心配をせずにはいられない。そこまで動揺させる程、諒闇は今まで見たこともないくらいに綺麗な表情を浮かべたのだ。惜しむらくは、横顔しか見えなかったことか。
 ようやく動悸が落ち着いたところで顔を出せば、彼女はもう、見える範囲にはいなかった。
「……待てよ?」
 冷静になってみて、初めて疑問が湧いてくる。
「諒闇の奴、なんであんなに反応に乏しかったんだ?」
 あの、他人を大事にする諒闇にしては珍しいくらい、彼女は彼の方を見なかった。かといって邪険に扱っているのなら、あんな綺麗な笑顔を見せたりはしないだろう。

 あれは一体、誰だったんだ?


 クラスメートたちにまた明日と声をかけながら教室を走り出れば、同じように隣のクラスから走り出てきた女子生徒にぶつかり、僕はうろたえた。尻餅をついた彼女は、驚いた顔をしている。
「ご、ごめん、大丈夫か?」
「こっちこそごめん。うん、私は大丈夫だよ」
 そう答えると、彼女はぱたぱたとスカートを払って立ち上がる。
 肩のところで切り揃えられた綺麗な黒髪に、今自分が追いかけようとしていたクラスメートの女子生徒を連想したが、すぐさま否定した。髪の長さも違えば身長も結構違うし、性格だってかなり違いそうで、似ているの黒髪と言うそれだけだ。
「い、急いでたんだよね。本当にごめん」
「いや、別に。そっちこそ急いでたんじゃ」
 確かに急いで教室から飛び出したわけなのだが、本当に急がなければならないような用事が僕にあったわけではない。むしろ心配すべきなのは彼女の方だ。あれだけ慌てて教室から飛び出してきたんだ。用事がないわけではあるまい。
「いや……特に急ぐ理由はないんだけど、できればちょっとある人を捕まえたかったんだ」
 諦めの入った表情に、なんとなく彼女が追いかけている人物が分かってしまった。恐らく、目当ての人物は僕と一緒だろう。
「それってさ、諒闇?」
 彼女は目を見開き――それは僕にとって肯定と同義だった――丸くなった目を僕に向けた。
「まさか中村君が追いかけてたのも……」
 彼女を追いかけている時点でまるで僕が諒闇に惚れているみたいじゃないかと思うと非常に気まずくなり、肯定も否定もできずに僕は乾いた笑みを浮かべた。
「二人とも苦労するよねー」
 しかし、彼女から帰ってきた答えは僕が予期していたものと全く異なっていて、今度は僕が驚く番だった。
「雅沙羅捕まえるなら、朝とか休み時間がいいよ。授業終わるとすぐ帰っちゃうから。私も仕方ないから今日は諦めて明日にする」
「お前さ、諒闇と仲いいの?」
 余程彼女は諒闇を探し慣れているのか、そんなアドバイスをくれる。雅沙羅と呼び捨てにしているのもあって、そんな疑問が口を滑り出た。
「うーん……どうなんだろう。仲がいいっていうよりは、腐れ縁?」
「幼馴染?」
「まぁ、そんな感じ」
 苦笑した彼女は廊下にかかった時計を徐に見上げると何を思ったのか、僕の肩にぽんと手を置いた。
「雅沙羅、もう学校いないだろうから、私は帰るね。それじゃ、そっちも明日こそは頑張って」
 ぱたぱたと廊下を走っていく彼女を、僕はぼんやりと見送った。


 諒闇は僕たち一般の生徒からすると、とにかく高嶺の花なのだ。だから個人的なことを教室内で話すのはためらわれ、かといって呼び出す勇気もないので、休み時間に教室を出て行く彼女を追いかけるしかない。話しかけてきたクラスメートを適当にあしらい素早く出てきたつもりだったんだが、諒闇の後ろ姿すら見えなかった。
 仕方なく彼女が行きそうなところを考えてみた結果、僕は図書室に足を向ける。いなかったら次はどうしようなどと考えながら入れば、声をかけられた。諒闇と幼なじみらしい、おかっぱの髪の小柄な女子生徒だ。
「あ、中村君。雅沙羅なら来てないよ」
「また君か」
 女子生徒は「最近良く会うね」と笑う。
「何で今日も僕が諒闇を探していると?」
「あれ、違った? 昨日の今日だし」
 彼女が諒闇と僕の関係を誤解しているのではと、少し心配になったが、そう言って首を傾げる仕草からして、適当に言ってみただけのようだ。
「あぁ……でも、僕は諒闇と同じクラスに居るのに?」
「んー、確かに昨日は休み時間の方が良いとは言ったけど、休み時間もあんまり教室いないでしょ?」
 上目遣いに見上げてくる視線が、「違う?」と聞いてきていた。さすが、諒闇と仲がいいだけあって諒闇のことを良く知っている。
「さすがだな。で、どっか心当たりとかあるか? あると助かる」
「なんだ。やっぱり雅沙羅目当てなんじゃないの」
 自分でも分かるほどに僕は顔を顰め、嫌そうに「紛らわしい事言うな」と言っていた。彼女はそんな僕を見て、図星だとかきっと思っているのだろう、楽しげにくすくすと笑う。
「うーん、そうだね。私だったらあと、屋上を確認するかな」
「屋上?」
 僕は聞きなれない単語を耳にした子供のように反復し、聞き返していた。また何とも諒闇に似合わない場所だ、と一瞬思ったが、想像してみると意外とありえそうで、しかも屋上に立つ姿が妙に良く諒闇に似合って、……寒気がしたのは気のせいか。
「一緒に行く? あ、でも私邪魔になるかも」
「別に。特に大した用件があるわけじゃないし。……そういやさ、名前は?」
 今更という気がしないでもないが、聞かないよりはマシだろう。
「あれ? 知らないんだっけ? 神 玉桜。桜でいいよ」
 ――彼女は「桜」じゃない。
 脳の片隅で、僕はそんな事を考えていた。よく分からないけれど、「桜」のイメージを持っているのは諒闇のほうであって、神じゃない。
「にしても、……桜さ、良く諒闇のこと知ってるよな」
「長い付き合いだから、ね」
 神は苦笑して僕の前を歩き始めた。

 神に続いて出た屋上に見つけた諒闇の姿に、僕はぎくりとした。
 彼女はただ佇んでいるだけなのに、柵さえなければ「自由になる為に」飛び降りてしまいそうな雰囲気がある。自殺でないだけに誰にも止められないまま実行されてしまうのではないか、そんな恐怖に駆られたのだ。
「おーい、雅沙羅」
 神はそんな諒闇の様子を気にするわけでもなく、諒闇に声を掛ける。もしかしたら気付いてすらいないのかもしれず、気付いてない、気付かないからこそ、神と諒闇は友達と言う関係を築けるのかもしれない。
「ここにいる中村君が雅沙羅に用があるってよ」
「え……? すみません、気付かなくて」
「いや、僕は……」
 今更と思いながらも気まずくなって否定しかけるが、諒闇の返答に神が小首を傾げたのを見て、他人に対してあんなに敏感な彼女が「気付いていなかった」こと自体が異常であると悟る。
 と、背後の階段の方から声をかけられた。
「やっぱり二人。ここに揃ったのね」
 振り向くと、階段の所には中年の先生が立っていた。
 神は明らかに戸惑っていたし、僕もその先生との面識などない。唯一落ち着いているのは諒闇だが、彼女のどこか感情のない表情から、先生との関係性を割り出すことは難しい。
「……人違いの可能性は?」
 口を開こうとしない諒闇を見、躊躇いがちに神はそう先生に尋ねた。
「ないと思うわ。本当に、永遠の命なんていうものを持っていたとはね、諒闇さんに神さん。いえ、桜と呼んだほうが正しいのかしら」
「永遠の、命?」
 突拍子もない言葉に目を丸くし、僕は思わず神の顔をまじまじと見つめる。どう返そうか悩んでいるらしい神を横目に、諒闇が屋上の柵から離れて僕たちの方に寄って来る。
「命とはいつかあの世に還りゆくものですから、この世での永遠の命はありえません」
 まず聞かれたその言葉に僕が安心したのは言うまでもない。だが、僕は薄々気付いていた。この場に留まっていれば、すぐに僕の常識など通じなくなるだろう。
「お久しぶりですね、山中先生」
 平然とこの先生と二人は以前会っていることを挨拶で肯定し、神は躊躇いがちに顔を伏せた。
「で、今回は何をやらかしたのよ、桜は。前回は諒闇さんも一緒だったんだし、ふたりでミスしたって言う事はないでしょう?」
 その口調は、二人を責めていると言うよりは呆れている方だ。
「別件です。あの件は既に終わっていますので、ご心配なく」
「そんな訳にはいかないわ。いつもいつも、あなたたちが現れるときは決まって不可解な事が起こるんだもの。今回だって、そうなんでしょう?」
「うわぁ、疫病神的な扱いだなぁ……」
 神は先生と諒闇が普通に話している事で観念したのか、顔を上げて口調を崩した。そうなると、更に部外者である僕の居場所がなくなってくる。
「……あの、僕、席外そうか?」
「そうですね……内輪の話ですし」
 諒闇の同意を受けて、僕はほっとした。僕だって、こんなわけの分からない何かに巻き込まれるのは御免で、諒闇とはまた別の機会に改めて話せば良いと、先生の脇をすり抜けて教室に戻ろうとした。
 困ったような、焦ったような、表情で僕を引き止めたのは神だった。
「待って中村君っ。雅沙羅、これは、中村君にとって全く関係のない話じゃない。それは……雅沙羅も知ってるでしょ?」
「やっぱり何かあるのね。暗殺計画かなにか?」
 軽く投げかけられた言葉の内容に僕は愕然とした。ただどちらかといえば先生は何かを推し量ろうとしているようで、それを分かっているのかいないのか、諒闇は寂し気な笑顔を返す。
「暗殺計画? 幾ら先生だからって、それは冗談きつい……」
 尻窄みにはなってしまったが、それでも、僕は諒闇を庇いたかったんだ。
「仕方ないですよ。先生の役目は生徒を守る事ですから」
 彼女の物言いはまるで、本人が生徒でないと暗に告げている。いてもたってもいられなくなったのか、神が僕を指して口を挟んだ。
「待ってよ、それこそ今関係ないし。それより中村君の話を聞いてって!」
「え、僕?」
 神の一言に、思わず僕は目を瞬かせた。僕が訊きたかったのは、単に諒闇と嬉しそうに話していたあの少年のことで、それこそ今は全く関係ない筈だ。だというのに、神も先生も、諒闇までもが僕の言葉を待っている。
 いたたまれなくなった僕は視線を逸らし、躊躇いがちに白状した。
「彼……あの着物の彼は、誰なんだ?」
 諒闇は、確実に知っている。神も驚かなかったし、今までの話からしても何かは必ず知っているだろう。先生だけは心当たりがないようで、顔をしかめた。
「あなたに彼……彼らが見えることは自然ですので心配していません。なので桜、この件からは手を引いていただけますか?」
「え? だって、雅沙羅……いいの、中村君引き返せなくなっちゃうよ?」
「は?」
 諒闇の言い回しからすると、彼が見えないことの方が一般的なようで、しかし僕に見えることは異常ではなく、それに干渉しようとした神の方が問題なようだ。そして神は諒闇の意見に反対だと。
「桜……だ。これ以上……」
「ゆ、雪風?」
 風に乗って聞こえてきた声に、神は慌てたように周りを見回す。つられて僕も見回しかけて、誰にもいないはずの後ろから後頭部を強打された。
「か、華鏡何やってんのっ」
 どうやらもう一人いるらしい。僕の背後には誰もいないと思っていたのに。だが、神の声に鼓動するかのように声が聞こえたのは僕の背後、階段のほうからではなく、諒闇が立つ柵の方からだった。
「……どうしてバレたかな?」
 まだ若い少年の声だ。どうもこの場には「奴」のような連中が少なくとも三人はいるらしい――そこで僕の意識は闇に落ちた。




Eternal Life
月影草