彼女と彼女の話


 はぁ、はぁ、はぁ。
 狭い路地裏に、荒い息づかいが響く。足音もなく走っていた女は、落ちて来た前髪を邪魔そうに掻き揚げる。
 この街に残ると決めたあの日から、こんな日が来ることは彼女も予測していた。けれど——離れられない理由があった。
 守るべきものがあり、それは自身ではなかった。
 捨て去ることなどいつでもできただろうに、それを彼女はあえて拾い上げて来たのだから。
「そこまでだ、魔女めっ!」
 彼女を追い込むように、少年二人がじりじりと間合いを詰める。
 見覚えのある眼差し。聞き覚えのある声。
 彼女の背後には、まだ道が続いている。逃げ切ろうと思えば、それができる可能性もまだ、少しは残されている。
 けれど、いかなる手段を講じても逃げようとまでは、彼女には思えなかった。
 ならば最早これまでだろうかと、「魔女」は涼やかな蒼色の双眸を閉じ——



 ——誰かに呼ばれたような気がして、リアはふと顔を上げた。だが、ウィンドベルから一人で乗った乗り合い馬車の中にはどことなく気まずく、遠慮がちな空気に満たされているし、彼女の知り合いもいない。
 空耳だろうかと、彼女は後ろへと流れていく風景を見やった。二年前、逆向きにこの道を通った時には全く知りもしなかった、のどかな風景だ。
 窓から流れ込んでくる春先の風は、まだひんやりとしている。けれど日差しはぽかぽかと暖かく、コートだなんて必要ない。
「……と、思うんですけどね」
 ぽつりと呟いて、自分の膝上にあるコートに視線を落とした。
 ちょっと隣町まで行ってくると、それだけ告げたら、心配性をこじらせた青い僧侶はまずついてくると言い出し、断ったら、ならばせめて着ていけと無理に持たされたのだ。何の変哲もない普通のコートが、有事の際に役に立つとは思えない。
 一人で行くことを彼に納得させるまでに時間がかかったことも忘れてはならない。あの異国出身の剣士や、子持ちの傭兵やらが、数人がかりでなんとか説得してくれたのだ。
 馬車が走る内に、段々と雲行きが怪しくなってくる。青かった空はうっすらと雲に覆われ、その雲も黒みを増して行く。窓から入って来た、今すぐにでも雨が降り出しそうな湿度が、肌をべたつかせた。
 なんとなく寒くなって、リアは持っていたコートを大人しく着ることにした。



「あそこの街ってどーなってんの」
 いかにもどうでもよさそうに、黒い剣士があくびをしながら誰にともなく聞く。
「どうって、何がだよ」
 リアが一人で行ってしまったことがそんなに心配なのか、落ち着きなく酒場の中をぐるぐると歩き回っている青い僧侶が、剣士の呟きに反応した。
「んー? だってさ、隣だってのに全く噂にも上らないって、ある意味異常じゃねーか?」
「うん、まさにその異常な状態なんだと思うよ」
 のんびりとした口調で金髪の医者がとんでもないことをさらりと言ってのける。瞬間の反射で顔を蒼白にしたのは、当然僧侶だ。
「異常って、どんな風にだよ!? やっぱリアを一人でやるんじゃなかった、俺も一緒についてけば…っ!」
「まず、何か飲むべきだと思うなー。ほら、おねーさんが良いものあげるよー?」
 医者に掴みかかりそうな勢いの僧侶に、緑の薬師が横からガラスのコップを差し出す。中に入っているのは、なにやら紫色をした、怪しげな粘り気を持つ液体だった。
「何だよ、その明らかに見た目危険物は!? お前は俺に一体何飲ませるつもりで何を作ったんだよ!?」
「おねーさんじゃないよ、おとなりギルドからだよ?」
「なんだ、おとなりギルドからか……って、やっぱ危険物に変わりはねぇよな!?」
「で、異常な状態って?」
 怪しげな液体の押し問答を始めた僧侶と薬師を横目に、我関せぬ態度で剣士は医者に話を振る。
「あぁ、あの街で昔、権力闘争があったのは知ってる? 昔って言っても、まだ10年くらい前の話かなー」
 隣町で長く続いた独裁政権は、民衆の自由意思を握りつぶし、彼らの富と幸せをも奪っていった。
 しかし、そんな独裁政治は、民衆が周囲の街や国々から隔離されて初めて成り立ち、完成するもの。内に引きこもりがちであった住民はやがて街の外にその目を向け始め、そして気付いた。気付いてしまったのだ、かの街の異常さに。
 「自由」を求めた民衆はやがて蜂起した。
 軍とぶつかりあい、数多もの犠牲を払った。
 そして、勝利した。
「……はずだったんだけどね。民衆を率いた人たちが、民主主義を銘打って政権を取ったんだけど」
「え? でもあそこって確かまだ個人の自由意志は認められてなかった気がしたんだけど、民主化してたのかよ?」
 ようやく薬師にカップを下げさせた僧侶が、ようやく落ち着き、机を挟んで医者と向かい合うように椅子に座る。
「おねーさん分かっちゃった。その政権取った人たちが、元々の軍部と繋がってたんでしょ」
 正解、と医者がやはりのんびりとした口調で肯定する。
「で、その、一応民主化したってのが大体10年前ってことか」
「そういうこと」
 政権は軍の代わりとして、街の治安が乱れぬようにと警備団を設立した。そして街の警備は、先の騒動で親を失った子供たちの手に託されたのだ。
 そして、彼女もまた——



 彼女は、守ってきたつもりだった。
 通りすがりのまま通過していたのならば、こんなことにはならなかっただろうと、細い路地裏を駆け抜けながら彼女は思う。だが見て見ぬ振りをせず、民衆の蜂起に加担したことで、彼女は警備団からの「指名手配」を受けた。
 それでも、彼女は守りたかった。
 たまたまこの街を訪れたあの日、一面の炎の海の中で争う大人たちをただ見つめていたあの女の子を。笑うことも泣くこともせず、全てを捨て去ってしまったような、そんな悟りきった表情で佇んでいた、女の子を。そして、そんな女の子と同じ状況であろう、この街の子供たちを。
 ——これは彼女も後から知ったことなのだが、その女の子の父親は時間の流れる速度を変える魔法を、そして女の子本人は「固定化魔法」を、かなりのレベルで駆使していた。親から子へと同じような魔法の素質が受け継がれることは多々あることだが、ここまで違う種類の魔法の適正を持って生まれることは珍しい。
 だから、恐らくその能力は後天的なものなのだろうと、彼女は思った。
 時間の流れに逆らうことは基本的に誰にもできず、抗う術はない。しかし、その女の子の魔法ならば、時間が変化させる「状態」を固定してしまうことで、父親の魔法に抵抗できるのだ。
 父親の使う魔法が嫌で嫌でたまらなくて、だからこそ必死になって女の子はその魔法を身につけたのだろう——そんな理由で魔法を修得し、そんな魔法で身を守っていることの不憫さ。「自由」を知る彼女には、そんな環境に子供が置かれていることに耐えられなかった。
 指名手配を受けている以上、彼女が子供たちを表立って保護する訳にはいかなかった。特に、能力ある子供たちが警備団によって良いように使われていたとしても、それが彼らを「守って」いるのならばと目を瞑り続けた。彼らが成長し、独り立ちできる年齢になるまでは。
 少年・少女になった彼らに接触し、彼女は一体何人逃がしてきただろう。自ら縋り付いて助けを求めて来た子供たちだ。きっとこの街の外で、元気でやっているに違いない。
 背後に熱気を感じ、彼女がとっさに身をよじれば、赤く燃え盛る炎の鞭がその腕をかすめた。腕に走った鋭い痛みに、彼女は僅かに顔をしかめる。が、後ろは振り返らない。反撃できない彼女にとって、それは命取りでしかないからだ。
 ふと、旅をしていたあの頃の情景が彼女の脳裏をかすめた。仲間たちと共にあったあの日々は、全て、目の前に立ちふさがるすべてを破壊し尽くせばよかった。そしてそれは、彼女の性にもあっていた。
 けれど、今ここで彼女が自分自身の身を守る為だけにそんな威力のある魔法を使ってしまったらどうなることか。それは全てを吹き飛ばすだろう。彼らも、彼女が守ろうとした子供たちも。
 彼女にはできない。たとえ、今、はっきりとした敵意を彼らから向けられていても、幼少の頃から見守って来た子供たちだ。いつかは逃がしてやろうと、思い続けて来た子供たちだ。
 逃げ切ることが出来なのならば、せめて。
 足を止め、彼女は振り返る。
 少年の一人が扱う炎の鞭が、彼女をいたぶるように空を切る。もう一人がタイミングを計っているのが分かる。接近戦が得意な彼に打ち込まれれば、彼女は保たないだろう。
 そう彼女は冷静に判断し。
 炎の鞭が退いた一瞬を突いて飛び込んで来た彼を見据え。
 彼女は、覚悟した。

「目標、固定化します」

 そんな彼女の耳に、聞き覚えのある少女の、凛とした声が、届いた。

「お前、ノインかっ!?」
 炎の鞭を固定されてしまった彼は、振り上げた腕を下ろすこともできずに、突然軽い足取りで現れた少女を睨みつける。もう一人は飛び込む体勢で固定化されてしまった為に、姿勢に無理があるのだろう。見せないようにしてはいるが、段々と息が上がって来ているのが見て取れる。
「違います。ただの通りすがりです」
 涼やかな表情であっさりと否定した少女リアは、彼女に笑顔を向けた。
 再会した二年前の陰鬱で、痛々しげだった様子はない。少し身長も伸びたのだろうか。いや、自信がついたのか、態度が堂々としている為に成長したように見えるのかも知れない。
 逃がして良かったと、彼に預けて正解だったと、彼女は頬を緩めた。
「ノインなら覚えてるだろっ! こいつはあの、指名手配犯だ!」
「この街で誰が指名手配になっていようと、私には関係ありませんし知りませんね。私はこの街の住人ではありませんので」
 あっさりと言い切ったリアは、興味なんてはなからないとでも言うように、彼らにくるりと背を向けた。



「リア」
 追いかけて来た声に、リアは足を止めた。
 彼女の声は覚えている。否、どうして忘れられようか。こんな街から救い出してくれた、彼女の声を。
 リアには、彼女に言いたいことが沢山あった筈だった。だからわざわざ、思い出したくもないこの土地に足を運んだのだ。けれど、いざ彼女本人を目の前にしてみると、何の言葉も出てこないのがもどかしい。
「……次はないと、先に言っておきます」
「元から期待していないと、私も言っておきましょう。子供は大人に守られるべきで、逆はあり得ません」
 だから来なくていいと。
 リアが心配することはないのだと。
 リアは少し俯いた。零れそうな涙は、彼女からは見えないだろうけれど、泣きたいようなそんな気持ちは、伝わってしまっているかも知れない。
「自己犠牲を払っての英雄気取りですか? いい加減にしてください。まぁ、あなたがそれで満足しているというのならば、私はあえて止めはしませんけどね」
「上等です」
 短く満足げに帰して来た彼女に、それでも心配しているというリアの想いは、伝わっただろうか?
 いや、伝わってはいるのだろう。彼女は、そんな「子供たち」の想いを全て受け止めて尚、ここに留まるのだろう。自分の人生を賭して、手を差し伸べ続けるのだろう。
 ならばリアは、前を向いて走り続けなければならないだろう。全てを投げ打った、彼女の人生をも背負う覚悟で、生きて行くべきなのだろう。
 一つ頷いて、リアは走り出す。
 彼女はもう、引き止めなかった。







<言い訳>

彼女の話です。
リアの過去編にちらりと出した彼女。エピローグで秋待さんが拾ってくださって、私も彼女のことが気になり、こうして一本書くまでに至りました。
最初は、彼女が気まぐれに訪れた時に焦点をあてようかとも思ったのですが、全然まとまらなかったのでこのような形になりました。
彼女がリアを逃がした理由、指名手配をされながらも未だにあの街に留まる理由、そんなものをちょっと表現できたら、なんて。あ、彼女の回想に出て来た女の子=リアです。皆さんお分かりだとは思いますが。

考えたけれど結局使わなかった設定:
リアの母:くすんだ金髪・緑色の瞳
リアの父:茶髪・茶目
 →リア本人の目の色は、緑がかった茶色、にしようかなー、なんて?(笑)
彼女の名前はビアトリス、とかも考えていたのですが、こちらも出さずに終わりましたね。


何か問題がありましたら、ご連絡くださいませ。



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