30分小説 お題「宵の月」
それは、薄っすらと微笑んで――
「さっきから何やってんだ?」
気配を殺して背後からひょっこりと現れた黒い剣士に驚くこともなく、赤い魔女は「待っているんです」と簡潔に答えた。
「何を?」
「月を」
にこりともせず無愛想に――否、彼女はいつも笑顔なのだが――返され、彼はほーとやる気のない返事をした。
彼女は窓辺に座っていた。日没後で、確かにそろそろ月が昇ってくるころであろう。けれど、彼女は空を見上げていない。ならば空に昇る「月」を、彼女は待っていない。
「月ってぇのは、なんだ、ついに空から落っこちてきたのか?」
「そうとも言われていますね」
なんだか、齟齬があるらしい。
だが、その思い違いが分かっていても、今日の彼女は解説してくれないような気が、彼にはした。普段ならば解説してくれたかといえば、それは結局彼女の気分次第であるのだが。
彼女が見つめているのは、平たい器に入れられた水。窓から流れ込んできた風が、その水面を揺らしていく。
「で、結局何待ってんだ?」
「月だと、さっき答えたでしょう?」
「月、ねぇ」
窓から彼が空を見上げれば、木々の合間から月がゆっくりとその顔を覗かせる。
満月よりも、少し欠けた月。
「あ……」
彼女の小さな声に、彼は彼女を見やる。相変わらず、じっと器を眺めていた。
先程彼が声をかけたときには全く驚かなかったくせに、今は少しだけ驚いたような表情だ。
ふと、器に視線を落とす。
月が写りこんだ水面。
風なんてぴたりと止んでしまったというのに、その水面は酷く揺れている。
いや、揺れているんじゃない。何かを中心に投げ込んだように、波紋が広がっているのだ。
彼女は器に触れていない。
何かが空から落ちてきているわけでもない。
じゃあ、何故?
吸い寄せられるように彼もその水面を覗き込み――
「……っ!」
――反射的に、それを叩き落した。
がちゃんと音を立てて器が落ちる。
ばしゃりと音を立てて水が零れる。
「あー……悪ぃ」
「……いいえ」
ずっと、待っていただろうに。
水も、かかってしまっただろうに。
彼女は、ただ笑う。
「いいんです。多分それが、正しいんですよ」
変わらぬ笑顔で器を拾い上げ、赤い魔女は去っていく。
結局彼女が何を待っていたのか、黒い剣士には分からない。
2012/1/21
夢裏徨「月影草」
ものかきギルド企画